↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
カエル天気予報  作者: 美濃 陽介
カエル天気予報 第一部 カエル天気予報編
PR
4/23

幕間1 りーりーの家

 家に着いたとき、雨は少し弱くなっていた。


 莉莉は玄関を開ける。


「ただいまー」


 返事はない。


 靴を脱ぐ。


 ことみちゃん ‐莉莉の曾祖母‐ は後ろで傘を閉じていた。


「誰もいないの?」


「りりかはいるんじゃない?」


「車なかったよ」


「じゃあ出かけたのかしら」


 莉莉は濡れた靴下が気持ち悪くて、その場で脱いだ。


「莉莉」


「なに?」


「そこに置かない」


「あとで持ってく」


「今持っていきなさい」


「はーい」


 靴下をつまんで歩き出す。


「返事だけはいいんだから」


 後ろから聞こえた。


 莉莉は聞こえなかったことにした。


 リビングへ入る。


 誰もいない。


 テーブルの上には大学の教科書が広げっぱなしになっていた。


 生態学。


 環境科学。


 それから、何だかよく分からない分厚い本。


 母親のものだ。


 三十二歳。


 大学二年生。


 そして莉莉の母親。


 改めて並べると少し変な気もするが、莉莉にとっては別に変ではない。


 お母さんはお母さんだ。


 最近は彼氏までいる。


 それは少し変だと思う。


 いや。


 別に変ではない。


 たぶん。


 今のところは。


「何見てるの?」


 ことみちゃんがリビングへ入ってきた。


「お母さんの本」


「勝手に触らないの」


「見ただけ」


「宿題終わった?」


「終わった」


「本当に?」


「大じじいとやった」


 ことみちゃんの動きが止まった。


「……あの人と?」


「うん」


「ちゃんと終わったの?」


「失礼じゃない?」


「どっちに?」


 莉莉は少し考えた。


「大じじい」


「そうね」


 ことみちゃんは買ってきたものを冷蔵庫へ入れ始めた。


「昔の札幌について聞いた」


「何て言ってた?」


「昔は水じゃなかったって」


「そりゃそうでしょう」


「地下に電車走ってたって」


「私も乗ってたわよ」


 莉莉が振り返った。


「ことみちゃんも?」


「当たり前でしょう」


「地下に?」


「地下に」


「怖くなかった?」


「だから昔は水なんかなかったの」


「大じじいと同じこと言ってる」


「そりゃそうでしょう」


 ことみちゃんは冷蔵庫を閉めた。


 莉莉は窓を見る。


 雨が降っている。


 その向こうには水がある。


 生まれたときから、ずっとそうだった。


 地下に電車が走っていた札幌を、莉莉はうまく想像できなかった。


 水の下を走るなら分かる。


 でも、それはたぶん違うらしい。


~~~


 玄関が開いた。


「ただいまー!」


 大きな声がした。


 莉莉はソファから顔を上げる。


「あ」


 母親だった。


 両手いっぱいに荷物を持っている。


 その後ろから、もう一人入ってきた。


「お邪魔します」


 男。


 莉莉は見る。


 二十歳。


 母親の大学の同級生。


 そして。


 彼氏。


 莉莉はじっと見た。


 男も莉莉を見る。


「……こんにちは」


「こんにちは」


「莉莉、怖い」


 母親が言った。


「何が?」


「顔」


「普通だけど」


「その顔で普通って言うのやめて」


「何しに来たの」


「お母さんの家です」


「あやかに聞いてない」


「莉莉」


 ことみちゃんの声が飛んできた。


「お母さんを名前で呼ばないの」


「今だけ」


「今だけって何」


 あやかは荷物をテーブルに置いた。


「今日ね、課題一緒にやるの」


 莉莉は男を見る。


「二人で?」


「そう」


「部屋で?」


「リビングで」


「何時まで?」


「莉莉」


 あやかが呆れた顔をする。


「何」


「あなた、私のお母さんなの?」


「違うよ」


「じゃあ何なの」


「娘」


「娘はそんなこと聞かないの」


 莉莉は男を見る。


「何時までいます?」


「え」


 男が固まった。


「莉莉!」


「聞いただけじゃん」


 男は困ったように笑った。


「夕飯前には帰るよ」


「ふうん」


「莉莉」


「なに?」


「やめなさい」


「何もしてないよ」


 あやかは大きく息を吐いた。


 ことみちゃんはキッチンで笑っていた。


「ことみちゃんも笑ってないで何とか言って」


「いいじゃない。莉莉なりに心配してるのよ」


「何を?」


「あなたを」


「私、三十二なんだけど」


「知ってる」


 莉莉が言った。


「三十二歳の大学二年生」


「言わなくていいの!」


 男が吹き出した。


 あやかが振り返る。


「笑った?」


「笑ってない」


「笑ったよね?」


「笑ってないです」


「今、絶対笑った」


 莉莉は男を見た。


 少しだけ評価を上げた。


 少しだけ。


