第1章「雨の世界の日常」 第6話 りりかと莉莉
「りーりー、起きてる?」
土曜日の朝。
莉莉はソファに寝転がっていた。
あやか、お母さんはまだ部屋で寝てる。
「起きてる」
「それ、起きてる人の格好?」
「目開いてるじゃん」
「そういう問題じゃないでしょ」
りりかはキッチンから顔を出した。
出かけるらしい。
髪を整え、雨の日用の薄いコートを着ている。
「りーりー、今日何かある?」
「明日らーめん食べに行く」
「今日の話」
「ない」
「じゃあ出かけよう」
「やだ」
「分かった」
あっさり引き下がった。
莉莉は端末に視線を戻す。
少しして玄関の方から声がした。
「お昼も食べてくるからね」
莉莉は顔を上げた。
「何食べるの」
「まだ決めてない」
「どこ行くの」
「中心側。ちょっと買い物」
「何買うの?」
「いろいろ」
莉莉は少し考えた。
「私も行っていい?」
りりかが玄関から顔を出した。
「来るの?」
「別に」
「来ないの?」
「行ってもいい」
「じゃあ十分で支度して」
「短い」
「来なくていいよ」
「行く」
りりかが笑った。
「はいはい。じゃあ十五分」
「二十分」
「十五分」
「十八分」
「何その交渉」
「十七分」
「早くしなさい」
莉莉は起き上がった。
~~~
二十分後。
「遅い」
「二十分って言ったじゃん」
「言ってない」
「言った」
「十五分」
「間を取った」
「誰が取っていいって言ったの」
莉莉は玄関の鏡で髪を見る。
悪くない。
りりかも隣で自分の髪を見ていた。
莉莉が鏡越しにりりかを見る。
りりかも莉莉を見る。
「何?」
「別に」
「何よ」
「ママも髪見てる」
「見るでしょう」
「私に早くしろって言ったのに」
「私はもう終わってるの」
りりかは前髪を少し直した。
「終わってないじゃん」
「確認」
「同じでしょ」
「違います」
莉莉も前髪を直す。
二人とも黙る。
「りーりー」
「何」
「そろそろ行くよ」
「ママが見てたんじゃん」
「はいはい」
外へ出る。
雨だった。
今日も。
~~~
円山側の街区から中心側へ向かう。
二人は途中で屋根付きの歩廊に入った。
傘を閉じる。
莉莉は傘を軽く振った。
「りーりー、人にかけない」
「誰もいないじゃん」
「来るかもしれないでしょ」
「来てから言って」
「来てからじゃ遅いの」
莉莉は傘を畳んだ。
「ママ、細かい」
「あなたが適当なの」
「お母さんも言う」
「あやかに?」
「うん」
「じゃあ二人に言われるってことは、りーりーが悪いんじゃない?」
「二人が似てるだけじゃない?」
りりかが笑った。
「それ、あやかに言ってみな」
「怒る?」
「たぶん」
「じゃあ言わない」
歩廊の透明な壁の向こうには、雨の札幌が広がっている。
山側には昔からの地面が残っている。
少し下には新しい街区。
さらに向こうには水。
雨で輪郭がぼやけていた。
莉莉は見慣れている。
生まれたときから、だいたいこんな景色だった。
「ママ」
「ん?」
「今日、黄色?」
「朝はね」
「あとで上がるかな」
「どうだろ」
莉莉は壁際の表示を見る。
黄色いカエルが傘を差していた。
いつもの顔。
「赤くならなきゃいいけどね」
りりかが言った。
「うん」
莉莉はそれだけ答えた。
あの妙な紅色は、それから出ていない。
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最初に入ったのは服屋だった。
「ママの?」
「そう」
「私のじゃないの?」
「りーりーも欲しいのあったら見れば?」
莉莉は少し機嫌がよくなった。
「買ってくれる?」
「物による」
「クーパーなら買ってくれる」
「じゃあクーパーに頼めば?」
「それはやだ」
「なんで」
「絶対いっぱい買う」
「いいじゃない」
「よくない」
りりかは服を一着取った。
「これどう?」
莉莉は見る。
「似合わない」
「早くない?」
「色が」
「まだ着てもいないでしょう」
「ママ、その色じゃない」
