第二十九章:三昧の静寂と、透徹せし眼差し
翼は「ふんっ」と鼻を鳴らすと、歪な優越感に浸りながら椅子を蹴るようにして立ち上がった。
「じゃ、せいぜい残り少ない余生を楽しめよ、彼岸さん。ギャハハハッ!」
彼は嘲笑を撒き散らしながら、勝利を確信した足取りで部屋を後にし、それに続くように慎介、智弘、義彦、そして幸子もまた、それぞれに澱んだ沈黙を連れて退室していった。
静まり返った円卓の間で、彼岸は1人、凪いだ海のような穏やかさを崩さずに、静かに腰を浮かせた。
「では、私は午前中の間は、昨日の内職の続きをするとしましょうかねえ。」
彼はいつもの柔和な笑顔を浮かべて立ち上がると、震える鶫の瞳を真っすぐに観つめた。
「他者の為に涙を流すことが出来る鶫さんと出会えた事、有難き御縁に御座います。」
鶫は、その言葉に触れて初めて、自分の頬を熱い雫が伝っていることに気づき、慌ててそれを拭い去った。
(……私、泣いてたんだ。この人のために、こんなに……。)
「……私も、内職します。1人でいたら、おかしくなりそうだから。」
「それでは参りましょうか。心を落ち着けるには、手を動かすのが一番で御座いますからねえ。」
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二人は並んで内職の作業部屋へと向かい、再び無機質な机の前で、黙々とシールを貼り付ける作業に没頭した。
鶫は何を話せば良いのか分からず、ただ機械的に手を動かし続けたが、その胸中は千々に乱れていた。
このままでは、彼岸という人物がこの世から消えてしまう。
何とか今の絶望的な状況を挽回する事が出来ないか、もしくは、この企画自体を破綻に追い込むことが出来ないか。
思考の迷路を彷徨いながらも、彼女の疑念は別の方向へと向けられた。
大体にして、5人全員が示し合わせたように彼岸を選定した事が、どうしても気にかかって仕方がなかった。
あの5人が揃って円卓の部屋にやって来たのは、事前に裏で、彼岸の名前を書くために卑劣な結託をしていたからではないのか。
(このままでは、彼岸さんと言う人物が、この世から消えてしまう……。)
(どうすればいい? 何とか今の絶望的な状況を挽回する事が出来ないの……?)
(いっそ、この企画自体を根本から破綻に追い込むことが出来れば……。)
疑惑と焦燥が渦巻く中、鶫の指先は震え、シールの位置が僅かにずれていく。
そんな彼女の心の揺らぎを察したのか、彼岸が不意に、静寂を溶かすような穏やかな声を上げた。
「このような仕事と言うのは、『三昧』に至る修行になり、宜しゅう御座いますねえ。」
「さんまい?」
鶫がその聞き慣れない言葉を復唱すると、彼岸は作業の手を止めることなく、ニコニコと慈愛に満ちた表情で話を続けた。
「『修行三昧』だとか『勉強三昧』と言いますが、『三昧』とは、まさに一つの事を集中して行ずる事で、仏教由来の言葉で御座います。今ですと『内職三昧』と言ったところでしょうかねえ。」
彼はまるで悟りを開いた者のような、透き通った声音でさらに言葉を重ねる。
「内職三昧になっていれば、心配事や苦と言うものも、浮かぶ隙も無くなる事でありましょう。もっとも、慣れてくると、頭の片隅で別の事を考えながらでも出来てしまいますから、今の我々の段階では、なかなか難しいかもしれませんがね。」
「……ふふ、確かに。私、全然三昧になれていませんでした。」
鶫は思わず小さく笑い、張り詰めていた心の糸が、ほんの少しだけ緩むのを感じた。
自分がいかに思い悩み、暗い迷路を彷徨っていたか、この人には全てお見通しなのだと察し、同時に、どこまでも良く観えている人だと、改めて深い尊敬の念を抱いた。
絶望的な状況にありながら、他者の心を慮り、導こうとするその背中に、彼女は言葉にならない救いを感じていた。
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