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カエル天気予報  作者: 美濃 陽介
カエル天気予報 第一部 カエル天気予報編
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第1章「雨の世界の日常」 第3話 雨の街

妻が戻ってきたのは、午後三時を少し過ぎた頃だった。


「ただいま。莉莉、帰るよ」


病室のドアが開くなり、それだけ言った。


「早くない?」


「どこがよ」


「もっと遅いと思ってた」


「おばあちゃんのところ寄って、買い物して、用事も済ませてきたの。十分遅いでしょう」


「元気だったか」


俺が訊く。


「誰が?」


「母さん」


「元気よ」


妻はバッグを椅子に置いた。


「歯は?」


「歯医者に行けって言ってきた」


「それだけ?」


「それだけ」


「何しに行ったんだ」


「あなたのお母さんの話を二時間聞いてきたのよ」


「ご苦労」


「本当にね」


百二歳になっても、人に二時間話すことがあるらしい。


大したものだ。


妻は俺のベッド脇を見る。


空になったプリンの容器が二つ並んでいた。


「あ」


莉莉が言った。


俺も、


「あ」


と言った。


妻が俺たちを見る。


「二つ食べたの?」


「一個ずつ」


莉莉が答える。


「それ、明日の分も入れておいたんだけど」


「大じじいが食べていいって」


「言ってない」


「結果的に食べたじゃん」


「お前が先に食べたからだろ」


「十三歳と張り合わないの」


妻に怒られた。


納得できない。


「帰るよ、莉莉」


「はーい」


莉莉は宿題をカバンにしまい始めた。


妻はその様子を見ながら、俺に言う。


「明後日また来るから」


「来なくていいぞ」


「洗濯物どうするの」


「ここでも頼める」


「お金かかるでしょう」


「お前が来るガソリン代もかかるだろ」


「そういう問題じゃないの」


そういう問題だと思う。


ただ、六十年近く付き合ってきて、こういう話で妻に勝った記憶はほとんどない。


諦めた。


「大じじい」


莉莉がカバンを肩に掛けた。


「なんだ」


「またね」


「ああ」


「明後日も生きててね」


「努力する」


「そこは約束してよ」


「八十歳に無茶言うな」


莉莉が笑った。


妻は呆れた顔をしている。


「行くよ」


「はーい」


二人が病室を出ていく。


廊下から莉莉の声が聞こえた。


「ことみちゃん、今日カエル変だったよ」


妻の声。


「何が?」


「すっごい赤くなった」


「赤なんていつもでしょう」


「違う赤」


声が遠ざかっていく。


俺はテレビを見た。


カエルは黄色だった。


~~~


療養所の玄関を出ると、雨は思っていたより強かった。


曾祖母は傘を開いた。


莉莉も自分の傘を開く。


「赤じゃないのに」


莉莉が空を見上げた。


「何が?」


「雨」


「黄色でも降るでしょう」


「そうだけど」


駐車場までの短い道を二人で歩く。


雨水は道路脇の排水路へ勢いよく流れている。


山側では珍しくもない光景だった。


遠くで警報音が聞こえた。


莉莉が振り返る。


道路の向こうを、災害救助隊の車両が何台か走っていく。


「また下?」


「でしょうね」


曾祖母は気にした様子もなく歩いている。


「今日、多くない?」


「雨降ってるんだから、そんな日もあるでしょう」


「ふうん」


莉莉はもう一度、低地の方を見る。


山の斜面から、その先に広がる札幌の街が見えた。


街。


そう呼んでいいのか、莉莉は時々分からなくなる。


山側には昔からの地面が残っている。


道路もある。


家もある。


学校もある。


少し下れば、水際に新しく造られた建物が並んでいる。


その先は水だ。


ずっと水。


その中から、古い建物の上の方だけが、ところどころ突き出している。


さらに遠くには、人工基盤の上に造られた新しい街区が見える。


莉莉にとっては、それが札幌だった。


昔は違ったらしい。


今日、大じじいがそう言っていた。


低いところに人がたくさん住んでいた。


地下に電車まで走っていた。


変なの。


莉莉はそう思う。


「何してるの。濡れるよ」


曾祖母が振り返った。


「今行く」


莉莉は小走りで車へ向かった。


