第三十三章:鉄鍋の温もりと、深淵の微笑
三人は手慣れた手付きで、瑞々しい野菜を鮮やかに切り分け、見事なサシの入った牛肉を準備すると、2つの大型の鉄鍋をコンロへセットした。
幸子は長年の主婦の勘を働かせ、絶妙な塩梅で砂糖や醤油を投入し、立ち昇る甘辛く香ばしい匂いが食堂の空気を一気に支配していく。
肉が弾ける音と共に、2つの豪勢なすき焼き鍋が完成へと近づく。
そこへ、慎介、智弘、義彦、そして翼の4人が、抗いがたい香りに引き寄せられるように食堂へと姿を現した。
「うおっ、滅茶苦茶美味そうな肉の匂いがするぞ! これ、自分らで作ったのか?」
翼が目を輝かせて鍋を覗き込むと、幸子はすかさず威勢の良い指示を飛ばした。
「丁度良かったわ、男衆! そこにある高級ホテルで使うようなカーゴを持ってきなさい! それにこの熱い鉄鍋を乗せて、丸テーブルまで運ぶんや!」
不意を突かれた翼と慎介だったが、幸子の勢いに押されるようにして、言われた通り重厚な鉄鍋を慎重にカートへ乗せて運び始める。
智弘と義彦も、慣れない手付きながらも生卵や取り皿をテーブルに並べ、全員で一つの食卓を整えていく。
こうして、この施設に来て初めて、7人全員が協力して夕食の準備を終えた。
彼岸と鶫が凛とした声で食前の言葉を称え、静寂の中で十念を捧げると、全員で一斉に「頂きます」を唱和した。
「この肉、すげえ柔らかくて美味い!最高だぜ!」
翼が頬張った肉の旨味に顔を綻ばせ、これまでの険悪な空気を忘れたように声を弾ませる。
「お肉も野菜も美味しいし、味付けも食べやすくて美味しい。幸子さんの味付け、凄く美味しくて温かくて、好きな味です。」
鶫も素直な感想を口にすると、幸子は満足げに目を細めた。
「ふふ、ほな、鶫ちゃんに極意を教えとくよ。鶫ちゃんは、ええ御嫁さんになれるで。その若さでこれだけ手際が良かったもん、感心したわ。」
「有難う、御座います。」
鶫は少し照れくさそうに頭を下げた。
「こうやってみんなで協力して作ったすき焼きって言うのが、また格別なんだろうな。味に深みが出るというかさ。」
智弘がしみじみと呟くと、幸子がすぐさま鋭いツッコミを入れた。
「何を言うてんのや、あんたらはちょっと運んだだけやん! 偉そうに言うのは10年早いわ!」
そのやり取りに、慎介と義彦も堪らず吹き出し、円卓には束の間の笑い声が溢れた。
彼岸はそんな喧騒の只中で、ただ一人静かに「食を頂ける事、有難や有難や。」と笑顔で葱を慈しむように口へ運んでいる。
しかし、鶫の心だけは、この団欒の中に完全に入り込むことができずにいた。
これが刹那的な「偽りの平和」であることを、彼女の鋭い直覚が警鐘として鳴らし続けている。
すき焼きの温かさを楽しみながらも、未だ状況を打開する具体的な策を打ち出せずにいる自分自身に、拭いきれないモヤモヤとした焦燥感を感じていた。
そして何より、既に死の宣告ともいえる「中間選定」の結果を突きつけられている彼岸の様子が、彼女には理解を超えた異様なものに映った。
なぜ、これほどまでに穏やかに笑顔でい続け、日常を一切ブレさせることなく淡々とこなし、菩薩のように笑っていられるのだろうか。
自分を殺そうと決めた者たちと共に、同じ鍋の肉を囲んで笑い合えるその精神の深淵に、彼女は畏怖に近い感心を抱きながら、その真意を量りかねていた。
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