「じゃあどれ」
莉莉は棚を見る。
少し歩く。
一着取った。
「こっち」
「地味じゃない?」
「地味じゃない」
りりかが受け取る。
鏡の前で合わせた。
「……悪くない」
「でしょ」
「りーりー、こういうの分かるのね」
「何だと思ってるの」
「十三歳」
「十三歳だって服くらい分かるよ」
「そうね」
りりかが別の服を手に取った。
「じゃあこれは?」
「それはいい」
「こっちは?」
「微妙」
「これは?」
「さっきよりいい」
「これ?」
「ママ」
「何?」
「自分で決めて」
「せっかくいるんだから見てよ」
「めんどくさい」
「りーりーが来るって言ったんでしょう」
そうだった。
莉莉は仕方なくついていった。
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結局、りりかは二着買った。
莉莉も一着買ってもらった。
「クーパーに言わないでね」
店を出てから莉莉が言った。
「何を?」
「服買ったこと」
「なんで?」
「次会ったとき、もっと買うって言うから」
「言いそう」
「でしょ」
「でも、りーりーが可愛いんだから仕方ないじゃない」
莉莉はりりかを見る。
「急に何」
「何が?」
「そういうの」
「可愛いって言っただけ」
「外で言わないで」
「なんでよ」
「恥ずかしい」
「家ならいいの?」
「そういう意味じゃない」
りりかが笑った。
「りーりー、昔は言われると喜んでたのに」
「いつ」
「小さい頃」
「覚えてない」
「私は覚えてる」
「じゃあママの中だけに置いといて」
「はいはい」
莉莉は少し前を歩いた。
耳が少し熱い。
たぶん湿気のせいだ。
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次は雑貨。
その次は化粧品。
その次はお菓子。
「ママ、買い物長い」
「まだそんなに経ってないでしょう」
「もう二時間」
「若いんだから大丈夫」
「十三歳だから疲れるの」
「十三歳が一番元気でしょう」
「偏見」
りりかは笑いながらお菓子を一つ籠に入れた。
莉莉も入れる。
「りーりー」
「何」
「それ自分で払う?」
莉莉は籠から出した。
「いらない」
「そこまで?」
「ママが買って」
「しょうがないなあ」
また籠に戻す。
りりかが笑う。
莉莉も笑った。
~~~
昼は小さなカフェに入った。
窓際の席だった。
雨の向こうに、水際の街区が見える。
莉莉はオムライス。
りりかはパスタ。
「ママの一口ちょうだい」
「自分のあるでしょう」
「味見」
「じゃあオムライス一口」
「やだ」
「なんでよ」
「私のだから」
「じゃああげない」
「ママでしょ」
「都合のいいときだけママにしないで」
莉莉は黙った。
「一口」
「オムライス」
「一口だけね」
交換した。
「おいしい?」
りりかが訊く。
「普通」
「じゃあ返して」
「もう食べた」
「本当にもう」
莉莉は笑った。
~~~
しばらくして、莉莉は窓の外を見た。
雨がガラスを流れている。
向こうに、昔の建物の上部が少し見えた。
「ママ」
「ん?」
「ママって、昔の札幌覚えてる?」
「覚えてるよ」
「水ないとき?」
「もちろん」
「どんなだった?」
りりかは少し考えた。
「普通の札幌」
「それが分かんない」
「そうか」
りりかも窓の外を見る。
「あそこも、ずっと地面だったよ」
「どこ?」
「その辺全部」
りりかが窓の向こうを指した。
「藤中学も、あの辺の地面にあったんだよ」
莉莉が振り返る。
「藤中?」
「今の藤中。私の頃は女子校だったけどね」
「ママもそこ行ってたの?」
「行ってたよ」
莉莉はもう一度、水の向こうを見る。
「学校が?」
「そう」
「この辺に?」
「そう。普通に」
「この下?」
「だから昔は水じゃなかったの」
莉莉は少し笑った。
「またそれ」
「何が?」
「大じじいもことみちゃんも同じこと言う」
「そりゃ同じ世界にいたからね」
「でも学校あったんだ」