 ~~~


「莉莉、ちょっとこれ見て」


 一時間後。


 莉莉は自分の端末を見ながらソファに寝転がっていた。


「やだ」


「まだ見せてない」


「レポートでしょ」


「誤字だけ」


「大学生でしょ」


「大学生だから困ってるの」


「意味分かんない」


 あやかが端末を持ってやってくる。


 莉莉の隣に座った。


「ほら」


「近い」


「いいから」


 画面には長い文章が並んでいた。


 莉莉は読む。


 一行目。


 二行目。


 三行目。


「ここ」


「どこ?」


「『生息域』が『生息液』になってる」


「あ」


「獣医学部なのに液体にしたの?」


「変換ミス」


「生息液」


「うるさい」


 莉莉は笑った。


 あやかも笑う。


「他は?」


「知らない」


「もうちょっと見てよ」


「自分でやって」


「ケチ」


「三十二歳でしょ」


「年齢関係ないでしょ」


「お母さんでしょ」


「それも関係ない」


「大学生でしょ」


「それは関係ある」


 二人で画面を見る。


 莉莉は文章の意味まではよく分からなかった。


 生物。


 環境。


 動物。


 水域。


 人間の生活圏。


 そんな言葉が並んでいる。


「これ何のレポート?」


「都市環境と動物の生息域」


「ふうん」


「人と動物がどうやって同じ場所で暮らしていくか、みたいな話」


「お母さん獣医になるんじゃないの?」


「獣医にもいろいろあるの」


「ふうん」


「あんた興味ないでしょ」


「ちょっとある」


「あ、あるんだ」


「ちょっとだけ」


 あやかが嬉しそうな顔をしたので、莉莉は少し後悔した。


「札幌の水際地区を題材にしようかなって」


 莉莉が顔を上げる。


「今日、冠水してたよ」


「どこ?」


「第七」


 あやかの顔が少し変わった。


「第七?」


「うん」


「また?」


「またって?」


「この前も少し上がったって聞いたから」


「水?」


「うん」


 莉莉は窓を見る。


 雨はまだ降っている。


「今日、ちょっと変だった」


「何が?」


「雨」


 あやかが笑った。


「雨はいつも変でしょ」


「そうじゃなくて」


「カエル術?」


 莉莉があやかを見る。


「なんで分かったの」


「お母さんだから」


「使えないくせに」


「莉莉のことは分かります」


 あやかが莉莉の頬を指でつつく。


「やめて」


「何かあったら言いなさい」


「何もない」


「ならいいけど」


 もう一度つつかれた。


 莉莉はその指をつかんだ。


「しつこい」


「心配してるの」


「めんどくさ」


「知ってる」


 あやかが笑う。


 莉莉も笑った。


 さっきの雨のことは、それで終わった。


 ~~~


 夕方。


 玄関のドアが開いた。


「りーりー、ただいまー」


 りりかの声だった。


 莉莉――りり。家族はだいたい「りーりー」と呼ぶ――は、ソファから顔を上げた。


「おかえり」


「ただいま。ことみちゃん来てる?」


「いるよ」


「お母さーん」


「聞こえてるわよー」


 キッチンから返事が来る。


 りりかは濡れた上着を脱ぎながら、リビングへ入ってきた。


 五十代の終わりには見えない。


 濡れた髪を気にしながら整える仕草など、莉莉とどこか似ていた。


 莉莉本人は認めないけれど。


「莉莉、大じじいどうだった?」


「生きてた」


「そうじゃなくて」


「元気だったよ」


「ならよかった」


 りりかはテーブルを見る。


 大学の教科書。


 端末。


 ノート。


 飲み物。


 菓子。


 そして二十歳の男。


「こんにちは」


 男が立ち上がった。


「あら」


 りりかが笑った。


「いらっしゃい」


「お邪魔してます」


「あやかは?」


「トイレです」


「そう」


 りりかは男を一度見た。


 頭から足まで見るような露骨な見方ではない。


 ほんの一瞬。


 それから莉莉を見る。


 莉莉もりりかを見る。


 何となく通じた。


 ――いるね。


 ――いるね。


 そんな感じ。


「何時まで?」


 りりかが訊いた。


 莉莉は吹き出した。


「何?」


「私も同じこと聞いた」


「莉莉!」


 トイレから戻ってきたあやかが叫んだ。


「ママまでやめてよ!」


「だって夕飯の人数あるでしょう」


「莉莉は尋問だった!」


「尋問じゃないよ」


「何時までいますか、って真顔で聞いたでしょう!」


「普通の質問じゃん」


「目が普通じゃなかった!」


 りりかが笑う。


 ことみちゃんもキッチンから顔を出した。


「莉莉、あんまりいじめないの」


「いじめてない」


「心配なのよね」


「違う」


「お母さんが泣かされたら困るものね」


 莉莉は黙った。


 あやかも黙った。


 男も黙った。


「ことみちゃん」


 莉莉が言った。


「なに?」


「余計なこと言わないで」


「はいはい」


 ことみちゃんは楽しそうにキッチンへ戻っていった。


 あやかが莉莉を見る。


「莉莉」


「なに」


「何その顔」


「普通」


「普通じゃない」


「普通だよ」


「ねえ」


「何」


「私が泣かされたらどうするの」


 莉莉は少し考えた。


 男を見る。


 男の顔が引きつった。


「殺す」


「莉莉!」


「冗談だよ」


「間が長い!」


 りりかが声を上げて笑った。


 ことみちゃんもキッチンで笑っている。


 男も、少し遅れて笑った。


 あやかだけが笑っていなかった。


「この家おかしい」


「今さら?」


 莉莉が言った。


「誰のせいよ」


「知らない」


 莉莉は笑った。


