第1章「雨の世界の日常」 第1話 カエル天気予報
3年前に脳症で2か月近く意識が戻らない時期がありました。
その時に見ていた夢を物語に再構築して、小説風にしてみました。
少し不思議な世界なのですが、楽しんでもらえたら嬉しいです。
テレビの中で、赤いカエルが傘を差していた。
今日も雨らしい。
もっとも、この世界では雨が降らない日の方が珍しい。
『札幌圏では午後から夜にかけて雨脚が強まる見込みです。山間部では局地的な土砂災害に、低地では浸水域の拡大に注意してください』
画面の隅で、赤いカエルが黄色い傘を差している。
ずいぶん間の抜けた絵面だ。
人の生き死にに関わる情報を伝えているというのに、こいつはいつも愛想がいい。
「今日は赤か」
誰に言うでもなく呟いた。
療養所の窓を、細かな雨粒が伝っている。
俺のいる部屋は山側にあって、天気のいい日なら札幌の低地を広く見渡せる。
もっとも、天気のいい日など、ほとんどない。
今日も厚い雲が空を覆っていた。
その下には灰色の水面が広がっている。
かつて街だった場所だ。
ところどころに陸地が島のように残り、その間から建物の上部が顔を出している。遠くでは小さな船が動いていた。
山側の道路を、災害救助隊の車両が一台、低地へ向かって走っていく。
いつもの景色だ。
この世界は、かなりうまくいっている。
少なくとも――これまでの世界に比べれば。
テレビに視線を戻す。
カエルはまだ赤い。
雨はやまない。
札幌のかなりの部分が水の下にある。
それでも人は暮らしている。
働き、学校へ行き、恋愛をして、子どもを育てる。
俺の家族もそうだ。
妻がいる。
子どもたちがいる。
孫も、ひ孫もいる。
それなら、まあ。
悪くない世界なんじゃないか。
そう思ったところで、病室のドアが勢いよく開いた。
「ちょっと、これどこに置けばいいの」
妻だった。
八十一歳。
俺より一つ年上。
今日も髪をきちんと整え、雨の日だというのに明るい色のジャケットを着ている。靴まで妙にきれいだ。
八十を過ぎても、この女は身なりに手を抜かない。
療養所に夫の着替えを届け、汚れたパンツを回収するだけなのだから、もう少し適当な格好でもいいと思うのだが。
そういうことを言うと怒るので、黙っている。
その後ろから、小柄な少女がひょこっと顔を出した。
「大じじい、生きてる?」
「見れば分かるだろ」
「一応確認」
莉莉だった。
十三歳。
俺のひ孫である。
莉莉は妻が持っていたもう一つの袋を抱え、よいしょ、と部屋へ入ってきた。
「そこ置いて」
俺が言う。
「そこってどこよ」
妻が言う。
「そこ」
「だから、どこ」
「その椅子」
「最初から椅子って言いなさいよ」
妻は文句を言いながら袋を置いた。
莉莉もその横に自分の袋を下ろす。
「重かった」
「お前、何持ってきたんだ」
「知らない。ばあばに持てって言われた」
「着替えよ。頼まれたから持ってきたんでしょう」
「俺、こんなに頼んだか?」
「知らないわよ。足りないよりいいでしょう」
そう言いながら、妻は部屋の中を見回した。
「洗濯物は?」
「知らん」
「知らんって、自分の洗濯物でしょう」
「そこの棚じゃないか」
「なんで私が探すのよ」
「ことみちゃん、これじゃない?」
莉莉がベッド脇の棚から袋を引っ張り出した。
「それそれ」
「お前、よく分かったな」
莉莉が袋の口を少し開けた。
「臭いで」
「嘘つけ」
莉莉が笑った。
妻は中身を確認する。
莉莉も横から覗き込んだ。
「大じじい、パンツ多くない?」
「見るな」
「こんなにいる?」
「入院したら分かる」
「やだよ。入院しないし」
「そうしろ」
妻が袋の口を縛りながら、俺を見た。
「他には?」
「ない」
「本当に?」
「たぶん」
「あなたの『たぶん』は信用できないのよ」
八十一にもなって、相変わらずよく動く女だ。
