↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
カエル天気予報  作者: 美濃 陽介
カエル天気予報 第一部 カエル天気予報編
PR
1/22

第1章「雨の世界の日常」 第1話 カエル天気予報

3年前に脳症で2か月近く意識が戻らない時期がありました。

その時に見ていた夢を物語に再構築して、小説風にしてみました。


少し不思議な世界なのですが、楽しんでもらえたら嬉しいです。

テレビの中で、赤いカエルが傘を差していた。


今日も雨らしい。


もっとも、この世界では雨が降らない日の方が珍しい。


『札幌圏では午後から夜にかけて雨脚が強まる見込みです。山間部では局地的な土砂災害に、低地では浸水域の拡大に注意してください』


画面の隅で、赤いカエルが黄色い傘を差している。


ずいぶん間の抜けた絵面だ。


人の生き死にに関わる情報を伝えているというのに、こいつはいつも愛想がいい。


「今日は赤か」


誰に言うでもなく呟いた。


療養所の窓を、細かな雨粒が伝っている。


俺のいる部屋は山側にあって、天気のいい日なら札幌の低地を広く見渡せる。


もっとも、天気のいい日など、ほとんどない。


今日も厚い雲が空を覆っていた。


その下には灰色の水面が広がっている。


かつて街だった場所だ。


ところどころに陸地が島のように残り、その間から建物の上部が顔を出している。遠くでは小さな船が動いていた。


山側の道路を、災害救助隊の車両が一台、低地へ向かって走っていく。


いつもの景色だ。


この世界は、かなりうまくいっている。


少なくとも――これまでの世界に比べれば。


テレビに視線を戻す。


カエルはまだ赤い。


雨はやまない。


札幌のかなりの部分が水の下にある。


それでも人は暮らしている。


働き、学校へ行き、恋愛をして、子どもを育てる。


俺の家族もそうだ。


妻がいる。


子どもたちがいる。


孫も、ひ孫もいる。


それなら、まあ。


悪くない世界なんじゃないか。


そう思ったところで、病室のドアが勢いよく開いた。


「ちょっと、これどこに置けばいいの」


妻だった。


八十一歳。


俺より一つ年上。


今日も髪をきちんと整え、雨の日だというのに明るい色のジャケットを着ている。靴まで妙にきれいだ。


八十を過ぎても、この女は身なりに手を抜かない。


療養所に夫の着替えを届け、汚れたパンツを回収するだけなのだから、もう少し適当な格好でもいいと思うのだが。


そういうことを言うと怒るので、黙っている。


その後ろから、小柄な少女がひょこっと顔を出した。


「大じじい、生きてる?」


「見れば分かるだろ」


「一応確認」


莉莉だった。


十三歳。


俺のひ孫である。


莉莉は妻が持っていたもう一つの袋を抱え、よいしょ、と部屋へ入ってきた。


「そこ置いて」


俺が言う。


「そこってどこよ」


妻が言う。


「そこ」


「だから、どこ」


「その椅子」


「最初から椅子って言いなさいよ」


妻は文句を言いながら袋を置いた。


莉莉もその横に自分の袋を下ろす。


「重かった」


「お前、何持ってきたんだ」


「知らない。ばあばに持てって言われた」


「着替えよ。頼まれたから持ってきたんでしょう」


「俺、こんなに頼んだか?」


「知らないわよ。足りないよりいいでしょう」


そう言いながら、妻は部屋の中を見回した。


「洗濯物は?」


「知らん」


「知らんって、自分の洗濯物でしょう」


「そこの棚じゃないか」


「なんで私が探すのよ」


「ことみちゃん、これじゃない?」


莉莉がベッド脇の棚から袋を引っ張り出した。


「それそれ」


「お前、よく分かったな」


莉莉が袋の口を少し開けた。


「臭いで」


「嘘つけ」


莉莉が笑った。


妻は中身を確認する。


莉莉も横から覗き込んだ。


「大じじい、パンツ多くない?」


「見るな」


「こんなにいる?」


「入院したら分かる」


「やだよ。入院しないし」


「そうしろ」


妻が袋の口を縛りながら、俺を見た。


「他には?」


「ない」


「本当に?」


「たぶん」


「あなたの『たぶん』は信用できないのよ」


八十一にもなって、相変わらずよく動く女だ。