 ~~~


 夕飯前。


 あやかの彼氏は、本当に帰った。


 玄関で靴を履く。


「お邪魔しました」


「またね」


 りりかが言う。


「ありがとうございました」


「気をつけてね」


 ことみちゃんも言う。


 莉莉は少し離れたところから見ていた。


 男が莉莉を見る。


「じゃあ、また」


「うん」


 少し間があった。


「……また来てもいい?」


 莉莉は考えた。


 あやかが横から睨んでいる。


 りりかは笑っている。


 ことみちゃんも聞いている。


「別にいいよ」


 男がほっとした顔をした。


「ありがとう」


「私の家じゃないけど」


「莉莉!」


 あやかがまた怒った。


 男は笑いながら外へ出ていった。


 ドアが閉まる。


 あやかが莉莉を見る。


「何なの、今日」


「何が?」


「ずっとあの態度」


「普通」


「どこが」


 莉莉は少し考えた。


「悪い人じゃなさそう」


 あやかの顔が止まった。


「……そう?」


「今のところ」


「今のところって何」


「今のところは今のところ」


 あやかが少し笑った。


「ありがと」


「何が?」


「別に」


 今度はあやかがそう言った。


 莉莉は何となく腹が立ったので、あやかの脇腹をつついた。


「やめて」


「別に」


「莉莉」


「何」


「お母さんのこと好き?」


 昼間の車の中を思い出した。


 ――大じじいのこと好き?


 ことみちゃんにそう聞いた。


 今度は自分の番らしい。


「普通」


「普通って何!」


「普通は普通」


「そこは好きって言うところでしょう!」


「うるさい」


「莉莉」


「なに」


「好き?」


 莉莉は少しだけ考えた。


「……普通」


 あやかが笑った。


「はいはい」


 莉莉も少しだけ笑った。


 ~~~


 夜になっても、雨は降っていた。


 莉莉は自分の部屋のベッドに寝転がり、端末を見ていた。


 こうたからメッセージが来ている。


 写真だった。


 何か分からない。


 拡大する。


 さらに分からない。


『なにこれ』


 送る。


 すぐ返事が来た。


『晩飯』


『まずそう』


『うまい』


『見えない』


『心で見ろ』


『無理』


 既読。


 しばらくして、


『大じじい生きてた?』


 と来た。


 莉莉は笑った。


『生きてた』


 少し考えて、


『今日ちょっと変だった』


 と続けた。


『大じじいが?』


『それはいつも』


『ひどい』


 莉莉は笑う。


『雨』


 既読がついた。


 返事が少し遅れた。


『赤?』


 莉莉は指を止めた。


 こうたも知っている。


 カエル天気予報の赤くらい、誰でも知っている。


『一回すごい赤』


『今は?』


 莉莉は窓を見る。


 カーテンの向こうから雨音が聞こえる。


『たぶん黄色』


『じゃあ寝ろ』


『まだ寝ない』


『子どもは寝ろ』


『おっさんも寝ろ』


『まだ若い』


『55』


 しばらく返事が来なかった。


 勝った。


 莉莉は満足して端末を置いた。


 窓の外では雨が降っている。


 今日もずっと降っている。


 明日もたぶん降る。


 莉莉は布団に入った。


 階下から、あやかとりりかの笑い声が聞こえた。


 ことみちゃんの声もする。


 何を話しているのかは分からない。


 莉莉は少しだけ耳を澄ませた。


 まあ、いいか。


 明日聞けばいい。


 目を閉じる。


 雨の音がする。


 昔からずっと聞いてきた音。


 莉莉は雨の音が嫌いではない。


 むしろ、好きだった。


 雨の日は、


 世界が少しだけ静かになる。


※幕間1で差し込む莉莉のイラストを、制作依頼しています。完成後、こちらに追加予定です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。