第三十八章:閉ざされた鉄理と、孤独な残響
食堂を飛び出した鶫の耳には、自分の心音と、硬い床を叩く足音だけが不気味に響いていた。
冷え切った空気の立ち込める廊下は、まるで巨大な墓標の内部を歩いているかのような錯覚を抱かせる。
彼女はまず、常に論理的な正当性を振りかざす笠原慎介の部屋の前で足を止めた。
震える指先で鉄の扉をノックし、声を振り絞る。
「慎介さん、お願いです、少しだけ話を……!」
しかし、返ってきたのは扉すら開けようとしない、拒絶に満ちた冷ややかな声音だった。
「無駄だ。部屋に戻りなさい。君と話すことは何もない。既に結論は出ているはずだ」
その言葉は、冷酷な断罪の鉄槌となって鶫の胸に突き刺さった。
続いて、鶫は智弘の部屋を訪れたが、そこでもまた厚い壁が立ちはだかった。
「智弘さん、聞いて! このままじゃいけないの……!」
扉の向こうからは、極限状態による疲労と、現実から逃避しようとする焦燥の混じった溜息が聞こえた。
「もう寝るから。話なら明日の朝にしてくれよ。今は誰とも関わりたくないんだ」
対話を拒むその一言は、弱者が抱く微かな希望を粉々に砕くには十分な冷たさを持っていた。
鶫は縋るような思いで、最年長であり経営者としての顔を持つ美馬義彦の部屋を叩いた。
彼は一度だけ、重い扉を僅かに開けて鶫と対面してくれた。
しかし、その瞳には慈悲の欠片もなく、ただ「効率」を重んじる老獪な男の計算高さだけが宿っていた。
「鶫ちゃん、もう諦めや。中間選定の結果が、そのまま最終選定になる。それはもう、覆しようのない確定事項なんや。誰だって自分の命は惜しい。無駄な努力はやめて、はよ休みなさい。それが一番賢明な道やで」
まるで子供をあやすような、それでいて決定的な絶望を孕んだ口調で、義彦は彼女の言葉を遮った。
焦燥に駆られた鶫が次に辿り着いたのは、清水翼の部屋だった。
ノックする音に被せるように、中からは下卑た笑い声と攻撃的な言葉が飛んでくる。
「うるせえよ、それにもう俺は名前書いたもんね! どうせ、あの彼岸のおっさんが選ばれるのは決まり切った事なんだよ。お前がどんなに足掻いたところで、結果は5対2。数の暴力ってやつだよ、社会の縮図だな。なんであんな無能そうなおっさんに懐いてるのか知らねえけど……あ、お前ひょっとして、ああいう枯れた親父が趣味か? 気持ち悪いねえ」
翼の放つ毒液のような言葉に、鶫は奥歯を噛み締めて言い返した。
「……尊敬してる、彼岸さんの事。あの人は、あなたたちが思うよりずっと深く物事を観ていて、生きるべき価値のある人よ。そう、私なんかよりも、ずっと…‥。それを知らないあなたこそ可哀想だわ」
捨て台詞のようにそう告げると、彼女は最後の頼みの綱である幸子の部屋へと向かった。
幸子の部屋をノックすると、ためらいがちに扉が開き、疲弊した顔の幸子が姿を現した。
「……鶫ちゃん。多分、誰の名前をボードに書くか、その相談をしに来たんやろ? 彼岸さんの名前を書かんといて欲しい、そう言いたいんやんな」
幸子の声には、昼間とは違う弱々しさと、消しきれない罪悪感が滲んでいた。
「はい……。幸子さん、お願いです。誰の名前も書かないで欲しいんです。全員で白紙を出せば、何かが変わるかもしれないから……!」
鶫は、祈るような心地で深く、深く頭を下げた。
「……ごめんなあ。気持ちは痛いほどわかるよ。彼岸さんって、ほんまにええ人やもんね。一緒に洗いもんしたり料理してたら、あの人がどれだけ周りを気遣って動いてるか、手に取るようにわかるよ。料理とか洗い物とか、日々の家事をする人間にしかわからん小さな苦労や汚れ仕事、あの人は文句一つ言わんと引き受けてくれる。鶫ちゃんが懐くのも納得や」
幸子は優しく微笑み、鶫の瞳に宿る微かな希望を汲み取ったかのように見えた。
「それじゃあ……一緒に戦ってくれますか?」
鶫は幸子に縋るように、救いを求めるような瞳で訴えかける。
「……それでも、やっぱりアタシは……。アタシだけは生きて帰りたいんよ。誰かを犠牲にしてでも、日常に戻らなあかんのや。そやから……堪忍して。これ以上は言わんといて」
幸子の瞳に宿ったのは、一人の主婦としての、あまりにも生々しく、同時に切実な生存本能だった。
「今日はもう、部屋に戻って休みよし。あんた、ずっと気張りっぱなしで、なんや痛々しくて見てられへん。アタシももう、寝るさかい……」
宥めるような手つきで、幸子は静かに、しかし断固とした拒絶を込めて扉を閉めた。
暗い廊下に残されたのは、カチャリという非情なロックの音だけだった。
味方は一人もいない。
正論も、情に訴える言葉も、死の恐怖に怯える者たちの前では無力でしかなかった。
鶫は、鉛のように重くなった自分の足を引きずるようにして、廊下を一人とぼとぼと歩いた。
自室の扉の前に立った彼女の手には、明日への絶望が黒い霧となって纏わりついている。
救いたい人を救えないという無力感に打ちひしがれながら、彼女は自分を待つ、真っ白な、しかし死の象徴であるフリップボードが置かれた部屋へと消えていった。
---




