第1章「雨の世界の日常」 第4話 雨の向こう
莉莉は、雨の日が好きだった。
正確には、雨の日しかほとんど知らない。
朝、目を覚ますと雨が降っている。
学校へ行くときも雨。
授業中も雨。
帰るときも雨。
夜、眠るときにも雨の音がする。
それが普通だった。
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「りーりー、傘」
玄関を出ようとしたところで、後ろから声が飛んできた。
莉莉は振り返る。
りりかが立っていた。
「あ」
「あ、じゃない」
「忘れてた」
「今日かなり降るって」
「いつも降ってるじゃん」
「そういう問題じゃないでしょう」
傘を受け取る。
「ありがと」
「スマホは?」
「ある」
「定期は?」
「ある」
「お弁当」
「ある」
「ハンカチ」
「……たぶん」
「たぶんって何」
「行ってきます」
「ちょっと、莉莉」
ドアを閉めた。
エレベーターのボタンを押す。
閉まる直前、ドアの向こうから声が聞こえた。
「気をつけてね!」
「はーい」
返事だけはした。
昨日、ことみちゃんにも同じことを言われた気がする。
~~~
外へ出る。
雨だった。
少し強い。
莉莉は透明な傘を開いた。
道路の端には水が流れている。
排水設備が低い音を立てながら動いていた。
その向こうには、もっと大きな水面がある。
昔は街だった場所。
今は水の下。
建物の上の方だけが残っているところもある。
莉莉は毎朝、それを見て学校へ行く。
別に何とも思わない。
昔の人が昔の札幌を懐かしむように、莉莉にとっては、これが札幌だった。
駅へ向かう。
途中でスマホが震えた。
画面を見る。
『今日、水位注意だって』
同じクラスの友達からだった。
『知ってる』
『第七また上がってる』
莉莉は足を止めた。
第七。
昨日、大じじいのところから帰る途中にも通った。
『昨日も』
『まじ?』
『うん』
『怖』
莉莉は少し考える。
『別に』
送る。
すぐに返ってきた。
『莉莉はそういうとこおかしい』
『失礼』
『褒めてる』
『絶対違う』
莉莉はスマホをしまった。
駅へ向かって歩く。
雨は傘を細かく叩いていた。
~~~
教室に入ると、何人かが窓際に集まっていた。
「おはよ」
「あ、莉莉」
「何してんの?」
「見て」
窓の外を指差される。
莉莉も見る。
校舎の向こう。
道路。
そのさらに向こうにある水路。
いつもより水面が高い。
「高くない?」
「高いね」
「今日早く帰れるかな」
「なんで嬉しそうなの」
「だって休校になるかもしれないじゃん」
「ならないでしょ、このくらい」
「夢がない」
「水位に夢求めないで」
友達が笑った。
「莉莉ってほんと冷めてるよね」
「そう?」
「男子に告白されても同じ顔してそう」
「なんでその話になるの」
「この前の二年の人どうした?」
「断った」
「やっぱり!」
「何が?」
「もったいない!」
「知らない人だもん」
「知らないって、二年生じゃん」
「二年生なのは知ってる」
「そうじゃなくて」
莉莉は鞄を机に置いた。
「話したことないし」
「顔いいじゃん」
「顔で付き合うの?」
「十三歳なんだから顔でいいでしょ」
「雑」
「莉莉は何ならいいの?」
訊かれて、少し考える。
分からない。
「面白い人?」
「へえ」
「何その顔」
「莉莉、意外と普通」
「失礼」
友達が笑う。
莉莉も笑った。
窓の外では、相変わらず雨が降っていた。
~~~
三時間目。
数学。
莉莉は嫌いではない。
というより、好きだった。
答えがある。
途中で間違えれば、だいたいどこで間違えたか分かる。
人間より分かりやすい。
黒板の問題をノートに写す。
先生が説明している途中で、答えが出た。
暇になった。
窓を見る。
雨。
いつもの雨。
少し強い。
莉莉はぼんやり眺める。
窓ガラスを雨粒が流れていく。
一つ。
二つ。
三つ。
指を机の上で少し動かした。
窓の外。
落ちていた雨粒の軌道が、ほんの少しだけ曲がった。
莉莉は指を止める。
元に戻る。
もう一度。
少し曲がる。
「美濃」
莉莉は前を向いた。
「はい」
「暇そうだから、これ」
先生が黒板の問題を指した。
「答え」
「四分の三」
「途中式」
「え」
「答えだけじゃなくて途中式」
「めんどくさ」
「聞こえてるぞ」
教室が笑った。
莉莉は立ち上がった。
「はいはい」
「はいは一回」
「はーい」
また笑いが起きた。
黒板へ向かう。
チョークを持つ。
途中式を書く。
「合ってる?」
「合ってる」
「じゃあ戻っていい?」
「まだ説明してない」
「答え合ってるのに?」
「美濃」
「はい」
席へ戻った。
後ろから小さな声が聞こえる。
「すまし顔のくせに先生には強いよね」
莉莉は振り返らない。
「聞こえてる」
「聞かせた」
少し笑った。
~~~
昼休み。
莉莉は友達二人と机をくっつけて弁当を食べていた。
