第四十九章:透明な境界と、最期の対話
鶫は自室に戻ると、逃げ込むようにベッドに腰を下ろした。
柔らかなマットレスが沈み込む感触すら、今は自分の居場所を奪おうとしているかのように感じられ、ただただ膝を抱えて震えるしかなかった。
すると間もなく「コン、コン」と、無機質で硬いノックの音が部屋に響き渡った。
「はい……」
鶫が掠れた声で返事をすると、扉の向こうから「スタッフです。同行願います」という低い声が返ってきた。
彼女が重い腰を上げて扉を開けると、そこには先ほど彼岸を連行して行った、あの屈強な4人の男たちが、壁のように立ち塞がっていた。
「こちらへ」
男の一人が短く指示を飛ばし、鶫を促す。
施されるままに廊下を進むと、昨日まで二人で「三昧」について語り合いながら内職に励んだ部屋の前を、虚しく通り過ぎていく。
カツッカツッという自分たちの足音だけが空虚に響く中、辿り着いたのは、これまで一度も足を踏み入れたことのない未知の部屋であった。
分厚い扉が開かれ、中に入ると、そこは妙に贅沢な、それでいてひどく不自然な空間であった。
部屋の真ん中を、向こう側が透けて見えるほどに磨かれた、しかし拳で叩いてもびくともしないであろう頑丈な厚みのあるガラスが、冷徹に仕切っている。
その仕切りを挟んで、向かい合う形で二つの豪華なソファのような椅子が並べられていた。
そして……そのガラスの向こう側の椅子の前に、彼岸が立っていた。
彼は、これから死の淵へ向かう者とは思えないほど、いつもの優しく全てを包み込むような笑顔を湛えてそこにいた。
「彼岸さん……! 彼岸さん!!」
鶫は弾かれたように駆け寄り、透明な壁に縋り付くようにしてガラスに張り付いた。
しかし、指先に伝わるのは氷のような冷たさと、決して超えることのできない絶対的な境界の感触だけであった。
彼岸はそっと掌を合わせてお辞儀をすると、落ち着いた所作で鶫に語りかけた。
「とりあえず、座りましょうか。せっかく立派な椅子を御用意して下さっていますから。お話しするのは、それからでも遅くは御座いませんよ」
彼はそう言って、何一つ変わらぬ穏やかな笑みを浮かべ、ゆったりと椅子に腰を下ろした。
「……はい。」
鶫は涙を拭い、吸い寄せられるように自分側の椅子に座った。
ガラス一枚を隔てて対面する、生者と、選定された死者。
「ガタン」と椅子が床を擦る音が、密室のような沈黙に吸い込まれていく。
すると、部屋の四隅に設置されたスピーカーから、ざらついたノイズと共に閻魔の声が響き渡った。
「急遽、2人を面会させたいと思いましてね。最後に、直接話をする機会を設けました。多数決という絶対的な理の中で、自らの名を書き、あるいは白紙を貫くというイレギュラーな事をした者同士、この極限でどんな会話をするか……非常に興味が沸きましてね」
「今回は、モニター越しではないのですねえ。閻魔さんの御配慮、深く感謝申し上げます」
彼岸が天井のスピーカーを見上げ、独り言のように穏やかな声で応じる。
「部屋の構造上、設置できなかっただけですよ。では、お互い話したいことがあれば、時間の許す限り好きなだけどうぞ。あ、念のために言っておきますが、『この企画を中止にしろ』だの『彼岸さんを助けろ』だのという泣き言は無しです。これは既に決定事項ですからね」
閻魔の冷酷な通告に対し、鶫は震える唇を噛み締めながら、ガラス越しの声に僅かな希望を託した。
「……どうあっても、何をしても、もう止められないんですか? 彼岸さんは、消えてしまうんですか?」
「はい。例外はありません。」
閻魔の答えは、あまりにも短く、あまりにも絶対的であった。
鶫の絶望を余所に、彼岸は再び真っ直ぐに彼女を見つめ、慈愛に満ちた表情で掌を合わせた。
「鶫さんと、こうして最後に言葉を交わす機会賜りました事、本当に嬉しゅう御座います。貴方のその清らかな瞳と向き合えるだけで、私はもう、十分に報われました」
彼岸は笑顔で合掌し、深々とお辞儀を捧げた。
その姿は、まるでこれから旅立つ先が地獄ではなく、光り輝く浄土であるかのようにさえ見えた。
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