第2章「雨の世界の人々」 第10話 雨を曲げる子
次の日の昼休み。
「美濃さん」
呼ばれて、莉莉は顔を上げた。
知らない顔ではない。
同じ学年。
名前はたぶん、
「……えっと」
「三組の小野寺」
「ああ」
「今、忘れてたでしょ」
「ちょっとだけ」
「ちょっとならいいけど」
よくはない気もした。
小野寺は笑っていた。
莉莉の机の横に立つ。
美羽が弁当を食べながら、小野寺を見る。
「何?」
「佐々木さんには用ない」
「感じ悪」
「ごめん」
「謝るの早」
紬は隣で卵焼きを食べている。
莉莉も自分の弁当に戻ろうとした。
「で、何?」
「美濃さん、カエル術使えるよね」
またそれか。
莉莉は箸を止めた。
「使えるけど」
美羽が口を挟む。
「昨日も使ってもらった」
「自慢しないで」
「便利だったよ」
「人を道具みたいに言わないで」
小野寺が少し笑った。
「俺も使える」
「そうなの?」
「うん」
それは知らなかった。
そういえば。
この学校には、莉莉のほかにも能力者が一人いた気がする。
誰だったかまでは覚えていなかった。
たぶん、小野寺だったのだろう。
能力者は千人に一人くらい。
藤中には、たしか莉莉のほかにもう一人。
その程度の認識だった。
「それで?」
莉莉が聞く。
小野寺が少し言いにくそうにする。
「放課後、ちょっと見てほしいんだけど」
「何を?」
「俺の」
「カエル術?」
「うん」
美羽が身を乗り出した。
「何それ。面白そう」
「美羽には言ってない」
「でももう聞いた」
「来るの?」
「行く」
「勝手に決めないで」
莉莉が言った。
紬が卵焼きを飲み込む。
「私も行こうかな」
「紬まで」
「だって気になる」
小野寺が莉莉を見る。
「だめ?」
「別にいいけど」
「よかった」
「でも、私、何も教えられないよ」
「教えてほしいんじゃなくて」
小野寺は少し迷ってから言った。
「比べてみたい」
「何を?」
「だから、カエル術」
莉莉は首を傾げた。
比べるものなのだろうか。
定期検査ではいろいろ測られる。
でも、普段ほかの能力者がどう使うかを見たことは、それほど多くなかった。
「まあ、いいけど」
「ありがと」
小野寺は少し安心した顔をして、自分の教室へ戻っていった。
美羽が莉莉を見る。
「なんか頼られてる」
「やめて」
「先生みたい」
「もっとやめて」
紬が笑う。
「でも莉莉、人に教えるの向いてそう」
「向いてない」
「即答」
「面倒だもん」
「それ先生に言ったら怒られるよ」
「先生にならないし」
莉莉は卵焼きを食べた。
甘かった。
少しだけ機嫌がよくなった。
~~~
放課後。
四人は校舎裏の屋根付き通路まで来た。
雨は朝からずっと同じくらい。
強くも弱くもない。
表示も緑。
「ここでいいの?」
莉莉が聞く。
「うん。先生にも言った」
小野寺が言った。
「ちゃんとしてる」
美羽が言う。
「普通でしょ」
「私たち、昨日寄り道しようとしてたから」
「比べないで」
通路の先には、屋根の切れた場所がある。
小野寺はそこまで歩いていった。
「見てて」
「うん」
小野寺が右手を雨の中へ出した。
少し集中する。
莉莉は黙って見た。
雨粒が小野寺の手のひらへ落ちる。
しばらくして。
手の周囲だけ、雨の軌道がわずかにずれた。
まっすぐ落ちていた雨が、ほんの少し外側へ広がる。
「おお」
美羽が言った。
「できてる」
「できてるよ」
小野寺が少し不満そうに言う。
「そこじゃなくて」
「じゃあ何?」
「美濃さん」
莉莉を見る。
「うん」
「これ、どのくらいできる?」
「どのくらいって?」
「もっと曲げられる?」
「たぶん」
「やってみて」
莉莉は傘を持っていなかった。