「あったよ。普通に通ってた」
莉莉は水面を見る。
どう考えても、そこに制服姿のママが歩いていたところを想像できない。
「変なの」
「何が?」
「ママが中学生だったの」
「そっち?」
りりかが笑った。
「私にだって中学生の頃くらいあります」
「知ってるけど」
「りーりーみたいな頃もあったの」
莉莉はりりかを見る。
「想像できない」
「失礼ね」
「どんなだった?」
「可愛かった」
「自分で言う?」
「本当だから」
「ことみちゃんに聞こ」
「やめなさい」
莉莉は笑った。
少しして、また窓の外を見る。
「東京も?」
「東京も」
「神楽坂の下も?」
「今とは全然違った」
「ふうん」
莉莉には想像しにくい。
写真なら見たことがある。
映像も。
でも、自分がそこを歩いているところは想像できない。
「ママ」
「なに?」
「昔って、晴れてたんでしょ」
「晴れてたよ」
「飛行機から見る空と同じ?」
りりかは少し考えた。
「色はね」
「じゃあ同じじゃん」
「全然違うよ」
「何が?」
「飛行機だと、雲の上に青い空があるでしょう」
「うん」
「昔は地面に立ったまま、その青が見えたの」
莉莉は窓の外を見る。
灰色の雲。
雨。
水。
「それだけ?」
「それだけって」
「同じ青でしょ」
「そうなんだけどね」
りりかも窓の外を見た。
「地面まで明るいの」
「地面まで?」
「うん」
莉莉は飛行機の窓から見た空を思い出した。
雲を抜けた先にある青なら知っている。
でも、その青の下に自分が立っているところは、うまく想像できなかった。
「見てみたい?」
「別に」
「そう」
「でも」
「うん」
「一回くらいは見てもいい」
りりかは笑った。
「そっか」
「ママは?」
「また見たいよ」
答えは早かった。
「そんなに?」
「そんなに」
「ふうん」
莉莉はもう一度、窓の外を見た。
それ以上は聞かなかった。
~~~
店を出た頃には、雨脚が少し強くなっていた。
カエル表示はまだ黄色。
二人で傘を差す。
「りーりー」
「何」
「こっち」
「どこ行くの」
「ちょっと寄るところある」
「また服?」
「違う」
少し歩く。
小さな店に入った。
アクセサリーや小物が並んでいる。
「何買うの?」
「見るだけ」
「ママの見るだけは信用できない」
「失礼ね」
りりかは店内を見て回る。
莉莉もついていく。
棚の一角に、小さな髪飾りが並んでいた。
りりかが一つ手に取る。
莉莉の髪に近づけた。
「やめて」
「いいじゃない」
「子どもっぽい」
「そう?」
「十三歳だよ」
「十三歳は子どもでしょう」
「そういう意味じゃない」
りりかは別のものを取った。
「じゃあこれ」
「……それならいい」
「欲しい?」
「別に」
「欲しくない?」
莉莉は少し考えた。
「ちょっと」
「じゃあ買おう」
「自分で買う」
「いいよ、これくらい」
「でも」
「ママに買わせて」
莉莉は黙った。
りりかはもうレジへ向かっている。
「ママ」
「何?」
「ありがと」
りりかが振り返った。
少し笑う。
「どういたしまして」
それだけだった。
~~~
帰り道。
二人は屋根付きの歩廊を歩いていた。
莉莉は買ってもらった髪飾りの袋を持っている。
「ママ」
「ん?」
「お母さんも、ママにこういうの買ってもらってた?」
「あやか?」
「うん」
「買ったよ」
「どんな子だった?」
「りーりーより素直」
「嘘」
「本当」
「絶対嘘」
「可愛かったよ」
「今は?」
「今も可愛いよ」
莉莉は笑った。
「三十二歳だよ」
「何歳でも子どもは子ども」
「じゃあ、お母さんが五十歳になっても?」
「子ども」
「ママが八十歳でも?」
「子ども」
「ことみちゃん百歳超えてるじゃん」
「そういうこと」
莉莉は少し考えた。
「変なの」
「そう?」
「じゃあ私が八十歳でも?」
りりかが笑った。
「りーりーは、ずっとりーりーだよ」
莉莉は黙った。
何となく恥ずかしい。
「……ママ、その頃いないじゃん」
「そうね」
りりかは普通に答えた。
