第1章「雨の世界の日常」 第2話 大じじいと莉莉
五分後。
カエルは黄色になった。
「戻ったね」
「ああ」
「何だったんだろ」
「知らん」
「さっき、まずいって言ったじゃん」
「言ったな」
「何がまずかったの?」
「分からん」
「分からないのに言ったの?」
「そういうこともある」
莉莉は納得していない顔をした。
テレビの中では、さっきまで異様な紅色をしていたカエルが、何事もなかったように黄色い傘をくるくる回している。
『札幌圏のカエル警戒度は黄色に変更されました』
明るい声でアナウンサーが告げる。
『局地的に強い雨が残る可能性があります。引き続き最新の情報にご注意ください』
莉莉はテレビを見た。
俺を見た。
もう一度テレビを見た。
「大じじい」
「なんだ」
「ボケた?」
「帰れ」
「迎え来ないと帰れない」
そうだった。
莉莉は満足そうに笑い、さっきまで妻が座っていた椅子に腰を下ろした。
俺はもう一度テレビを見る。
黄色い。
間違いなく、いつもの黄色だ。
見間違いだったとは思わない。
莉莉も見ている。
なら、少なくとも俺の頭だけの問題ではない。
それで十分だ。
今は。
「ねえ」
「なんだ」
「暇」
「知るか」
「大じじいも暇でしょ」
「療養中だからな」
「何してるの、いつも」
「何もしてない」
「一日中?」
「一日中」
「楽しい?」
「楽しくはない」
「じゃあ何かすればいいじゃん」
十三歳は簡単に言う。
八十歳になると、何かをするにもそれなりの理由が必要になる。
……ということもない。
面倒なだけだ。
「お前、宿題持ってきたんじゃなかったのか」
「あ」
「あ、じゃない」
莉莉は足元に置いていた鞄を見た。
しばらく見ている。
「持ってきた?」
「たぶん」
「確認しろ」
「大じじい、そういうところだけちゃんとしてるよね」
「そういうところだけとは何だ」
莉莉が鞄を開けた。
中からタブレット端末と筆記具、それから薄いノートを取り出す。
「何の宿題だ」
「学校の」
「それは分かる」
「じゃあ聞かないでよ」
「教科を聞いてるんだ」
「ああ」
莉莉は端末を操作した。
「社会」
「社会?」
「昔の都市について」
嫌な予感がした。
「昔っていつだ」
「水没する前」
もっと嫌な予感がした。
莉莉は画面をこちらに向けた。
昔の札幌の地図が表示されている。
俺にとっては、昔というほど昔ではない。
少なくとも記憶の中では。
「水没前の札幌市では、人口の多くが平地部に集中していました。その理由を地形と交通網から説明しなさい」
莉莉が読み上げた。
「知らん」
「知ってるでしょ」
「八十歳を何だと思ってるんだ」
「生きた資料」
「帰れ」
「だから帰れないって」
莉莉が笑う。
俺は画面を覗き込んだ。
地図には、かつての札幌駅、大通、その周辺の市街地が表示されている。
今ではかなりの部分が水の下だ。
「札幌駅って、本当にこんなところにあったの?」
「本当にって何だ」
「だって今、水じゃん」
「昔は水じゃなかった」
「駅の周りに普通に人が住んでた?」
「住んでた」
「怖くない?」
「何が」
「低いじゃん」
俺は莉莉を見た。
本気で言っている。
「昔は、こんなに水が来なかったんだよ」
「ああ、そっか」
莉莉にとっては、高いところに住む方が普通なのだ。
低地に巨大な街をつくり、そこに大勢の人間が暮らしていた時代の方がおかしく見えるらしい。
莉莉は地図を拡大した。
「地下鉄って、これ?」
「ああ」
「地下に電車走ってたの?」
「走ってた」
「水の下じゃん」
「だから昔は水じゃない」
「地下なのに?」
「お前、地下を何だと思ってる」
莉莉が笑った。
俺も昔の地図を見る。
