第三十二章:神速の歩法と、団欒の甘露
2人っきりのトレーニングルームで、彼岸からボクシングを教わる鶫。
彼岸が授けるステップは、まるで空間そのものを飛び越え、一瞬にして相手の視界から消え去るような、幻惑的な神速の歩法であった。
鶫はその驚異的な集中力としなやかな肉体を躍動させ、たった数時間という極めて短い修練の末に、その複雑な重心移動を完全にマスターしてみせた。
「鶫さんは優しい方ですからね、無理に反撃しようとはされない事でありましょう。ステップで躱し切り、逃げ切る事を覚えれば、それだけでかなりの自衛となります。」
彼岸は満足げに目を細め、慈愛に満ちた柔らかな笑顔を鶫に向けた。
「私の個人的な考えですが、陸上競技は最高の護身術だと思っております。爆発的な脚力とスタミナがあれば、危険な状況から逃げ切る事が出来る可能性を飛躍的に高められますからね。」
「はい。足腰を鍛えつつ、このステップも忘れずに、ずっと練習し続けます。」
二人の間に、過酷な状況を忘れさせるような清々しい師弟の絆が結ばれていく。
午後の激しいトレーニングを終え、二人は充実した余韻と共に一旦それぞれの自室へと戻った。
熱いシャワーを浴びて汗と雑念を洗い流した後、鶫は最早制服のように馴染んだハイネックの黒トレーナーとカーゴパンツに身を包み、食堂へと向かう。
食堂の入り口で、同じく身なりを整えた彼岸とばったり遭遇し、二人は自然と微笑みを交わして中へ足を踏み入れた。
まだ夕食が提供されるには少し早い時間であり、広大な調理場には静寂が満ちていた。
二人は冷蔵庫を開け、そこに並べられた豊かな食材を確認しながら、今夜の献立を相談することにした。
調理場には重厚な鉄の大鍋が幾つも用意されており、冷蔵庫の中には見事なサシの入った極上の牛肉、弾力のある糸こんにゃく、肉厚な椎茸に瑞々しい長ネギ、そして焼き色の美しい焼き豆腐が贅沢に詰まっていた。
「これだけの食材があれば、すき焼きが出来そうですねえ。」
彼岸がいつものように穏やかな笑顔で提案する。
「いいですね、すき焼き。みんなで温かい鍋を囲めば、少しは心も解れるかもしれません。」
鶫も、心なしか少しばかり穏やかな気持ちになる。
すると、そんな二人の和やかな会話の最中、村井幸子がどこか所在なさげに、しかし食事への抗いがたい期待を隠せない様子で食堂へ入ってきた。
「いつもの豪華な食事は、まだ用意されてへんのやね。」
「こんばんは。」
二人が声を揃えて挨拶を交わすと、幸子は少し驚いたように足を止める。
「食材と調理器具は自由に使って良いとの事なので、冷蔵庫の中を確認したところ、丁度すき焼きの材料がありますから、すき焼きにしようかと話しておりました。」
彼岸が提案すると、幸子の瞳に主婦としての輝きが戻った。
「すき焼きかー、ええやないの!ほな、アタシも作ったるで。家族によう作ってきたから、味付けには自信あるからね、主婦の技を見せたげる!」
幸子は昼間の気まずさを吹き飛ばすかのように明るく笑い、力強く腕まくりをして調理場へと一歩踏み出した。
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