俺がここに入ってからも、何かと理由をつけてはやって来る。
着替えを持ってきて、洗濯物を持って帰る。
頼んでいない日用品を置いていく。
そして、俺が置いた場所を忘れたものまで見つけて帰る。
「ことみちゃん」
莉莉が妻の顔を見た。
「なに?」
「髪、ちょっと広がってる」
妻の動きが止まった。
「嘘」
「ちょっとだけ」
妻はすぐにバッグから小さな鏡を取り出した。
「やっぱり。最悪」
「赤ガエルの日にその髪型にするからでしょ」
「朝は大丈夫だったのよ」
俺はテレビを見ながら言った。
「八十一にもなって誰が見るんだ」
一瞬、部屋が静かになった。
莉莉が俺を見る。
妻も鏡越しに俺を見る。
「あなたに見せるためにやってるんじゃないわよ」
「知ってる」
「大じじい」
莉莉が小声で言った。
「それ、言ったら駄目なやつだよ」
「言ってから分かった」
「遅いよ」
妻がため息をついた。
「本当に二人ともそっくり」
「どこが」
俺と莉莉の声が重なった。
妻が鏡をしまった。
「そういうところよ」
不本意である。
莉莉も同じ顔をしていた。
たぶん、あいつも不本意なのだろう。
テレビから軽快な音楽が流れた。
『現在、札幌圏のカエル警戒度は赤となっています。不要不急の外出は可能な限りお控えください』
莉莉がテレビを見る。
それから妻を見た。
「ことみちゃんに言っても無駄じゃない?」
「何が」
「外出控えろって」
「車だから大丈夫よ」
「そういう問題かな」
「そういう問題よ」
妻は時計を確認した。
「もう行かないと」
「どこ行くんだ」
俺が訊く。
「お母さんのところ」
「俺の?」
「他に誰がいるのよ」
俺の母親は百二歳になる。
「ああ」
「歯の調子が悪いっていうから」
「歯?」
「そう」
「何の」
「知らないわよ。インプラントだか入れ歯だか」
百二歳になって歯の心配をするのか。
「アーマーは?」
「着てる」
「そうか」
会話はそこで終わった。
莉莉だけが、
「百二歳でインプラントって意味あるのかな」
と呟いた。
「本人に言え」
「絶対言わない。怒るもん」
「俺も言わない」
二人で頷いた。
「聞こえてるからね」
妻が言った。
「お前に言ったんじゃない」
「ことみちゃんに言ってないよ」
「ほんっとに似てる」
また言われた。
今度は莉莉も反論しなかった。
妻は洗濯物の袋を抱え、バッグを肩に掛けた。
「莉莉、行くよ」
「私、残る」
妻が止まった。
俺も莉莉を見る。
「なんで?」
妻が訊いた。
「大じじいといる」
「なんで?」
今度は俺が訊いた。
莉莉は少し考えた。
「暇だから」
「俺も暇だぞ」
「じゃあちょうどいいじゃん」
よく分からない理屈だった。
「迎えに来るまでここにいる」
「時間かかるわよ」
「いいよ」
「お母さんに連絡した?」
「しとく」
「宿題は?」
「持ってきた」
「本当に?」
「たぶん」
妻が眉をひそめた。
「その『たぶん』、誰に似たのかしら」
俺を見る。
「俺じゃない」
「大じじいだね」
「お前だろ」
莉莉が笑った。
妻は時計をもう一度見た。
本当に時間がないらしい。
「じゃあ、あとで迎えに来るから」
「分かった」
妻は俺を見る。
「ちゃんと見ててよ」
「十三歳だぞ。犬じゃないんだから勝手にしてるだろ」
「そういう意味じゃない」
莉莉が言った。
「大じじいの方を見ててって意味じゃない?」
妻が少し考えた。
「それもある」
「俺は八十歳だぞ」
「知ってる」
「大人だ」
莉莉が首を傾げた。
「八十歳を大人っていうのかな」
「じゃあ何だ」
「老人」
「帰れ」
莉莉が声を上げて笑った。
妻も笑っている。
「じゃあ行ってくるから。何かあったら連絡して」
「赤だぞ。気をつけろよ」
俺がテレビを指した。
「分かってるって」
妻はそう言って病室を出ていった。
廊下を歩いていく足音が遠ざかる。
しばらくして、部屋に静けさが戻った。
雨の音が聞こえる。