屋根の下なので必要ない。
屋根の外へ手を出す。
雨が指先へ当たる。
いつもの感じ。
今日は特に変ではない。
莉莉は指を少し動かした。
つまむ。
引く。
手の前に落ちていた雨が横へ流れた。
「……え?」
小野寺が言った。
莉莉は手を少し右へ動かす。
それに合わせるように、雨の流れも右へずれる。
手の周囲だけではない。
莉莉の腕の幅より少し広い範囲。
そこだけ、降ってくる雨が斜めに流れていた。
「こんな感じ?」
小野寺が黙っている。
美羽は、
「昨日より分かりやすい」
と言った。
紬も雨を見る。
「風じゃないよね」
「風だったら全部動くでしょ」
莉莉が言う。
「そうだけど」
小野寺がようやく口を開いた。
「それ、普通にできるの?」
「普通にって?」
「今」
「できるけど」
「その範囲?」
「うん」
「どのくらいまで?」
莉莉は考えた。
「どのくらいだろ」
「分かんないの?」
「測ったことはあるけど、覚えてない」
「覚えてないんだ……」
「数字、いっぱい出るし」
「いや、でも」
小野寺が雨と莉莉を交互に見る。
「俺、これくらいしかできないよ」
もう一度手を出す。
小野寺の周りの雨が、少しだけ外側へ動く。
莉莉は見た。
「できてるじゃん」
「いや、そうじゃなくて」
「何が?」
「美濃さんの、全然違うじゃん」
莉莉は自分の手を見る。
雨が当たっている。
「そう?」
「そうだよ」
「小野寺くん、莉莉と比べたらだめなんじゃない?」
紬が言った。
「なんで?」
美羽が聞く。
「莉莉、結構強いんでしょ」
「らしいよ」
莉莉が答える。
小野寺がまた莉莉を見る。
「らしいって」
「検査で言われるから」
「自分では分かんないの?」
「人の見ないし」
「今見たじゃん」
「うん」
莉莉はもう一度、小野寺の手を見る。
「小野寺くんは、どうやってるの?」
「どうって」
「雨」
「こう……押す感じ」
小野寺が手のひらを前へ出す。
莉莉は少し考えた。
「押すだけ?」
「だけって何」
「つままない?」
「つまむ?」
「うん」
「雨を?」
「雨っていうか」
説明しようとして、莉莉は困った。
「そこにあるやつ」
「そこにあるやつ?」
「だから……」
莉莉は手のひらを上に向けた。
雨へ意識を向ける。
つまむ。
引く。
少し回す。
手のひらの少し上で、落ちてきた雨粒がくるりと回った。
一つではない。
次の雨粒も、その次の雨粒も巻き込まれていく。
小さな渦になった。
莉莉の手のひらの上だけで、雨がくるくる回っている。
「……何それ」
小野寺が言った。
「こういうの」
「こういうのって」
美羽が顔を近づける。
「触っていい?」
「いいけど、濡れるよ」
「雨だからね」
「じゃあ聞かないで」
紬が笑った。
美羽が渦へ指を入れた。
「冷たっ」
「だから言ったじゃん」
「でも面白い」
「雨だよ」
「雨だけど」
美羽がもう一度触ろうとする。
莉莉は少し手をずらした。
渦もそれについて動く。
「逃げた」
「手濡れるでしょ」
「莉莉の手は?」
「もう濡れてる」
小野寺だけは笑っていなかった。
手のひらの上で回る雨をじっと見ている。
「それ、俺できない」
「そうなの?」
「そうなのって……」
莉莉が指を離す。
渦がほどけた。
雨粒はそのまま地面へ落ちていった。
「じゃあ、押すのは?」
莉莉が聞く。
「押す?」
「うん」
小野寺がやってみせる。
手の前の雨が、少し外へ押し出される。
「こんな感じ」
「ふうん」
莉莉も手のひらを出す。
押す。
雨が一気に左右へ割れた。
小野寺が固まった。
美羽が笑った。
「小野寺くん、かわいそう」
「何で?」
「同じことしてるのに全然違う」
