第四話 介入
あの口論から、数日が経った。
凛子は距離を置くだろう――アッシュはそう踏んでいた。
圧倒的な力の差を見せつけられた人間の反応など、身をもって知っている。
かつて学院でヘリオスに無残に叩きのめされた後、アッシュ自身がそうだったように。あるいは、その光景を見ていた周囲の生徒たちがアッシュに向けた反応と同じだ。
取る行動は二つに分かれる。
一つは、徹底的に避けること。もう一つは、表面上は何事もなかったように振る舞いながら、その実、内側に怯えを飼い慣らすこと。
いずれにせよ、目の前で「異常」を見た人間が、積極的に関わろうとすることはない。
あのとき、凛子は指を握り潰す光景を見ている。
アッシュという存在を完全に理解していなくとも、警戒されるには十分だ。
腫れ物に触れるように距離を置かれるか、あるいは静かに遠ざかるか。
だからしばらくは、接触してこないはずだった。
――だが、その予想はあっさりと裏切られた。
「おはよう」
翌朝、席に着いた瞬間に斜め前から声がかかった。凛子だった。いつもと変わらない涼しい顔で、こちらを見ている。
「……ああ」
アッシュは短く返した。それだけで終わるかと思ったが、現実は甘くなかった。
授業の合間に話しかけてくる。昼休みに隣に座る。放課後には図書室まで現れる。最初の一日はまだ許容範囲だった。二日目も、辛うじて。しかし三日目には、廊下で顔を合わせるたびに、当然のように会話へ持ち込まれるようになり。四日目にはトイレから出たところで待ち構えていた。
「……お前、わざとやってるだろ」
「いいえ。たまたま、あなたがいるところに用事が重なるだけよ」
「男子トイレに、か」
「……さあ、早く授業に行きましょ。遅れたら大変だわ」
凛子はどこ吹く風だ。アッシュは頭痛を覚え始めていた。暗示魔法が効かない相手にここまで粘られると、有効な対抗策がない。物理的に排除するのは、前回の反省を踏まえれば下策中の下策だ。
結果として、アッシュの内面には「面倒くさい」という感情だけが日々蓄積されていった。
***
ある日の昼休み。
購買のパンを手に席へ戻ると、すでに凛子が隣の椅子に陣取っていた。周囲のクラスメイトが苦笑を漏らしている。
「おい」
痺れを切らし、アッシュはパンの袋を開ける手を止めて向き直った。
「何?」
「何が目的だ。なぜそこまで俺に構う」
白澄凛子という人間は、どういうわけか周囲の人間から一目置かれている。容姿か、あるいはその人当たりの良さか。理由は定かではないが、人を惹きつける類のものを持っているのは確かだった。
その気になれば、関係を築く相手も、切り捨てる相手も選べる立場にいるはずだった。
それでも彼女は、嫌悪を向けられると分かっている相手に、平然と踏み込んでくる。
その理由が、アッシュにはどうしても分からなかった。
凛子はしばらくアッシュを見ていた。そして、ふっと口元を緩めた。
「惚れたから」
「ふざけるな」
凛子が小さく笑う。
「冗談よ」
「分かった上で言ってる。ふざけるな」
「二回も」
「三回目が欲しいか?」
「いいえ」
アッシュはパンを一口齧った。
「回りくどいのは嫌いだ。さっさと狙いを言え」
「狙いなんてない」
「そんな訳ないだろ」
アッシュがそう断言するのには根拠がある。スラムでも学院でも、無償の善意など存在しなかった。人の行動には必ず理由がある。凛子にしても例外ではない。気まずさの精算か。情報を引き出したいのか。あるいは違和感の正体を自分なりに探っているのか。どれにしても、ただ好意で近づいてくる人間などというものを、アッシュは信用していなかった。
「……なんでそう思うの?」
「それが人の性だからだ」
アッシュは即答した。
「人は誰しも、損得で動く。好意や善意なんてものは、その包み紙に過ぎない」
凛子は少しの間、黙り込んだ。否定も反論もせず、ただ静かにアッシュの言葉を飲み込んでいるような沈黙。やがて、彼女は仕切り直すように口を開いた。
「でも、本当よ。私はただあなたのことが知りたいだけ。それ以上でも以下でもない」
その瞬間だけ、彼女の顔から軽薄な色が消えた。真っ直ぐな目だった。
「……まあ、すぐには信じられないでしょうけど。監視だと言われた方が、あなたにはしっくりくるのかしら?」
