第三十七章:一筋の光と、静かなる祈念
喧騒が去り、静まり返った食堂の空気は、どこか冷ややかで重苦しい。
彼岸は、5人がきれいに洗って乾燥機へと並べたコーヒーカップを穏やかな眼差しで見つめ、満足そうに口を開いた。
「皆さん、コーヒーカップは御自身で洗って下さるようになりましたねえ。習慣とは有難いもので御座いますな。」
その声は、まるで春の木漏れ日のように温かく、数時間後に死の宣告が待ち受けている者のものとは思えないほど澄んでいた。
しかし、鶫の胸中は穏やかではいられなかった。
「……何とか、ならないんでしょうか。このまま誰かが選ばれるなんて、そんなこと、絶対にあってはならないと思うんです。」
絞り出すような彼女の問いかけに、彼岸は作業の手を止めることなく、どこか遠くを見つめるような瞳で静かに首を振った。
「大河の流れを止める事は、人の力ではどうにもなりませんからねえ。一度動き出した因果の歯車を止めるのは、容易なことでは御座いません。」
悟りきったようなその言葉に、鶫は唇を強く噛み締めた。
「……みんなを説得して回ってみます。」
不意に顔を上げた彼女の瞳には、先ほどまでの絶望ではなく、揺るぎない決意の光が宿っていた。
「と、仰いますと? 一体どのような算段がおありで?」
彼岸が不思議そうに首をかしげると、鶫は一歩前に踏み出し、自らの考えを真っ直ぐにぶつけた。
「みんなで白紙を出せば、選定者無しで無効に出来ないでしょうか。全員が『誰も選ばない』という意志を示せば、この理不尽な企画そのものを根底から覆せるかもしれない。そう思うんです。」
その純粋な提案に、彼岸は慈愛に満ちた眼差しを向けながらも、慎重に言葉を選んで答えた。
「それも一つの手ではありましょう。ただ、先程の『希望的観測』に対する閻魔さんの否定が、そう簡単に事を運ばせてくれない気が致します。非常に厳しいことを申し上げるようですが。」
彼岸は一度言葉を切り、沈痛な面持ちでゆっくりと頭を下げた。
「その場合は、誰かが選定されるまで終わらない、そんな気が致します。貴方の抱いた尊い希望をへし折ってしまう事になり、申し訳ない限りではありますが。」
「いえ、仰ることは、ごもっともだと思います。私も、そんなに甘いものではない事は分かっています。」
鶫は深く頷き、自らの覚悟を再確認するように拳を固く握った。
「それでも、一人ずつ声をかけてみます。みんなで白紙で出してみて、それで閻魔さんの反応を観る事は出来ますから。もしそれで駄目だったとしても、そこから新たな対策を立てられるかもしれない。何もしないで諦めることだけはしたくないんです。」
彼女はそう言い残すと、自分のコーヒーカップを素早く洗い上げ、弾かれたように食堂から走り去って行った。
食堂に残された彼岸は、彼女の足音が遠ざかるのを静かに聞き届けていた。
彼は、鶫が駆け抜けていった入り口の方角へ向かって、静かに背筋を伸ばし、深く掌を合わせた。
「……どうか勇敢なる智者が、この娑婆世界においても善縁結ばれ、平穏無事なる事を、祈願し奉る。」
その呟きは、呪詛に満ちたこの施設の中で、唯一の清浄な祈りとなって空気に溶けていく。
彼岸は慈悲深い微笑みを湛えたまま、去っていった少女の背中に向けて、深々と、そして丁寧にお辞儀をした。
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