そこにある札幌と、窓の外に広がっている札幌。
同じ街だ。
そう言われればそうなのだろう。
「東京もこんな感じだった?」
莉莉が訊いた。
「ああ」
「じいじの会社の下も?」
「昔は街だった」
「へえ」
りりかの夫――莉莉の祖父は、今も東京で会社を経営している。
正確には、昔の東京の上だ。
水没した市街地の上に人工基盤が造られ、その上に新しい街が広がっている。
今では、みんな普通に東京と呼んでいる。
その下に昔の東京が沈んでいることなど、普段は誰も気にしない。
莉莉も、札幌へ来るまではそこで暮らしていた。
「下、見たことあるだろ」
「あるよ」
「どうだった」
「水」
「そうじゃなくて」
「建物もあった」
「怖くなかったか」
莉莉は少し考えた。
「別に」
そういうものなのだろう。
「でも、下に住んでる人は大変そう」
「見たのか」
「うん。こうたと下まで行ったことある」
「何やってんだ、あいつ」
「ご飯食べに」
「わざわざ下まで?」
「こうたが、おいしい店あるって」
いかにもやりそうだ。
「あいつと二人で行ったのか」
「うん」
「りりか知ってるのか」
「知らないんじゃない?」
「言っとけ」
「なんで?」
「何かあったら面倒だろ」
「何もなかったよ」
「何もなかったから言えるんだ」
莉莉がじっと俺を見る。
「大じじい、意外と心配性だね」
「普通だ」
「私のこと全然連絡してこないくせに」
言われて、少し詰まった。
「用事ないからな」
「誕生日も?」
「送ってるだろ」
「お金」
「一番いいだろ」
「まあね」
そこは否定しないらしい。
莉莉は端末に視線を戻した。
「大じじいって、孫とかひ孫とか、あんまり好きじゃないの?」
「なんでそうなる」
「だって全然来ないし」
「呼ばれたら行くだろ」
「呼ばれないと来ないじゃん」
「用もないのに行ってどうする」
「普通に遊びに来ればいいじゃん」
「何して遊ぶんだ。八十だぞ」
「知らない」
「俺も知らない」
莉莉が笑った。
俺は窓の外を見る。
雨は少し弱くなっていた。
莉莉の術が効いているのか、天気そのものが変わったのかは分からない。
「嫌いじゃないよ」
「何が?」
「孫とか、ひ孫とか」
「ふうん」
「ただ、お前らにはお前らの生活があるだろ」
莉莉は黙っている。
「俺がいなくても普通に生活してる。それでいい」
「大じじい死んだら、ちょっと後悔するかもよ」
「俺が?」
「私が」
俺は莉莉を見る。
莉莉は端末を見たままだった。
「じゃあ今来てるからいいだろ」
「そうだね」
それで話は終わった。
たぶん、それくらいでいい。
~~~
莉莉は宿題を始めた。
俺はテレビを見ていた。
十分ほどして、
「大じじい」
と呼ばれた。
「なんだ」
「これ分かる?」
「分からん」
「まだ見せてない」
「じゃあ見せろ」
端末を差し出される。
今度は昔の職業についての資料だった。
「二十一世紀前半には、同一の職業に長期間従事することが一般的であった――」
莉莉が読み上げる。
「これ本当?」
「人による」
「大じじいは?」
「いろいろやった」
「何してたっけ」
「いろいろ」
「それじゃ宿題に書けない」
「俺を宿題に使うな」
「研究者だったんでしょ?」
「大学にもいた」
「何の研究?」
「人間」
莉莉が顔を上げた。
「怖」
「そういう意味じゃない」
「人間をどうしたの」
「何もしてない」
「ほんと?」
「お前、俺を何だと思ってる」
莉莉が笑った。
「人が働くこととか、心とか、そういうのだ」
「ふうん」
「興味ないだろ」
「別に」
そう言ったわりに、莉莉は端末から顔を上げなかった。
「研究って、何から研究になるの?」
「何だそれ」
「分からないことを調べたら、研究?」