俺がここに入ってからも、何かと理由をつけてはやって来る。


着替えを持ってきて、洗濯物を持って帰る。


頼んでいない日用品を置いていく。


そして、俺が置いた場所を忘れたものまで見つけて帰る。


「ことみちゃん」


莉莉が妻の顔を見た。


「なに?」


「髪、ちょっと広がってる」


妻の動きが止まった。


「嘘」


「ちょっとだけ」


妻はすぐにバッグから小さな鏡を取り出した。


「やっぱり。最悪」


「赤ガエルの日にその髪型にするからでしょ」


「朝は大丈夫だったのよ」


俺はテレビを見ながら言った。


「八十一にもなって誰が見るんだ」


一瞬、部屋が静かになった。


莉莉が俺を見る。


妻も鏡越しに俺を見る。


「あなたに見せるためにやってるんじゃないわよ」


「知ってる」


「大じじい」


莉莉が小声で言った。


「それ、言ったら駄目なやつだよ」


「言ってから分かった」


「遅いよ」


妻がため息をついた。


「本当に二人ともそっくり」


「どこが」


俺と莉莉の声が重なった。


妻が鏡をしまった。


「そういうところよ」


不本意である。


莉莉も同じ顔をしていた。


たぶん、あいつも不本意なのだろう。


テレビから軽快な音楽が流れた。


『現在、札幌圏のカエル警戒度は赤となっています。不要不急の外出は可能な限りお控えください』


莉莉がテレビを見る。


それから妻を見た。


「ことみちゃんに言っても無駄じゃない?」


「何が」


「外出控えろって」


「車だから大丈夫よ」


「そういう問題かな」


「そういう問題よ」


妻は時計を確認した。


「もう行かないと」


「どこ行くんだ」


俺が訊く。


「お母さんのところ」


「俺の?」


「他に誰がいるのよ」


俺の母親は百二歳になる。


「ああ」


「歯の調子が悪いっていうから」


「歯?」


「そう」


「何の」


「知らないわよ。インプラントだか入れ歯だか」


百二歳になって歯の心配をするのか。


「アーマーは?」


「着てる」


「そうか」


会話はそこで終わった。


莉莉だけが、


「百二歳でインプラントって意味あるのかな」


と呟いた。


「本人に言え」


「絶対言わない。怒るもん」


「俺も言わない」


二人で頷いた。


「聞こえてるからね」


妻が言った。


「お前に言ったんじゃない」


「ことみちゃんに言ってないよ」


「ほんっとに似てる」


また言われた。


今度は莉莉も反論しなかった。


妻は洗濯物の袋を抱え、バッグを肩に掛けた。


「莉莉、行くよ」


「私、残る」


妻が止まった。


俺も莉莉を見る。


「なんで?」


妻が訊いた。


「大じじいといる」


「なんで?」


今度は俺が訊いた。


莉莉は少し考えた。


「暇だから」


「俺も暇だぞ」


「じゃあちょうどいいじゃん」


よく分からない理屈だった。


「迎えに来るまでここにいる」


「時間かかるわよ」


「いいよ」


「お母さんに連絡した?」


「しとく」


「宿題は?」


「持ってきた」


「本当に?」


「たぶん」


妻が眉をひそめた。


「その『たぶん』、誰に似たのかしら」


俺を見る。


「俺じゃない」


「大じじいだね」


「お前だろ」


莉莉が笑った。


妻は時計をもう一度見た。


本当に時間がないらしい。


「じゃあ、あとで迎えに来るから」


「分かった」


妻は俺を見る。


「ちゃんと見ててよ」


「十三歳だぞ。犬じゃないんだから勝手にしてるだろ」


「そういう意味じゃない」


莉莉が言った。


「大じじいの方を見ててって意味じゃない?」


妻が少し考えた。


「それもある」


「俺は八十歳だぞ」


「知ってる」


「大人だ」


莉莉が首を傾げた。


「八十歳を大人っていうのかな」


「じゃあ何だ」


「老人」


「帰れ」


莉莉が声を上げて笑った。


妻も笑っている。


「じゃあ行ってくるから。何かあったら連絡して」


「赤だぞ。気をつけろよ」


俺がテレビを指した。


「分かってるって」


妻はそう言って病室を出ていった。


廊下を歩いていく足音が遠ざかる。


しばらくして、部屋に静けさが戻った。


雨の音が聞こえる。


テレビではまだカエル天気予報が続いていた。