「笑うなよ」
「ごめん」
全然反省していない。
小野寺は少し悔しそうだった。
「やっぱ美濃さん強いんだ」
「そうみたい」
「もっと嬉しそうにしないの?」
「何が?」
「強いって言われて」
莉莉は考えた。
「別に」
「出た」
美羽が言った。
「何」
「莉莉の『別に』」
「別にいいでしょ」
「ほら」
紬が笑う。
小野寺もつられて笑った。
「でも、なんか安心した」
「何が?」
「俺が下手すぎるのかと思ってたから」
莉莉は小野寺を見る。
「下手じゃないんじゃない?」
「ほんと?」
「知らないけど」
「そこは言い切ってよ」
「だって私、基準知らないし」
「検査行ってるんでしょ?」
「行ってる」
「じゃあ知ってそうなのに」
「検査って、自分のこと測るだけだよ」
小野寺は納得したような、していないような顔をした。
「次いつ?」
「何が?」
「検査」
莉莉は少し考える。
「あ」
「忘れてた?」
「忘れてない」
「今の顔、忘れてたでしょ」
美羽が言う。
「来週」
「じゃあ聞いてみれば?」
小野寺が言った。
「何を?」
「普通どのくらいなのか」
莉莉は雨を見る。
「別にいいかな」
「気にならないの?」
「今まで困ってないし」
小野寺が笑った。
「美濃さん、変わってるね」
「小野寺くんに言われたくない」
「なんで俺?」
「放課後に人呼び出してカエル術見せるから」
「確かに」
紬が言った。
「高橋まで」
~~~
帰る時間になった。
小野寺は別方向だったので、校門で別れた。
「ありがと」
「何もしてないよ」
「見れたからいい」
「そっか」
「またなんかあったら聞いていい?」
莉莉は少し考えた。
「面倒じゃなければ」
「基準そこ?」
「大事」
小野寺は笑って、
「じゃあまた」
と手を振った。
三人で駅へ向かう。
美羽が言った。
「莉莉、結構すごいんだね」
「昨日見たじゃん」
「昨日は濡れないようにしてくれただけだったし」
「今日も同じだよ」
「全然違ったじゃん」
「そう?」
「雨、割れてたし」
紬が言う。
「渦も作ってた」
「あれは遊び」
「遊びでできるんだ」
「できるよ」
美羽が莉莉を横から見る。
「もっと何かできる?」
「何かって?」
「雨全部どっかやるとか」
「無理」
「雷落とすとか」
「無理」
「空晴らすとか」
「無理」
「じゃあ何できるの?」
「知らない」
「本人なのに?」
「できることはできる」
「意味分かんない」
莉莉は少し笑った。
駅へ続く屋根の下を歩く。
雨は静かに降っている。
小野寺の使い方を思い出した。
押す。
それだけ。
莉莉には少し不思議だった。
でも、小野寺から見れば、莉莉の方が不思議なのだろう。
たぶん。
「来週検査なんでしょ?」
紬が言った。
「うん」
「嫌?」
「普通」
「痛いの?」
美羽が聞く。
「採血はある」
「絶対嫌」
「私は英語の方が嫌」
「それと比べる?」
「英語、採血より嫌なの?」
紬が笑う。
莉莉は少し考えた。
「テスト前なら」
「重症だ」
「美羽に言われたくない」
三人で笑った。
雨の中を電車が走っていく音がした。
莉莉はそれを聞きながら歩いた。
自分が強いことは知っていた。
検査でも、何度も言われている。
でも。
強いというのが、
他の人とどれくらい違うことなのか。
莉莉は今まで、あまり考えたことがなかった。
まあ。
来週また測るのだから、
そのとき聞けばいい。
覚えていたら。
莉莉はそう思った。
そして次の瞬間には、
美羽が数学の宿題を写させてほしいと言い出したので、
そっちの方が問題になった。
カエル術は、一般市民に定着している呼称になります。
国際的・学術上の名称、定義等は次のお話で。