「当然だ。その方がよほど納得がいく」
「じゃあ、しばらくはその認識でいいわ。私はあなたの近くに居られれば何でもいいから……それとも、この際本当に付き合ってみる? アッシュくんがどうしてもと言うなら、考えてあげなくもないけど」
「ふざけるな」
「あ、三回目」
凛子はけろりとした顔で笑っていた。どこまでが本気で、どこからがはぐらかしなのか。
(面倒くさい……)
結局その日も、明確な解答は得られぬままだった
***
数日後の放課後。
帰り支度を済ませたアッシュは、凛子が珍しく先に席を立つのを目にした。
「今日は用事があるから、先に帰るわ」
「……ああ」
返した言葉に自分でも眉をひそめた。無視して図書室へ向かえば済む話だ。だが、今日は一人で本が読める。その事実が、わずかに心を軽くしていた。
最近、アッシュはこの世界の「小説」を読み始めていた。実用書の箸休めのつもりだったが、これが意外に悪くない。魔法も魔物も存在しない世界の住人が、どんな思考回路で動き、何に価値を置いているのかを把握する上で、物語という形式は思いのほか有用だった。
しかし、いざ図書室へ向かうと、そこは委員会の会議に占領されていた。利用不可。
予定が狂ったアッシュは、仕方なく帰路につくことにした。街の図書館へでも行こうかと考えながら校門を出たところで、彼は足を止めた。
駅とは逆方向の路地に消えていく見知った後ろ姿があった。白澄凛子だ。
その数歩先を、フードを目深に被った人物が歩いている。凛子は吸い寄せられるように、その男の後を追って路地の奥へと進んでいく。
(……あいつ)
アッシュは深く溜め息をついた。
昨日まで鬱陶しいほど自分に絡んできた奴が、わざわざ断りを入れてまで帰る「用事」。それが、あんな怪しげな男の後にふらふらとついて行くことであるはずがない。
どう考えても、自分の手に負えない面倒事に首を突っ込んでいる。
(勝手にしろ)
あいつが何をしようと、どこで死のうと、知ったことではない。前回だって、本来は関わるべきではなかったのだ。この世界の住人が、この世界のルールで勝手に破滅する。それを助ける義理も、メリットもアッシュには欠片ほどもない。
アッシュは踵を返した。
駅への道を、一度も振り返らずに歩き始めた。
***
白澄凛子は、幼い頃から曲がったことを見過ごせない性分だった。困っている誰かを前に、損得を考えるより先に体が動いてしまう。そのお節介が招く面倒には慣れっこだったが、今回ばかりは、自分でも取り返しのつかない馬鹿なことをしていると自覚していた。
きっかけは、校門を出てすぐのこと。フードの人物が、見知らぬ女性を強引に路地へ引きずり込んでいた。通行人は誰もが目を逸らす中、凛子は気づけば走り出していた。
「やめなさい」
振り返ったフードの人物は、日本人離れした顔立ちをしていた。何より、その瞳の色が妙に深く、温度が一切なかった。
「その人を放して」
フードの人物は凛子をしばらく見た。そして女性の腕を掴んだまま、低い声で言った。日本語ではないはずのそれが、なぜか意味だけは伝わってきた。
「お前が代わりについてくるなら、こいつは放してやる」
凛子は一瞬だけ迷った。一瞬だけ。
「……分かった」
凛子が頷くと、男は満足げに口元を歪め、掴んでいた女性の腕を放した。
約束だ、と顎で路地の奥を指し示す。
凛子は、自分の足が磁石に吸い寄せられるように一歩を踏み出すのを感じた。
やはり馬鹿なことをしていると、凛子は思った。
見ず知らずの相手の身代わりになり、自ら人気のない路地へと足を踏み入れているのだ。状況だけを見れば、軽率の極みだろう。
しかし、後悔はしていなかった。あそこで見て見ぬ振りをして、翌日も何食わぬ顔で過ごす方が、彼女にとってはよほど耐え難い。
路地の奥で、男が立ち止まり、振り返った。
男との距離は、二メートルほど。逃げようと思えば背を向けられる距離だ。しかし、凛子の体は金縛りにあったようにその場に縫い付けられていた。
男は静かに口を開いた。やはり日本語ではなかったが、なぜかその意味が頭に直接届いた。
「一つ聞く」
凛子は答えなかった。しかし、急激に体が重くなる。頭の中に薄い靄がかかったような感覚。以前、アッシュと対峙した際にも感じたものだが、今のこれはそれよりも遥かに重く、底知れない。