「そんな単純でもないけどな」
「じゃあ、雨とかでも?」
「なるだろ」
「カエルでも?」
「やり方次第じゃないか」
「ふうん」
「何だ」
「別に」
莉莉はまた端末を操作し始めた。
少しして、何でもないように言う。
「大じじいは、研究、面白かった?」
「面白くなかったらやってない」
「ずっと?」
「ずっと面白い仕事なんてないだろ」
「そうなの?」
「たぶんな」
莉莉は少し考えた。
「じゃあ、なんで続けたの」
今度は俺が考えた。
「分からないことがあったからじゃないか」
「分かった?」
「少しは」
「全部は?」
「分かったら研究することなくなるだろ」
「ああ」
莉莉は納得したようだった。
それからまた宿題に戻る。
俺もテレビへ視線を戻した。
しばらくして莉莉が、
「私はうちの会社以外の仕事する」
と呟いた。
「急に何だ」
「何でもない」
「じいさんの会社、継がないのか」
「誰か継ぐでしょ」
「誰が」
「知らない」
「無責任だな」
「私の会社じゃないもん」
それもそうだ。
莉莉は端末に何かを書き込んでいる。
その横顔は、さっきより少しだけ真面目だった。
何を書いたのかは聞かなかった。
聞かれたくないことを聞かないのは、大人の仕事だ。
たぶん。
~~~
昼を少し過ぎた頃、雨がまた強くなった。
窓を叩く音が大きくなる。
莉莉は宿題を終えたらしく、ベッド脇の椅子に座ってテレビを眺めていた。
カエルは黄色。
さっきの異様な赤は出てこない。
「大じじい」
「なんだ」
「お腹すいた」
「俺に言うな」
「何かない?」
「そこにばあさんが置いてっただろ」
莉莉が袋を探る。
「あ」
「何だ」
「プリン」
「俺のだぞ」
「二個ある」
「二個とも俺のだ」
「十三歳からプリン二個取る八十歳ってどうなの」
「俺のだからな」
莉莉は一個持っていった。
「おい」
「いただきます」
「まだやるとは言ってない」
「おいしい」
もう食べている。
仕方なく俺も一個取った。
莉莉と並んでプリンを食べる。
テレビでは、別の地域の天気をやっている。
道東は黄色。
東北は橙。
関東は赤。
「東京、赤だ」
莉莉が言った。
「ああ」
「じいじ大丈夫かな」
「会社にいるなら大丈夫だろ」
「こうたは?」
「知らん」
莉莉はすぐに端末を手に取った。
「何してる」
「聞く」
「何て」
「生きてる? って」
「お前、それ俺にも言ったな」
「確認は大事だから」
数秒後。
返事が来たらしい。
莉莉が吹き出した。
「何だ」
「見て」
画面を見せられる。
こうたから写真が送られていた。
昼飯らしい。
何かよく分からない麺類が、丼いっぱいに盛られている。
その下に一言だけ。
『生存』
「馬鹿だな」
莉莉が俺を見る。
「大じじいと同じこと言ってる」
「何が」
「私も今、馬鹿って送った」
「そうか」
莉莉は楽しそうに返信している。
俺はプリンを食べながらテレビを見る。
関東は赤。
札幌は黄色。
いつもの天気予報だ。
何もおかしくない。
何も起きていない。
それでいい。
「大じじい」
「なんだ」
莉莉が空になったプリンの容器をこちらに差し出した。
「これ捨てといて」
「自分で捨てろ」
「療養中で暇なんでしょ」
「帰れ」
「迎え来ないと帰れないって」
また同じことを言われた。
莉莉が笑う。
俺も空になった容器を置いた。
窓の外では、雨が降り続いている。
テレビの中では、黄色いカエルがいつもの間の抜けた顔で笑っていた。
五分前まで赤かったことなど、
最初からなかったみたいに。
第2話です。
大じじい(私)と莉莉(りり、ひ孫)の、何も起きない雨の日のお話でした。
しばらく、この世界と二人にお付き合いいただければ嬉しいです。




