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カエル天気予報  作者: 美濃 陽介
カエル天気予報 第一部 カエル天気予報編
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14/22

幕間3 あやか


「無理かも」


あやかは机に突っ伏した。

隣から声がした。


「まだ始まって十五分だけど」


「だから無理なの」


「早くない?」


「無理なものは、早めに無理って分かった方がいいでしょ」


「そういう問題かな」


あやかは顔だけを横に向けた。


「直人、分かる?」


「今のところは」


「嫌い」


「なんで」


「二十歳の脳、ずるい」


「年齢のせいにしないで」


「十二年違うんだよ」


「そこ、自分で言うんだ」


「都合のいい時は言う」


直人が笑った。

講義室の窓を、雨が流れていた。

外は灰色だった。


大学に入って二年目。

三十二歳。

獣医学部。


二十歳前後の学生に混じって講義を受けていることにも、だいぶ慣れた。

最初の頃は、教室に入るだけで少し緊張した。

自分だけ間違った場所に来たような気がした。

今はもう、あまり思わない。

分からないものは分からない。

試験は難しい。

課題は多い。

若いからといって、みんな頭がいいわけでもない。

三十二歳だからといって、人生のことが全部分かるわけでもない。

そのくらいは分かった。


「ここ」


直人がノートを指した。


「この順番で考えればいい」


「どこから?」


「ここ」


「その前が分からない」


「じゃあここから」


「その前」


「かなり戻るね」


「だから無理って言ったじゃん」


「農学部にする?」


あやかは顔を上げた。


「今から?」


「最近よく言ってるから」


「農学部でもよかったかも、とは思ってる」


「獣医やめる?」


「それはまだ言ってない」


「じゃあ勉強して」


「はい」


直人はまたノートを指した。

あやかも仕方なく画面へ目を戻した。


~~~


午後は実習だった。

採血の練習もあった。

もちろん、莉莉に自慢できるほど上手ではない。

教員の説明を聞きながら、位置を確認する。

動物は教科書の図みたいに止まっていてはくれない。


「難しい……」


思わず声が出た。

隣にいた学生が笑った。


「美濃さん、昨日もそれ言ってましたよ」


「昨日より難しい」


「昨日は採血じゃないです」


「じゃあ今日が一番難しい」


「明日も言ってそう」


たぶん言う。

あやかはそう思った。

それでも、嫌ではなかった。

生きているものに触れる。


呼吸している。


動く。


嫌がる。


怖がる。


こちらの都合どおりにはならない。

その当たり前のことが、あやかには面白かった。

生き物は、数字だけでは分からない。

でも、数字を知らなくても分からない。

環境も同じだった。


水も。


街も。


人も。


たぶん。



実習が終わる頃には、雨が少し強くなっていた。

大学の屋根付き通路を歩きながら、あやかはスマホを見る。


雨表示は黄色。

第七水域の一部で水位上昇。

まだ大きな警告ではない。


「また見てる」


隣を歩いていた直人が言った。


「何を?」


「水位」


「ああ」


「好きだよね」


「好きっていうか、気になる」


あやかは画面を指で広げた。


水域。

道路。

建物。

排水設備。

小さな緑地。


昔の地図を重ねれば、その下に別の街がある。


水に沈んだ場所。

水際になった場所。

人が作り直した場所。

その境界に、生き物がいる。


「この辺、面白いんだよね」


「第七?」


「うん」


「また行く?」


「行きたい」


「調査?」


「まだ調査って言えるほどじゃないけど」


あやかは歩きながら画面を見る。


「水が増えた場所って、人間には災害じゃん」


「うん」


「でも、そこに別の生き物が入ってきたりするでしょ。植生も変わるし、鳥も来るし。人が住んでる場所との境目も変わる」


「うん」


「それでまた人間が壁作ったり、水路変えたりするじゃん」


「うん」


「そうするとまた変わる」


直人が少し笑った。


「そういう話してる時、元気だね」


あやかが止まる。


「何それ」


「午前中、無理って言ってた人と同じ人に見えない」


「それとこれは別」


「獣医学部でよかった?」


あやかは少し考えた。


「……農学部でもよかったかも」


「また言った」


「でも」


雨の向こうを見る。

遠くの建物が白く霞んでいる。


「獣医でも、こういうことできるでしょ」


「できると思う」


「動物だけ診るわけじゃないし」


「うん」


「人間の街の中で動物がどう生きるかとか。水が増えた場所で何が起きるかとか。病気の広がり方だって環境で変わるし」


直人が頷いた。


「それやりたいの?」


「分かんない」


「分かんないんだ」


「まだ二年だよ」


「三十二歳だけど」


あやかが直人を見る。


「関係ある?」


「ないです」


「よろしい」


また歩き出した。


