第五話 因縁
「……な、んで」
肩を震わせ、まるで幽霊を見たかのように瞳孔を開く凛子に、アッシュは短く舌打ちを投げた。
「それはこっちのセリフだ。毎度毎度、これ見よがしに面倒なことに首を突っ込みやがって。ふざけるのも大概にしろ」
「……違う! なんで! なんで来ちゃったのよ!」
「ああ、まったくだ」
正直なところ、知ったことではなかった。当初は凛子のことなど気に留めず、予定通り街の図書館へ向かうつもりだった。実際、校門を出て数分はそのつもりで歩いていたのだ。
だが、どうにも頭の隅から彼女の後ろ姿が消えなかった。
嫌な予感、と呼ぶにはあまりに漠然としている。ただ、あのフードの男の歩き方が、妙に鼻についた。獲物を定めるような、明確な目的を持った人間の足取り。
放っておけと自分に言い聞かせても、意識がそちらへ引き戻される。考えるなと思うほど、思考のノイズは大きくなる。このままでは、図書館へ行ったところで本の内容など一行も頭に入らないだろう。
ならば、その元凶を排除してからでも遅くはない。そう自分を納得させて、踵を返した。それだけのことだ。
(まあ、この状況は流石に予想外だったがな)
先ほどの衝突による風圧で男のフードが剥ぎ取られ、その全容が露わになっていた。
炭火を思わせる赤髪。ところどころに黒が混ざり、燃え残りの灰のような色をしている。琥珀色の瞳は三白眼で、一目見ただけで気性の荒さが伝わってくる。
そしてその身に纏う、この世界では見慣れない仕立ての衣服。
それは、この世界に馴染んできたアッシュにとって、決して忘れられない忌まわしい記憶の残滓そのものだった。
「魔法のない世界――そう聞いていたが、訂正が必要なようだな」
「……それもこっちのセリフだ。クソが」
「……知り合い、なの?」
凛子の問いに、アッシュは鼻を鳴らした。
「だったら、俺は今頃とっくに死んでる」
学院で孤立していたアッシュに、知り合いと呼べる人間など殆どいない。日常的に嫌がらせをしてくる連中なら腐るほどいたが、その顔などいちいち覚えてはいなかった。覚えておくべきは、本当に警戒すべき上位者だけで十分だ。
逆に言えば、自分が打ち消せる程度の魔法しか使えない相手など、その他大勢の一人に過ぎない。
とはいえ、魔力量において相手が格上なのは明白だった。下手に刺激するのは得策ではない。アッシュはわずかに間合いを保ったまま、問いを投げた。
「どうしてお前のような奴がここにいやがる。あのクズ――ヘリオスの仕業か」
「まさか別の世界に来てまでも、その名を聞くことになるとはな」
「なら……」
「ああ。オレをこの世界に送り出したのはヘリオス・ノクス・ルミナリア。奴で間違いない」
(……やはり、か)
予感はあった。あの日、あの男の手によってこの世界に放り出された、あの瞬間から。
王太子ヘリオスの実力は学院でも群を抜いている。もはや学生の域を超え、歴史に名を残すレベルの化け物だ。そんな男が、転移魔法の「有用性」に気づかないはずがない。
行き先不明の不確実な転移。未完成であろうと、送り出す側にとっては、これほど都合の良い厄介払いの手段もないだろう。
「お前も実験体にされた口か」
「事実とはいえ、実験体とは言ってくれる。だが『お前も』ということは……やはり貴様が、あの『灰被り』か」
「……俺を知っているのか」
「おかしなことを言うな。あの学院に在籍していて、貴様の名を知らない方がどうかしている」
男はゆっくりと口角を上げた。
「灰被りのアッシュ・ヴェイル。実技はからきしのくせに、座学だけは常に上位に食い込む異物。貴族連中にとっては目障りでしかない厄介者――。そして、もう一つ」
琥珀色の瞳が細められる。
「――王太子殿下の、一番のお気に入り」
その一言に、アッシュの奥歯が軋んだ。
わずかに伏せられた視線。握りしめられた拳。
男はそれを見逃さず、醜く口元を歪めた。
「どうやら、灰被りが自分のことにしか興味がないというのは本当らしいな。周りがお前のことをどう噂していたか、全く知らないと見える」
「……クズ共の戯言なんかいちいち聞いていられるか」
「まあ、そうだろうな。あそこでは、オレたちのような連中は生き残るだけで手一杯だ。他人の視線なんぞ気にしていられん」
恐らく、こいつも弱者側の人間だったのだろう。
魔力を持ち、学院に入ったまではよかったが、血筋も後ろ盾もない。実力も突出していない。そうなれば扱いは決まっている。無視され、利用され、最後は誰かの踏み台にされる。
あの学院では大して珍しくもない、ありふれた末路だ。もっともその行き先が異世界送りにまで発展したのは、稀なケースだろうが。
「それで。お前はこれからどうするつもりだ。やはり、俺を殺すか?」
直球すぎる問いだと自分でも思った。だが、回りくどい探り合いをしている余裕はない。
「なぜ、そう思う」
「お前が魔法使いだからだ」
「ふっ、何を言うかと思えば、全く答えになっていないな」
「いいや、なってるだろ。むしろ、これ以上ないほどの模範解答だ」
「何?」
男の表情が微かに変わった。アッシュはそれを見逃さなかった。
「下手くそな演技はその辺にしておけってことだ。格下相手に気色の悪いニヤケ面まで浮かべやがって。そこまでして俺を消したいか?」
「……なぜ気づいた。オレが術式を編んでいると。隠蔽の魔法は確かに機能していたはずだが」
「簡単だ。俺の知る限り、魔法使いってのは漏れなく利己的だ。そんな奴がこんな都合のいい世界に飛ばされて、みすみす『同類』を見逃すはずがない。ましてや、因縁の種となった相手なら尚更だ」
ヘリオスが誰かをこの世界に送るとすれば、理由は一つ。要らないからだ。
有用性がなくなったか、あるいは最初から使い捨てだったか。あの男は気に入らなければ排除する、ただそれだけだ。
つまり目の前の男も、かつての自分と同じ、捨てられた残骸に過ぎない。
「……大した洞察力だ。だが、根拠としては些か薄いな。オレがお前と手を組む可能性だってあったはずだ」
「生憎、俺にも選ぶ権利くらいあるんでな」
「それはオレが、お前と手を組むに値しないと?」
「ああ。主に、人間性の部分でな」
「そうか。ならば期待に応えるとしよう」
その瞬間、路地の空気が爆ぜた。
「凛子!!」
アッシュはすでに防御魔法を展開しながら、背後の少女に向かって叫んでいた。轟音と熱気が狭い路地を呑み込む。
「走れ!!」
「でもっ!」
「俺は俺のできることをやる。だからお前は、お前のできることをやれ!」
一瞬の沈黙。
……弾かれたような足音が聞こえた。走り出している。
アッシュは右手に全ての感覚を集中させながら、もう一度、喉を裂かんばかりに叫んだ。
「急げ!!」




