第五十二章:最後の宿題と、光り輝く旅路
静寂が、厚いガラスに隔てられた二人の間を、ゆっくりと満たしていく。
彼岸は、激しく泣きじゃくる鶫を、まるで聖者のような慈愛を湛えた瞳で見つめ、柔らかな声で答えた。
「私に救われたと思って下さる事、嬉しく思います。私のような、何もない空っぽの存在でも、誰かの救いとなれたのであれば、これに勝る喜びは御座いません。」
彼は、自らの「無」を肯定するように、一点の曇りもない微笑みを鶫へと向けた。
「救われたと思って頂けたのであるならば……鶫さん、どうかそのまま、救われ続けて下さいまし。それが、私にとって何よりの手向けとなります。」
彼岸の声は、震える鶫の心を包み込むように、優しく、そして力強く響く。
彼は、遠く広がる浄土を見つめるかのような眼差しで、静かに言葉を継いだ。
「人の痛みを知り、絶望の深淵から立ち上がろうとする鶫さんこそが、いつか同じように苦しむ人々を救う存在となるのです。だから、私の最後のわがままを、どうか聞いて頂けませんか?」
彼岸は、重力から解き放たれたかのような軽やかな所作で、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
ガラスの向こう側で、彼は背筋を真っ直ぐに伸ばし、一人の人間として、鶫と真っ向から向き合う。
「音無鶫さん。どうか、生きて下さい。願わくば、これからの貴方の歩む道が善き縁に恵まれ、光溢れる善き人生となります事を、心の底より、切に願っております。」
最後の願いを口にした彼は、慈悲に満ちた表情で静かに両の手を合わせた。
深々と、そして丁寧な所作で合掌してお辞儀を捧げると、彼岸はそれ以上何も語らず、ゆっくりと踵を返した。
彼の背後にある、死へと続く無機質な扉。
迷いのない、凛とした足取りで、彼はその闇の向こう側へと歩み出していく。
「彼岸さん! 待って、行かないで! 彼岸さん!!」
鶫は必死に叫び、ガラスの壁を拳で激しく叩いたが、冷たい透明な境界が彼を繋ぎ止めることはなかった。
彼岸の背中が扉の奥へと消え、完全にその姿が見えなくなった瞬間、鶫の全身から力が抜け落ちた。
「ああ……っ、あああ……っ!」
彼女は椅子から滑り落ちるように床へと崩れ落ち、声を押し殺して激しく咽び泣いた。
両手で顔を覆っても、指の間からは止めどなく涙が溢れ出し、冷たい床を濡らしていく。
暗い部屋に取り残されたのは、絶望から救い出してくれた尊敬する恩人を失った少女と、彼が残した「生きて下さい」というあまりにも重く、温かい宿題だけであった。
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