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死者選定  作者: 修羅観音


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第五十章:自己愛の真理と、逸脱せし魂

ガラス越しに見つめ合う二人の間には、もはや言葉を遮る物理的な壁以上の、死生観の隔たりが横たわっているかのようであった。

鶫は、震える指先を冷たいガラスに這わせながら、喉の奥に詰まった澱みを吐き出すように問いかけた。


「彼岸さんは……恨んでいないんですか? あんな身勝手な言い分であなたを死に追いやったあの人たちの事……。そして、何一つ変えられなかった、無力な私の事……。」

その声は、絶望の淵で震える小鳥の羽ばたきのように儚く、しかし切実な響きを帯びていた。


彼岸は、波一つ立たない静かな湖面のような眼差しを彼女に向け、迷いのない声音で答えた。

「何も、恨む事は御座いません。この身に降りかかる全ての事象……すべては因果の流れの中に御座いますからねえ。」


「だって……あんなの、あんまりじゃないですか。彼岸さんがどれだけ皆のために尽くしてきたか、私達はこの目で観て知っているはずなのに……。」


鶫が必死に言葉を重ねようとすると、彼岸は穏やかに制するように、静かに語り始めた。

「鶫さん。仏教に、こういう話が御座います。少しだけ、耳を貸して頂けますかな?」

彼は、あたかも寺院の講堂で法話を説く僧侶のような、慈愛に満ちた口調で教えを紐解き始めた。


「プラセーナジット王……パーリ語ではパセーナディ王とも呼ばれるのですが、その偉大な王が、ある時、最愛の妻であるマッリカー夫人にこう尋ねたのです。『この世で一番愛しいのは誰か』とね。」


彼岸はゆっくりと、仏教の話を続ける。


「王は心のどこかで、夫人が『それは王であるあなた様です』と答える事を期待していたのでしょう。しかし、夫人の答えは意外なものでした。彼女は真っ直ぐに王を見つめ、『それは自分自身です』と答えたのです。そして、夫人が王に同じ問いを返すと、王もまた己の内面を見つめ、認めざるを得ませんでした。『実は私も、自分自身が一番愛しい』と。」


彼岸は、鶫がその衝撃的な告白を咀嚼し、言葉の意味を飲み込むのを待つかのように、一度言葉を切った。

そして、彼女が驚きに目を見開くのを見届けてから、彼はさらに深い微笑を浮かべて続きを話し始めた。


「そこで、御夫妻は仏陀ブッダ……日本では御釈迦様や釈尊と言う呼び名でも知られておりますが、仏陀の元を訪れてこの正直な思いを打ち明けたのです。すると、仏陀は静かにこう説かれました。」


彼岸は一呼吸おいて、またゆっくりと話を再開する。


「『自分を一番愛しいと思うことは、人として当然の事であり、他の人々にとっても自己は非常に愛しい。だから、自己を愛しく求めるものは他を害してはならない。』と。」


彼岸の声は、教誨室のような静寂に吸い込まれていく。


「この話は、誰もが自分が一番可愛いと思い、自分自身を一番に愛しているものであり、だからこそ、他者も同様に自分を愛しているものである。故に他者を害する事無きように、という教えや、自分に置き換えてみるという『自他交換』の教えに繋がるのです。自分がされて嫌な事は他者にしない、と言うお話をする際に、しばしば引用される仏教の教えで御座いますよ。」


彼は、悟りを開いた者のような透明な笑顔を崩さずに言葉を締めくくった。

「このように、皆さんは御自身の生命を愛し、身を守るためにとられた選択であり行動だと、この話について私は受け取っております。生命あるものが自らを守ろうとする本能を、責める事は何も御座いません。」


「でも、それだと彼岸さんはどうなんですか?」

鶫は、納得できないという思いをぶつけるように、椅子の背もたれから身を乗り出した。


「彼岸さんは、彼岸さん自身を一番愛しているとは、どうしても思えません。この数日間、一緒に過ごした日々を思い返すと、あなたはいつだって自分の事より、他人の事を優先していました。そんな彼岸さんが、彼岸さん御自身を一番愛しているとは……どうしても、そうは思えないんです。」


鶫の真っ直ぐな訴えに、彼岸は一瞬だけ驚いたように目を見開き、その後、これまでにないほど深く、愛おしそうに目を細めて彼女を褒め称えた。

「やはり、鶫さんは物事をよく見ていらっしゃり、物事の奥底にある本質まで観る事が出来る方です。そして何より、とても優しい。」


彼岸は、ガラスの向こう側で楽しげに、しかしどこか寂しげに肩を揺らして笑った。

「確かに、全ての人がこの教えの枠内に当てはまるとは限りません。まあ、そういった意味でも、我々はあの閻魔さんに『イレギュラー』と認定されたのかもしれませんねえ。本来あるような人間の形から、少しだけ逸脱してしまった者同士としてね。」


「え……?」

鶫は、その「我々」という言葉に含まれた重みに、思わず驚いた声を上げた。


自分と、目の前の底知れない聖人。

二人が同じ「イレギュラー」として括られた事の意味を問い直そうとした瞬間、部屋の空気が微かに震えた。


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