テレビではまだカエル天気予報が続いていた。
俺と莉莉は並んで画面を見る。
「赤いな」
「赤いね」
「ばあさん、大丈夫か」
「ことみちゃんなら大丈夫でしょ」
「そうだな」
あいつなら大丈夫だろう。
世界が二つ三つ壊れたくらいでは、たぶん予定を変えない。
もちろん、妻はそんな世界を知らない。
俺だけが知っている。
莉莉が窓の外を見た。
低い雲。
雨。
水没した札幌。
その向こうで、雷が光った。
数秒遅れて低い音が響く。
莉莉が眉をひそめた。
「うるさいなあ」
「雷が?」
「うん」
莉莉は立ち上がり、窓際へ歩いていった。
「何するんだ」
「ちょっとだけ」
「何を」
「静かにする」
窓ガラスに手を触れる。
また雷が光った。
莉莉の指先が、ほんの少し動く。
何かをつまんで、引っ張るような仕草だった。
次の雷鳴は来なかった。
しばらくすると、窓を叩いていた雨音もわずかに弱くなった。
「便利だな、それ」
俺が言う。
「そう?」
「そうだろ」
「別に。ちょっと静かになるだけだよ」
莉莉は大したことでもないように言った。
こいつにとっては、そういうものなのだ。
生まれたときから自分にある。
少し雨を弱める。
少し雷を静かにする。
それだけ。
俺が見てきたものに比べれば、確かに大したことはないのかもしれない。
ただ――。
莉莉は窓の外を見たまま言った。
「大じじい」
「なんだ」
「昔ってさ」
「うん」
「雨、降ってなかったの?」
俺は答えなかった。
莉莉が振り返る。
「大じじい?」
「降ってたよ」
「ふうん」
「ただ」
「ただ?」
俺も窓の外を見る。
灰色の水面。
ところどころに残る陸地。
その向こうまで続く雨雲。
「こんなには、降ってなかった」
莉莉はしばらく考えた。
「そっか」
それだけだった。
「雨ない方がいい?」
「どうだろうな」
「私は雨、嫌いじゃないよ」
「そうか」
「音も好きだし」
莉莉は自分の髪に触れた。
「でもジメジメするのは嫌。髪ぐちゃぐちゃになるし」
「そこはばあさんそっくりだな」
「やめて」
即答だった。
俺は少し笑った。
十三歳の莉莉にとって、雨は異常でも災害でもない。
生まれたときから、ずっとここにある。
雨のない世界を知らない。
俺は知っている。
いくつも知っている。
雨のない世界。
海ばかりの世界。
何もかも壊れてしまった世界。
人間の方が世界より先に壊れてしまった場所もあった。
それでも俺は、今ここにいる。
この世界には妻がいる。
莉莉がいる。
母親までまだ生きている。
雨くらい降っていたっていい。
そう思っている。
少なくとも、今は。
テレビから明るい音楽が流れた。
『それでは、明日のカエル天気予報です』
新しいカエルが画面に現れた。
俺は何となくテレビを見る。
「大じじい」
莉莉が言った。
「なんだ」
「カエル、変じゃない?」
見る。
赤い。
さっきも赤かった。
だが――違う。
赤というより、紅に近い。
妙に鮮やかで、画面の中でそこだけが浮き上がっているように見えた。
莉莉も窓際からテレビの前まで戻ってきた。
「こんな赤、初めて見た」
俺は答えなかった。
カエルを見つめる。
知っている。
この色を、俺は知っている。
莉莉が俺を見る。
「大じじい?」
いつだった。
どの世界だった。
思い出そうとする。
だが、肝心なところだけが抜け落ちている。
覚えているのは、この赤を見たこと。
そして――
その後に、何かが起きたこと。
テレビの中で、赤いカエルがこちらを向いた。
笑っていた。
いつもの、間の抜けた顔で。
俺は無意識に呟いた。
「……まずいな」
「何が?」
莉莉が訊いた。
答えなかった。
まだ、何も起きていない。
だから今度こそ――
余計なことはしない方がいい。
そう思った。
窓の外で、雨がまた少し強くなった。
週に2~3ペースで投稿していきたいと思います。




