第三話:長い夜
ショックは大きかった。
それでも幸いと言うべきか、私には帰りを待つ家族はいない。
会社でも、出世だけを目標に働いてきたわけじゃない。
だから、一番胸に引っかかったのは別のことだった。
……中途半端なまま残してきてしまった仕事。
農業は、一朝一夕で成果が出るものじゃない。
作物を育てる環境、とりわけ土壌の状態は、数え切れないほどの条件を試し、長い時間をかけて検証しなければ答えは見えてこない。
私の仕事は、IoT技術を活用し、農業をより効率的で持続可能なものへ変えていくことだった。
センサーから集めた膨大なデータを解析し、作物ごとに最適な栽培環境を探る。
そんな当たり前の仕事が、この世界では当たり前ではない。
案内された部屋を改めて見回す。
重厚な木製家具。
精巧な彫刻が施された調度品。
部屋を照らすのは、柔らかな灯りを揺らす蝋燭だけだった。
便利そうなものはあっても、電子機器らしきものは一つも見当たらない。
この世界の文明は、おそらく私の世界でいう中世後期から近世初期ほどだろう。
少なくとも、私が知る「農業DX」は存在しない。
先ほど侍女さんが淹れてくれた紅茶を、ゆっくりと口に運ぶ。
渋みはほとんどなく、花のような甘い香りが口いっぱいに広がった。
……間違いなく高級な茶葉だ。
高級茶は標高の高い産地で栽培されることが多いと聞いたことがある。
思わず窓の外へ目を向ける。
高い城壁の向こうでは、街の灯りがゆらゆらと揺れていた。
その上には、天幕を広げたような夜空。
見たこともない星座が、静かに瞬いている。
この場所も、広い世界の中にある一つの箱庭なのかもしれない。
落ち着こうとしているのに、変なことばかり考えてしまう。
本当なら、元の世界へ帰る方法や、これからどうすればいいのかを考えるべきなんだろう。
それなのに、私の頭は目の前にある土や気候、文化ばかりを分析しようとしている。
考えても答えの出ないことより、答えが見つかりそうなことへ思考が向いてしまう。
きっと、これが私の悪い癖なんだ。
静まり返った部屋に、カップをソーサーへ戻す小さな音だけが響く。
そのときだった。
コンコン。
コンコン。
控えめなノックの音が静寂を破る。
「どうぞ。」
返事をすると、ゆっくりと扉が開いた。
最初に入ってきたのは、大聖堂で見かけた青年だった。
整えられた金髪。
無駄のない所作。
どことなくアルベリク陛下に似ている。
この端正な顔立ちに、あの憂いを帯びた表情を重ねれば、きっとよく似た親子なのだろう。
だが、その蒼い瞳だけは父とは違っていた。
まっすぐで鋭く、私という人間を見極めようとしている。
その一歩後ろには、白い法衣をまとった女性が続く。
艶やかな濃紺の髪を後ろでまとめ、穏やかな笑みを浮かべていた。
「夜分に失礼いたします。」
優雅に一礼する。
「私はセレスタリア王国神官長、シンシア・ゼットストーンと申します。」
続いて青年も軽く一礼した。
「セレスタリア王国王太子、アルス・セレスタリアだ。」
王太子。
つまり、この国の次代を担う人物。
……お父さんとは違って、ずいぶん威圧感がある。
もっとも、その隣で柔らかな笑みを絶やさないシンシアさんがいるおかげで、不思議と部屋の空気は張り詰めすぎずに済んでいた。
二人で役割を分けているのだろうか。
「先ほどはろくにご挨拶もできませんでしたので、お顔を見に参りました。」
シンシアさんは柔らかく微笑んだ。
私は慌てて立ち上がる。
「いえ、お気遣いありがとうございます。」
二人を部屋へ招き入れると、侍女が三人分の紅茶を静かに置き、一礼して退室した。
再び部屋に静寂が訪れる。
最初に口を開いたのはシンシアさんだった。
「お疲れではありませんか。」
その一言に、不思議と肩の力が抜ける。
「正直に言うと……いろいろ考えすぎてしまって。疲れているはずなのに、頭だけが冴えています……」
「あら……それはいけませんね。」
シンシアさんは心配そうに顎へ指を添えた。
「緊張の糸が切れたとき、一気に疲れが押し寄せてしまいますわ。」
「突然、見知らぬ世界へ来られたのです。混乱なさらない方がおかしいのですから。」
その言葉だけで、胸につかえていたものが少し軽くなった気がした。
一方で、アルス殿下はこちらの会話には加わらず、窓辺へ歩み寄る。
城下町へ視線を向けたまま、静かに口を開いた。
「単刀直入に聞く。」
穏やかだった空気が、アルス殿下の一言で一瞬にして張り詰める。
「いま、あなたには何ができる。」
間髪入れずに結論を求めてくる。
この国に残された時間が少ないからこそなのだろう。
「……わかりません。」
それが分かるなら、私だって苦労しない。
「それでは困る。英雄召喚は我が国最後の希望だ。今この瞬間も、飢えに苦しむ民がいる。」
必死なのは伝わってくる。
でも、追い詰められた相手をさらに追い詰めても、答えは出てこない。
背中へ突き刺さるような視線に、思わず鳥肌が立った。
「……アルス殿下。」
シンシアさんが静かに名を呼ぶ。
「……失礼しました。」
先ほどまでの威厳はどこへやら。
アルス殿下は肩を震わせ、小さく姿勢を正した。
その様子に、私は思わず心の中で苦笑する。
……なるほど。
この二人の力関係は、よく分かった。
残念ながら、長い夜は始まったばかりだった。