~~~


子どもの頃。

りりかの仕事を、よく分かっていなかった。

パソコンの画面に街が映っていた。

色の違う土地。


川。


海。


建物。


昔と今。


衛星から撮った写真。


りりかはそれを見ながら、人が暮らす場所のことを考えていた。

今も考えている。


水がどこまで来るのか。


土地をどう使うのか。


どこを残すのか。


どこを変えるのか。


あやかには、地図にしか見えなかった。

でも、りりかには違うものが見えていたらしい。

ずっと後になって、それが少し分かった。

ママと同じことがしたかったわけじゃない。

今もそうだ。


りりかは、街を広く見る。


上から見る。

変化を見る。


あやかは、その中にいるものが気になった。


水辺に何がいるのか。

動物はどこへ行くのか。

植生はどう変わるのか。

そこで人間はどう暮らすのか。


どちらが正しいということでもない。


たぶん、見ている場所が少し違う。

それだけだった。


「何考えてるの?」


直人に聞かれた。


「ママのこと」


「りりかさん?」


「うん」


「似てるよね」


あやかが眉を寄せる。


「どこが」


「そういうところ」


「分かんない」


「俺も説明できない」


「じゃあ言わないで」


「はい」


少し歩いてから、あやかは言った。


「似てないよ」


「うん」


「ママ、もっとちゃんとしてるし」


「そうかな」


「仕事できるし」


「あやかもできるようになるんじゃない?」


「何年後」


「知らない」


「無責任」


「じゃあ、ならないかも」


「それも嫌」


直人が笑った。


~~~


学食は夕方になると空いていた。

あやかはコーヒー。

直人は甘い飲み物。

その違いを見るたび、少しだけ年齢差を感じる。


「今日、莉莉ちゃんは?」


「もう帰ってると思う」


「一人?」


「ことみちゃん来てると思う」


「おばあちゃん?」


「うん」


直人はストローをくわえた。


「あのさ」


「何」


「この前の」


「何?」


「お父さん」


あやかの手が止まった。


「……ああ」


「会うんだよね」


「会いたいって」


「怖い?」


「パパ?」


「うん」


あやかは少し考える。


「大丈夫」


「ほんと?」


「たぶん?」


「たぶんなんだ」


「パパ、私には甘いから」


「それ、俺には関係ない気がする」


「あるよ」


「どこに」


「私が止める」


「何を?」


「面接」


直人が黙った。

あやかは笑った。


「冗談」


「今、一瞬無理と思った」


「大丈夫だって。普通にしてれば」


「普通って何」


「私の彼氏」


「それが一番緊張するんだけど」


あやかはコーヒーを飲んだ。

直人と付き合い始めた時、十二歳下だから好きになったわけではない。

若い人と付き合いたかったわけでもない。


大学に入って。

同じ講義を受けて。

話すようになって。

一緒に課題をやって。

気がついたら、好きになっていた。


二十歳だった。

それだけだった。

直人にとっても、たぶん同じだった。


三十二歳の女を好きになったわけではない。

十三歳の娘がいる女を選んだわけでもない。

同級生のあやかを好きになった。

あとから、いろいろついてきた。


年齢も。


莉莉も。


家族も。


「後悔してる?」


あやかが聞いた。


「何を?」


「私」


直人が眉を寄せた。


「急に重くない?」


「今聞きたくなった」


「してないけど」


「ほんと?」


「うん」


「莉莉いるよ」


「知ってる」


「三十二だよ」


「知ってる」


「パパ、ちょっと面倒だよ」


「それはまだ知らない」


あやかは笑った。


「じゃあ、そのうち分かる」


「知りたくないな」


「遅い」