「ここは……何という国だ」
「日本」
「ニホン……それは王国か、それとも都市国家か」
「……どちらでもない」
答えるつもりはないのに、言葉が勝手に溢れ出した。凛子は、自分の口が自分以外の何かに支配されている事実に、じわじわと戦慄を覚えた。
「にわかには信じ難いな。血筋や力ではなく、法によって治められているとは」
「……嘘は、ついてない」
「ふむ。ならば、魔法を使う者はいるか」
「……いない。魔法なんて、存在しない」
「お前はそう思っているのか」
「……そう、思って、いた」
今この瞬間まで、と凛子は思った。男の質問は続いた。社会の仕組み、軍事力、一般市民の戦闘能力。凛子は抗う術もなく答え続け、意識の靄は少しずつ濃くなっていく。どれくらい時間が経ったのか分からなかった。
やがて、男の口元が満足げに歪んだ。
「くっ……くっ……」
低く、押し殺すような声が漏れ、それが堰を切ったように高笑いへと変わる。
「くははははははっ!」
品も節度もない、腹の底から溢れ出すような醜い笑い。男は独り言のように言葉を継いだ。
「さすがは腐っても大貴族、というわけか。やることのスケールが違う。にしても、世界ごと追放とは……随分と洒落た置き土産もあったものだ」
意味は分からない。ただ、目の前の存在がこの世界の理から外れていることだけは、本能が告げていた。凛子は必死に、恐怖に飲まれないよう意識を繋ぎ止めた。
「……情報は渡した。私にはもう、用はないでしょう」
「ああ、その通りだ。これだけ聞けば、お前から得られるものは何もない」
右手が持ち上がる。その掌に、炎の塊が生まれた。
ライターもマッチもない虚空から、揺らめく灼熱。肌を焼くような熱気が、じりじりと伝わってくる。
「……私を、殺す気?」
声が震えた。平静を装おうとしても、喉から出てきたのは自分でも情けなくなるほど頼りない響きだった。男は凛子を一瞥し、路傍の石でも見るような目で口元を歪めた。
「当たり前だろう。用済みの劣等種をわざわざ生かしておく理由がどこにある」
劣等種――。
その一言で、凛子はこの男の本質を悟った。この男の中には、他者の命を天秤にかける感覚そのものが欠落している。奪うことへの躊躇も、罪悪感も、何もない。
「なかなか贅沢な最期だろう。魔法のない世界で生まれたお前が、魔法で死ねるのだから」
迫りくる熱気に、思考が塗り潰されていく。逃げなければならないのに、足が動かない。
(……アッシュくん)
死を目前にして、凛子の脳裏に浮かんだのは、家族でも友人でもなかった。つい先日、あんなにひどい言い合いをしたばかりの、あの無愛想な少年の顔だった。
最初に見たときから、何かが違うと思っていた。
それから話しかけるたびにぶっきらぼうに返されて、それでも何故か気になって、毎日声をかけ続けた。
人は損得で動くと断言した、あの孤独な瞳。嘘をついている顔ではなかった。そういう世界を生きてきたのだと、なんとなく分かった。
もっと聞きたかった。あの人がどこから来て、何を抱えているのか。魔法使いというものが実在すると知った今なら、あの時彼が「不快感」だけで他人のために動いた理由に、もう少し近づける気がしたのに。
(もっと、話したかったな……)
凛子はぎゅっと目を瞑った。
そのとき。
「……全く、本当に。魔法使いってのは、つくづく反吐が出る奴らだな」
横合いから飛んできた、心底不愉快そうな声。
直後、爆音と共に熱風が左右に割れた。何かが起きた。だが、叩き落とされるように熱を失った空気は急激に冷え、凛子の肌を刺す。
死んでいない。
そう自覚して瞼を開けた凛子が最初に見たのは、押し寄せる闇を跳ね除けるように白銀に輝く、一人の男の後ろ姿だった。その髪の白さは、残酷な熱風すらも凍りつかせる、絶対的な静寂を纏っている。
右手を無造作に突き出し、炎を霧散させた男の袖口は、真っ黒に焦げている。
そこにいるはずのない、今頃は図書室か、帰路に就いているはずの転校生。
全力で引き返してきたのか、わずかに肩を上下させている彼は、敵を見据えたまま、一度だけ首を傾け、死神のような冷徹な声で呟いた。
「――劣等種、だったか。その言葉、俺の前で二度と口にするなよ。不愉快だ」