~~~


「ことみちゃん」


「なに?」


「大じじいって昔からあんな感じ?」


車が山側の道路を走り始めてしばらくして、莉莉が訊いた。


曾祖母は前を見たまま答えた。


「あんな感じって?」


「なんか、面倒くさそうな感じ」


「昔から」


即答だった。


「やっぱり」


「自分から人のところに行かないし、連絡もしないし」


「今日も言ってた」


「何て?」


「用がないのに行ってどうするって」


曾祖母が笑った。


「言いそう」


「かいとおじさんの横須賀だって、一回も行ったことないでしょ」


「呼ばれれば行くんじゃない?」


「そういうところ」


「何が?」


「呼ばれないと行かないところ」


曾祖母がまた笑った。


「そうね」


「でも、嫌いじゃないんだって」


「何が?」


「孫とかひ孫」


「当たり前でしょう」


「そうなの?」


曾祖母が一瞬だけ莉莉を見る。


「あなた、大じじいに嫌われてると思ってたの?」


「そこまでは思ってないけど」


莉莉は窓の外を見る。


雨粒が横へ流れていく。


「なんか、興味ないのかなって」


「そう見えるわよね」


「うん」


曾祖母は少し考えた。


「昔からそうなのよ」


「ふうん」


「子どもが小さい頃も、べたべた可愛がるような人じゃなかったし」


「こうたも?」


「こうたも、かいとも、りりかも」


「へえ」


「でもね」


曾祖母は前を向いたまま言った。


「困ったときは、いるのよ」


「いる?」


「そう」


「どこに?」


「そういう意味じゃなくて」


曾祖母が笑った。


「本当に必要なときは、ちゃんといるってこと」


莉莉にはよく分からなかった。


「普段いないのに?」


「普段はいなくていいのよ」


「変なの」


「そうね」


曾祖母も否定しなかった。


「ことみちゃんは?」


「何が?」


「大じじいのこと好き?」


車が一瞬、静かになった。


「莉莉」


「なに?」


「十三歳にもなったんだから、聞いていいことと悪いことくらい分かるでしょう」


「悪いことなの?」


「悪くはないけど」


「じゃあ好き?」


「うるさい」


莉莉は笑った。


「好きなんだ」


「降ろすよ」


「雨だよ」


「知ってる」


「カエル赤くするよ」


「できるの?」


「できない」


「じゃあ黙ってなさい」


莉莉はしばらく笑っていた。


~~~


車は山側の道を離れ、水際に近い地区へ向かっていた。


昔なら中心部へ向かう道だったらしい。


今は違う。


水没を免れた場所と人工基盤をつなぐため、道路は何度も高さを変える。


古い道路。


新しい高架。


水上道路。


それらが継ぎ足されるようにつながっている。


莉莉はこの景色が嫌いではなかった。


東京とは違う。


東京はもっと高い。


もっと大きい。


もっときれいだ。


水没した昔の街の上に巨大な人工基盤が広がり、その上に新しい東京がある。


莉莉も札幌へ来るまでは、そこで暮らしていた。


札幌はもっと地面が近い。


水も近い。


古いものと新しいものが、きれいに分かれずに残っている。


「東京帰りたい?」


曾祖母が突然訊いた。


「なんで?」


「外見てたから」


「別に」


「お友達いるでしょう」


「連絡してるし」


「じいじもいるし」


「うん」


「札幌つまらない?」


莉莉は少し考えた。


「普通」


「何それ」


「普通は普通」


「お母さんは楽しそうだけどね」


「大学?」


「そう」


莉莉は窓に額を近づけた。


「お母さん、大学楽しそうだよね」


「楽しそうね」


「いいなあ」


「何が?」


「別に」


莉莉は窓の外を見た。


母親がどうして今になって大学へ通っているのか。


どうして自分たちが東京を離れて札幌へ来たのか。


そんなことは、莉莉にとってはもう日常の一部だった。


東京には東京の生活がある。


札幌には札幌の生活がある。


こうたとは今でも連絡できる。


じいじにも会おうと思えば会える。


それに札幌には――


莉莉は少し考えた。


大じじいもいる。


まあ、それも悪くない。


~~~


車が止まった。


前方で交通規制が行われている。


黄色い防水服を着た係員が、車列を別の道路へ誘導していた。


「何?」


莉莉が身を乗り出す。


「分からない」


曾祖母が車内表示を確認する。


道路情報が更新された。


《第七水際区画 一部冠水》


「またか」


曾祖母が言った。


「ここ高いよね?」


「高いわよ」


「なんで冠水するの?」


「知らないわよ」


車は誘導され、別の高架へ入る。


莉莉は後ろを振り返った。


規制された道路の向こうに、水が見える。


雨で霞んでよく分からない。


でも、いつもより近い気がした。


「ことみちゃん」


「なに?」


「水、増えてない?」


「雨降ってるんだから増えるでしょう」


「そうじゃなくて」


「じゃあ何」


莉莉は答えなかった。


何が違うのか、自分でも分からない。


ただ、何となく。


嫌な感じがした。


大じじいがテレビの赤いカエルを見たときの顔を思い出す。


――まずいな。


あのときは、ボケたのかと思った。


少しだけ。


本当に少しだけ。


莉莉は指先を窓ガラスに触れた。


冷たい。


雨粒が流れている。


意識を少しだけ、その向こうへ伸ばす。


雨を弱くするときと同じように。


いつもの場所に、いつもの感覚はあった。


莉莉はそれをつまむ。


ほんの少し引く。


――動かない。


「……あれ」


「何?」


曾祖母が訊く。


「なんでもない」


莉莉はもう一度試した。


今度は少し強く。


雨音が、ほんのわずかに小さくなった。


できる。


できるけれど。


何かが違う。


重い。


莉莉は眉をひそめた。


何が重いのかは分からない。


雨そのものなのか。


自分の調子が悪いのか。


それとも、別の何かなのか。


もう一度引いてみる。


やっぱり重い。


莉莉は指を離した。


雨音が元に戻る。


「今日、変」


「何が?」


「雨」


「ずっと変でしょう」


「そうじゃなくて」


「じゃあ何」


莉莉は少し考えた。


「……分かんない」


「じゃあ変じゃないんじゃない?」


「そうかな」


「そうよ」


曾祖母はあっさり言った。


莉莉も、


「そっか」


と答えた。


その程度のことだった。


車列がゆっくりと動き始める。


莉莉はもう一度窓の外を見た。


雨。


水。


水没した街。


いつもの札幌だ。


さっきの妙な感覚も、もう薄れている。


莉莉は端末を取り出した。


こうたから、またメッセージが来ていた。


さっきの麺類を食べ終えた写真。


『完食』


莉莉は、


『知らん』


と返した。


すぐ既読がついた。


莉莉は笑った。


窓の外では、雨が降り続いている。


さっき感じた妙な重さのことは、もうほとんど忘れていた。


莉莉にとって雨とは、そういうものだった。


生まれたときから、ずっとそこにある。


明日も降る。


明後日もたぶん降る。


だから今日だけ何かがおかしいなんて、


まだ考える理由はなかった。


お読みいただきありがとうございます。

次回は幕間、莉莉りりの日常のお話です。

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