俺と莉莉は並んで画面を見る。


「赤いな」


「赤いね」


「ばあさん、大丈夫か」


「ことみちゃんなら大丈夫でしょ」


「そうだな」


あいつなら大丈夫だろう。


世界が二つ三つ壊れたくらいでは、たぶん予定を変えない。


もちろん、妻はそんな世界を知らない。


俺だけが知っている。


莉莉が窓の外を見た。


低い雲。


雨。


水没した札幌。


その向こうで、雷が光った。


数秒遅れて低い音が響く。


莉莉が眉をひそめた。


「うるさいなあ」


「雷が?」


「うん」


莉莉は立ち上がり、窓際へ歩いていった。


「何するんだ」


「ちょっとだけ」


「何を」


「静かにする」


窓ガラスに手を触れる。


また雷が光った。


莉莉の指先が、ほんの少し動く。


何かをつまんで、引っ張るような仕草だった。


次の雷鳴は来なかった。


しばらくすると、窓を叩いていた雨音もわずかに弱くなった。


「便利だな、それ」


俺が言う。


「そう?」


「そうだろ」


「別に。ちょっと静かになるだけだよ」


莉莉は大したことでもないように言った。


こいつにとっては、そういうものなのだ。


生まれたときから自分にある。


少し雨を弱める。


少し雷を静かにする。


それだけ。


俺が見てきたものに比べれば、確かに大したことはないのかもしれない。


ただ――。


莉莉は窓の外を見たまま言った。


「大じじい」


「なんだ」


「昔ってさ」


「うん」


「雨、降ってなかったの?」


俺は答えなかった。


莉莉が振り返る。


「大じじい?」


「降ってたよ」


「ふうん」


「ただ」


「ただ?」


俺も窓の外を見る。


灰色の水面。


ところどころに残る陸地。


その向こうまで続く雨雲。


「こんなには、降ってなかった」


莉莉はしばらく考えた。


「そっか」


それだけだった。


「雨ない方がいい?」


「どうだろうな」


「私は雨、嫌いじゃないよ」


「そうか」


「音も好きだし」


莉莉は自分の髪に触れた。


「でもジメジメするのは嫌。髪ぐちゃぐちゃになるし」


「そこはばあさんそっくりだな」


「やめて」


即答だった。


俺は少し笑った。


十三歳の莉莉にとって、雨は異常でも災害でもない。


生まれたときから、ずっとここにある。


雨のない世界を知らない。


俺は知っている。


いくつも知っている。


雨のない世界。


海ばかりの世界。


何もかも壊れてしまった世界。


人間の方が世界より先に壊れてしまった場所もあった。


それでも俺は、今ここにいる。


この世界には妻がいる。


莉莉がいる。


母親までまだ生きている。


雨くらい降っていたっていい。


そう思っている。


少なくとも、今は。


テレビから明るい音楽が流れた。


『それでは、明日のカエル天気予報です』


新しいカエルが画面に現れた。


俺は何となくテレビを見る。


「大じじい」


莉莉が言った。


「なんだ」


「カエル、変じゃない?」


見る。


赤い。


さっきも赤かった。


だが――違う。


赤というより、紅に近い。


妙に鮮やかで、画面の中でそこだけが浮き上がっているように見えた。


莉莉も窓際からテレビの前まで戻ってきた。


「こんな赤、初めて見た」


俺は答えなかった。


カエルを見つめる。


知っている。


この色を、俺は知っている。


莉莉が俺を見る。


「大じじい?」


いつだった。


どの世界だった。


思い出そうとする。


だが、肝心なところだけが抜け落ちている。


覚えているのは、この赤を見たこと。


そして――


その後に、何かが起きたこと。


テレビの中で、赤いカエルがこちらを向いた。


笑っていた。


いつもの、間の抜けた顔で。


俺は無意識に呟いた。


「……まずいな」


「何が?」


莉莉が訊いた。


答えなかった。


まだ、何も起きていない。


だから今度こそ――


余計なことはしない方がいい。


そう思った。


窓の外で、雨がまた少し強くなった。


週に2~3ペースで投稿していきたいと思います。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。