~~~


帰る頃には、外は暗くなっていた。

雨はまだ降っている。

直人とは駅で別れた。


「じゃあ明日」


「うん」


「復習してね」


「考えとく」


「しない人の言い方」


「莉莉も検査の人に同じこと言われてた」


「何が?」


「覚えてたら教えてって言われて、努力しますって」


直人が笑った。


「親子だね」


「違う」


「似てるよ」


「似てない」


「はいはい」


「その言い方むかつく」


電車の扉が閉まる。

直人が手を振った。

あやかも小さく振り返した。


~~~


家に着く。

玄関を開けると、暖かかった。

雨の音が少し遠くなる。


「ただいま」


返事はない。

靴を脱ぐ。


「ただいまー」


奥から声がした。


「おかえり」


莉莉だった。


リビングに入ると、ソファに寝転がっている。

タブレット。

教科書。

ノート。


「勉強してるの?、ことみちゃんは?」


「してた。さっき帰った。大じじのとこかな。」


「勉強は過去形?」


「休憩」


「何分?」


「知らない」


「絶対長いやつじゃん」


莉莉が顔を上げる。


「今日、何したの」


「実習」


「動物の採血?」


「やった」


「できた?」


「難しかった」


莉莉が少し笑う。


「私の方が上手だった?」


「採られる方で比べる?」


「私、動かなかったし」


「偉いね」


「でしょ」


あやかは鞄を置いた。

莉莉が聞く。


「ごはん何?」


「最初にそれ?」


「大事だから」


「ママは?」


「まだ帰ってきてない」


「じゃあ何か作る?」


莉莉が少し考える。


「オムライス」


「この前食べたじゃん」


「食べたらだめなの?」


「だめじゃないけど」


「じゃあオムライス」


「卵あるかな」


「ある」


「なんで知ってるの」


「見たから」


「じゃあ作るか」


あやかが冷蔵庫を開ける。

後ろから莉莉が言った。


「あやか」


「何?」


「直人は?」


あやかが振り返った。


「なんで急に名前知ってるの」


「ママに聞いた」


「もう」


「何」


「なんでもない」


「今日一緒だった?」


「いたよ」


「ふうん」


莉莉はまたタブレットを見る。

それだけだった。


「何?」


あやかが聞く。


「何が?」


「何か言わないの?」


「別に」


「聞いただけ?」


「聞いただけ」


「そう」


冷蔵庫から卵を出す。

三つ。

少し考えて、もう一つ出した。


「莉莉」


「何」


「ケチャップある?」


「ある」


「なんで全部知ってるの」


「ここに住んでるから」


「私も住んでる」


「最近大学ばっかりじゃん」


「学生だからね」


莉莉がこちらを見る。


「あやか、大学楽しい?」


あやかは卵を持ったまま止まった。


「何、急に」


「別に」


少し考える。


今日も難しかった。

分からないことだらけだった。

採血も上手くできなかった。

課題もある。

試験もある。

この先、何を専門にするのかも決まっていない。

獣医になって何をするのか。

そもそも本当に獣医になるのか。

まだ分からない。

三十二歳なのに。


いや。


三十二歳だからなのかもしれない。


「楽しいよ」


あやかは言った。


「大変だけど」


「ふうん」


「何?」


「別に」


莉莉はまた画面に目を戻した。

あやかは卵を割った。


一つ。


二つ。


三つ。


四つ。


雨の音がする。


ママはたぶんまだ仕事をしている。

莉莉は数学の問題を解いている。

直人はたぶん、帰りの電車に乗っている。

明日になれば、また大学へ行く。

分からないことを勉強する。


たぶんまた、


無理かも。


と言う。


それでも行く。


「ねえ、あやか」


「何?」


「卵焼きじゃないからね」


「分かってるよ」


「前、間違えたから」


「一回だけでしょ」


「一回は一回」


「うるさいなあ」


莉莉が笑った。


あやかも笑った。


外では、


今日も雨が降っていた。


莉莉と同じくらい好きな登場人物があやかです。

彼氏とずっとお付き合いしていくのかはわかりません。

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