「莉莉、それ自分で作った?」
「まさか」
「誰?」
「ママ」
「おばあちゃん?」
「うん」
「いいなあ」
「交換する?」
「卵焼き」
「だめ」
「ケチ」
「それ好きだから」
スマホが一斉に鳴った。
教室のあちこちで同じ音がする。
莉莉も画面を見る。
水位警報。
札幌市内の一部区域で、基準値を超える可能性。
「うわ」
「第七入ってる」
「ほんとだ」
教室が少しざわついた。
先生が入ってくる。
「はい、みんな通知見たと思うけど、今のところ授業は通常通りです」
「えー!」
「なんで残念そうなんだ」
笑いが起きる。
「ただし、帰宅経路によっては早めに帰す可能性があります。先生たちで確認するから、勝手に帰らないように」
「はーい」
莉莉はもう一度画面を見る。
第七水域。
昨日より上がっている。
地図を拡大する。
昨日通った第七水際区画の近くまで、注意区域が広がっていた。
「莉莉」
「ん?」
「家そっちじゃない?」
「少し違う」
「大丈夫?」
「大丈夫でしょ」
「またそれ」
「何」
「莉莉の大丈夫、信用できない」
「ひど」
スマホを閉じた。
別に怖くはない。
水位が上がることはある。
警報も珍しくない。
雨が強い日なら、なおさら。
でも。
昨日も。
今日も。
少しだけ。
何かが違う。
何が、と訊かれても分からない。
「それ一個ちょうだい」
莉莉が顔を上げる。
友達が卵焼きを見ていた。
「やだ」
「まだ言ってる」
「好きなんだって」
「一個くらいいいじゃん」
「やだ」
そんな話をしているうちに、違和感は薄くなった。
~~~
放課後。
結局、学校は少し早く終わった。
「莉莉、一緒に帰ろ」
「いいよ」
三人で校舎を出る。
雨は朝より強くなっていた。
「最悪」
「靴濡れる」
「もう濡れてる」
「莉莉、傘でかくない?」
「ママの」
「おばあちゃんの?」
「たぶん」
「また適当」
三人で笑う。
校門を出る。
少し歩いたところで、後ろから声がした。
「美濃さん!」
莉莉は振り返った。
男子生徒が立っていた。
知らない。
いや。
見たことはある。
「何?」
「あの」
男子が友達二人を見る。
二人が莉莉を見る。
その顔。
やめてほしい。
「あのさ」
「うん」
「ちょっと話せる?」
「今?」
「うん」
莉莉は空を見る。
雨。
かなり強い。
「雨降ってるけど」
「それは……ずっと降ってるじゃん」
「そうだけど」
友達の一人が吹き出した。
「私たち先行ってるね」
「え」
「がんばって」
「何を?」
二人は逃げた。
莉莉は男子を見る。
男子も莉莉を見る。
気まずい。
「あの」
「うん」
「前から、ちょっといいなと思ってて」
「あ」
分かった。
またこれだ。
「ごめん」
「まだ何も言ってないけど」
「違った?」
「いや、違わないけど」
「じゃあごめん」
「早くない?」
「雨強いから」
「雨関係ある?」
「風邪ひくよ」
男子はしばらく黙った。
それから、少し笑った。
「分かった」
「うん」
「じゃあ」
「うん」
男子が走っていく。
莉莉はその背中を見る。
悪い人ではなさそうだった。
でも、付き合いたいとは思わない。
それだけ。
スマホが震えた。
さっき逃げた友達からだった。
『どうだった』
『断った』
即座に返ってくる。
『はや!!!!』
莉莉は笑った。
~~~
駅へ向かう途中。
莉莉は足を止めた。
雨。
道路。
水。
人。
傘。
いつもの景色。
何となく、傘から手を出す。
雨粒が手のひらに当たった。
冷たい。
莉莉は指を少し動かす。
ほんの少しだけ。
雨粒が手のひらを避けた。
一秒。
二秒。
三秒。
指の周りを、雨がわずかに曲がって落ちていく。
いつも通り。
莉莉は力を止めた。
雨が手のひらに当たる。
もう一度。
少し曲げる。
やっぱり、いつも通りだった。
「……何だろ」
莉莉は自分の指を見る。
別に何もない。
痛くもない。
力が強くなったわけでも、弱くなったわけでもない。
なのに、しばらく指を見ていた。
「莉莉ー!」
遠くから声がした。
顔を上げる。
友達二人が駅の入口で待っている。
「遅い!」
「ごめん!」
「何してたの?」
「別に!」
莉莉は走った。
水たまりを踏む。
盛大に水が跳ねた。
「うわ!」
「莉莉、最悪!」
「ごめんって!」
「こっちまで濡れた!」
「雨降ってるんだから同じじゃん!」
「そういう問題じゃない!」
三人で笑った。
莉莉も笑った。
さっきまで見ていた自分の指のことは、もう考えていなかった。
駅へ入る直前、莉莉は一度だけ振り返った。
雨の向こうに、札幌の街がある。
水に沈んだ昔の街と、その上で暮らす今の街。
今日も人が歩いている。
今日も学校がある。
誰かが誰かを好きになって。
卵焼きを取り合って。
雨が降っている。
いつもと同じだった。
莉莉は友達を追って、駅へ入った。
雨は、まだ降っていた。