莉莉は少しだけ嫌だった。
「そういうこと言わないで」
「りーりーが言ったんでしょう」
「そうだけど」
「じゃあ百四十歳くらいまで生きようかな」
「怖」
「何よ」
「そこまでいったら怖い」
「じゃあ何歳ならいいの」
「百二十」
「十分長いでしょう!」
莉莉は笑った。
りりかも笑った。
雨の中を歩く。
~~~
家に着いた。
「ただいまー」
莉莉が玄関を開ける。
リビングからあやかが顔を出した。
「おかえり。遅かったね」
「買い物」
りりかが答える。
「えっ」
あやかが二人を見る。
「二人で買い物!?」
「うん」
「ずるーい!」
莉莉は靴を脱ぎながら顔を上げた。
「何が」
「私も行きたかった!」
「寝てたじゃん」
「起こされてないもん!」
「大学生でしょ」
「土曜日です!」
りりかが笑った。
「あやか、今度三人で行けばいいでしょ」
「ママ、何買ったの?」
「服」
「また?」
「またって何よ」
莉莉が靴を脱ぎながら言った。
「ママ二着」
「りーりー」
「私も一着」
あやかの顔が変わった。
「え、莉莉も買ってもらったの?」
「うん」
「ずるい!」
「お母さん三十二歳でしょ」
「三十二歳だって服欲しいよ!」
「自分で買いなよ」
「莉莉だって自分で買いなさいよ!」
「十三歳です」
「そういうときだけ十三歳になるのやめて!」
りりかが声を上げて笑った。
莉莉も笑う。
「あとお菓子」
「りーりー」
「髪のやつも」
あやかが莉莉を見る。
「髪のやつ?」
「見せない」
「なんで!」
「絶対つけるから」
「つけないよ」
「つける」
「つけないって」
「嘘」
「見せてよ!」
「やだ」
「ママ!」
「私に言わないでよ」
りりかはまだ笑っている。
あやかが二人を見る。
「二人だけで楽しんできたんだ」
「普通だよ」
莉莉が言った。
「普通」
りりかも言った。
声が重なった。
二人で顔を見る。
あやかが頬を膨らませた。
「何それ。やっぱりずるい」
「今度行けばいいじゃん」
莉莉が言う。
「三人で?」
「うん」
あやかの顔がすぐに戻った。
「行く」
「早」
「絶対行く」
「はいはい」
「りーりー、約束ね」
「分かったって」
りりかが二人を見て笑った。
~~~
夜。
莉莉は自分の部屋で、昼間買ってもらった髪飾りをつけてみた。
鏡を見る。
悪くない。
端末で写真を撮る。
送ろうとして。
やめた。
美羽に送ったら絶対何か言われる。
紬なら普通に似合うと言うかもしれない。
こうたは――。
もっと面倒くさい。
やめた。
髪飾りを外す。
机に置く。
何となく端末で昔の札幌の写真を開いた。
青空。
大通公園。
道路。
建物。
人。
水がない。
その写真の中にある青は、莉莉も知っている。
飛行機に乗れば見える。
雲を抜けた先に、いつもある。
でも。
写真の中では、その青が人の頭の上にあった。
地面から始まった建物が、そのまま青い空へ伸びている。
木にも。
道路にも。
歩いている人にも。
雲が一枚も挟まっていない。
莉莉は写真を拡大した。
やっぱり、よく分からない。
画面を閉じる。
窓の外を見る。
雨。
こっちの方が分かる。
雨の音。
濡れた道路。
水面に映る街の明かり。
莉莉にとっては、こっちが普通だった。
端末が震えた。
美羽から。
『明日の約束忘れてない?』
莉莉は笑った。
『忘れてない』
すぐ既読がつく。
『何時?』
『あとで決めよ』
送信。
もう一度窓を見る。
ママは、地上から青空をまた見たいと言った。
そんなにいいものなのだろうか。
莉莉にはまだ分からない。
一回くらい。
見てもいい。
その程度だった。
机の上には、今日買ってもらった髪飾りがある。
明日は美羽と紬とお出かけ。
階下から、あやかとりりかの笑い声が聞こえる。
莉莉はベッドに倒れ込んだ。
今日も雨だった。
たぶん明日も雨だ。
それでいい。
今のところは。
美羽は佐々木 美羽、明るく、ひとなつこい良く喋る女の子
紬は高橋 紬、落ち着いていて、人を良く見ている子




