第二話:そして私は途方に暮れる
「ありがとうございます」
アルベリクは静かに口を開いた。
「蛍様。突然このような形でお招きしてしまった非礼、まずはお詫び申し上げます」
王であるはずの彼が、深々と頭を下げる。
周囲がどよめいた。
「陛下!」
「お顔をお上げください!」
当然だ。
突然現れた私のような一般人に、一国の王が頭を下げる理由などない。
それでもアルベリクは頭を上げようとしなかった。
豪華な衣装に身を包んでいるはずなのに、その背中はひどく疲れ切っていて、不思議と小さく見えた。
「余は、あなたをこの世界へ召喚した張本人です」
その一言で、自分が漫画や小説でしか見たことのない出来事の渦中にいることだけは理解した。
「……召喚、ですか?」
思わず聞き返す。
「王よ。大変恐れながら、この先の説明は私めが」
王の傍らに控えていた、シルバーブロンドの髪を一つに束ねた黒衣の男性が、一歩前へ進み出た。
「お初にお目にかかります。セレスタリア王国宰相、フランソワ・アズライトと申します」
胸に手を当て、優雅に一礼する。
「あなたは、この世界――オルガルドに古より伝わる秘儀『英雄召喚の儀』によって、このセレスタリア王国へお招きいたしました」
……やっぱり。
ゲームや小説の中でしか聞いたことのない言葉だ。
理解は追いつかないけれど、今は話を聞くしかない。
「現在、セレスタリア王国は建国以来最大ともいえる危機に直面しております」
フランソワの穏やかな口調とは裏腹に、その言葉は重かった。
「各地で凶作が相次ぎ、作物は実らず、家畜も育たない。食料不足は深刻化し、多くの民が飢えに苦しんでおります」
「さらに、その混乱に乗じて各地で反乱や暴動が発生し、王国は統治能力を失いつつあります」
静まり返った大聖堂に、フランソワの声だけが響く。
……冷静に聞いた限り、かなりまずい状況だ。
飢饉が起これば、人は食料を求めて争う。
それは歴史が何度も証明してきた。
けれど、本当に国を滅ぼすのは飢饉そのものじゃない。
飢えによって社会秩序が崩れ、人々が互いに争い始めることだ。
つまり、この国は今まさに、その段階にある。
私は一つ、大きく息を吐いた。
「それで……」
全員の視線が私へ集まる。
「私に、何をしてほしいんですか?」
その問いに、アルベリクは苦しそうに目を伏せた。
代わりにフランソワが静かに口を開く。
「――この国を、お救いいただきたいのです」
「は……?」
思わず声が漏れた。
あまりにも突拍子のないことを頼まれ、頭が追いつかない。
周囲から向けられる羨望と期待に満ちた視線が、かえって居心地の悪さを募らせる。
亡国の危機に呼ばれたのが、二十五歳のただの会社員。
人選を間違えているとしか思えなかった。
「私は英雄とは程遠い人間です。元いた世界では、ごく普通の一般人でしたし、戦うこともできません。」
農業大学を卒業し、IT企業で農業に関わる仕事をしている。
少し変わった経歴だと言われることはあっても、それと国を救うことはまったく別の話だ。
私には、この世界を救えるような特別な力なんてない。
そう口にすると、そう錯覚するほど大聖堂は静まり返った。
私の言葉を聞いたフランソワは、穏やかな笑みを浮かべる。
「蛍様。それは、この世界とあなたの世界で『英雄』という言葉の意味が異なるからでございましょう。」
「……意味が違うんですか?」
なんでだろう……。
この人の言葉には、不思議と人を安心させる力があった。
「はい。」
フランソワは静かにうなずく。
「オルガルドにおける英雄とは、武を振るい敵を討ち滅ぼす者だけを指す言葉ではありません。もちろん、そのような英雄も存在いたします。」
ゆっくりと私に理解させるように話す。
「しかし、本来の英雄とは、国難に際して人々を導き、未来を切り拓く者。」
「知恵によって国を救った者も、飢えた民を救った者も、新たな技術をもたらして暮らしを豊かにした者も、等しく英雄なのです。」
その言葉に、私は思わず息をのんだ。
「では……戦えなくても?」
「構いません。」
迷いのない返事だった。
「私どもが求める英雄とは、生まれや身分で決まるものではありません。何を成したか。その一点のみが、英雄たる資格なのです。」
私は思わず、自分の両手を見つめた。
何もできないのはわかっている。
それでも――。
私に、できることがあるのだろうか。
「だからこそ、我々はあなたをお招きしました。」
フランソワの眼差しは、まっすぐ私を見つめていた。
「英雄召喚の儀は、強き者を選ぶ術ではありません。」
「この国に今、本当に必要な者を招くための秘儀なのです。」
その言葉が胸に静かに落ちていく。
……だから、私だった。
納得したわけじゃない。
まだ何も理解できていない。
それでも、彼らが私を呼んだ理由だけは、少しだけ分かった気がした。
ただ、一つだけ確認しなくてはいけないことがある。
「……一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか。」
「もちろんです。」
「私は、元の世界へ帰ることはできるのでしょうか。」
アルベリクは苦しそうに目を伏せた。
あれだけ饒舌だったフランソワも静かに口を閉ざす。
大聖堂を包む沈黙だけで、その答えは十分だった。
やがて、アルベリクが絞り出すように口を開く。
「……申し訳…ありません…余にも、その答えは分からないのです。」
フランソワがその先を話し出す。
「歴代の文献には英雄召喚の記録は残されております。しかし、英雄がどのように元の世界へ帰ったのか──あるいは帰ることができたのか、その記録だけが失われているのです。」
胸の奥が、すっと冷えていく。
さっきまで「異世界」という言葉に現実味はなかった。
でも今、この瞬間に初めて理解した。
提出する予定だった資料。
飲み会で笑っていた同僚。
「また月曜日に」そう言って別れた上司。
走馬灯のように当たり前にくる日常が流れ出す
そんな当たり前の日常が、急に遠い世界の出来事になってしまった。
私は、元の世界へ帰れないかもしれない。




