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クズの魔法使い  作者: 葉月水


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第三話 相違


 編入から二週間も経てば、この世界の奇妙な日常にもそれなりに馴染んでくる。だが、この世界で生き延びるために何が必要かという問いに対し、アッシュが今更見解を改めるつもりはなかった。

 この期に及んで、魔法がすべてだなどと言うつもりはない。やはり、必要なのは「知識」だ。

 知識は糧だ。その有無こそが、異世界の濁流の中で足を踏み外さないための唯一の道標となる。

 アッシュがそう確信したのは、スラムで腹を空かせていた頃のことだった。食い物がなければ死ぬ。それと同じように、知らなければ損をする。無知は弱さであり、弱さは死に直結する。彼はそういう世界で育ってきた。

 事実、有無を言わさず学院に放り込まれたとき、アッシュが最初にやったことは魔法の練習ではなく、読み書きの習得だった。魔力がない分、頭を使うしかない。貴族の坊ちゃんどもが魔力に物を言わせて術式を叩き込んでいる間、アッシュは図書室の隅で本を読み漁った。役に立つかどうかも分からない知識を、ひたすら頭に詰め込んだ。いつかこれらが自分を助ける、最後の武器になると信じて。

 その習慣は、この世界でも変わらなかった。むしろ右も左も分からない場所に放り込まれた今、知識の重要性は以前よりも高くなったとさえ言える。

 その観点から見れば、学校という場所はやはりこれ以上ない環境だった。

 無償で知識が手に入る。それだけでも十分だが、加えて社会の仕組みを学べ、人間を観察でき、この世界の常識を体系的に吸収できる。スラム出身のアッシュにとって、これほど贅沢な環境はなかった。学院でも、貴族たちが幼少期から積み上げてきた基礎教養の差は最後まで埋まらなかった。だが、ここでは誰もがその恩恵を等しく受けられる。

 実に、都合がいい。かつて泥を啜ってでも求めたものが、ここでは息を吸うように手に入るのだから。

 その特権を無駄にするつもりは毛頭なかった。

 放課後の図書室は静まり返っていた。窓から差し込む夕方の光の中、アッシュは机の上に数冊の本を広げたまま、頬杖をついていた。日本の歴史、政治、法律。どれも退屈極まりない内容だが、退屈だからといって読まない理由にはならない。この世界のルールを知ることは、生存に直結するからだ。


(学ぶことに終わりはない。……少なくとも、生きている間は)


 そして区切りの良いところまで読み終え、本を閉じて椅子の背もたれに体を預けた、その時だった。


「――っ……」


 廊下の方から、不穏なざわめきが聞こえてきた。

 複数の嘲笑。それに混じる、低く押し殺したような呻き。アッシュは眉をひそめた。聞き覚えのある種類の空気。強い者が弱い者を嬲るときの、あの不快な匂いだ。

 アッシュは無言で立ち上がり、図書室の扉をわずかに開けた。

 廊下の突き当たり、非常口近くの薄暗い一角。三人の生徒が一人の女生徒を壁際に追い詰めていた。制服の着崩し方からして上級生だろう。小柄な女生徒は、肩を震わせて俯いている。取り囲んでいる側は、愉悦を隠そうともせずに笑っていた。


(本質は、どこも同じか)


 綺麗に整った世界に見えても、こういう場所はちゃんと残っている。その事実に落胆するよりも先に、どこか安堵に近い感覚を覚えた。

 この国に来てから今日まで、平和すぎて逆に面食らっていたくらいだ。ドブ川の底のような薄汚い人間関係。その方が、アッシュにはよほど馴染みがあった。

 前の世界では魔力と身分がその役割を果たしていたが、この世界ではそれが体格や群れの力に変わっただけだ。構造は何も変わっていない。

 ただ一点だけ、アッシュの知る光景と違う部分があった。

 その三人の前に、一人で立ちはだかっている人間がいた。

 白澄凛子だった。鞄を肩にかけたまま、女生徒を背に三人を正面から見据えている。背筋を伸ばし、その視線には微塵の揺らぎもない。


(馬鹿か、あいつは)


 一対三。体格差もある。正義感か何だか知らないが、無策で飛び込んで勝てる状況ではない。呆れがアッシュの中で静かに広がった。だが同時に、その光景を眺める彼の瞼の裏に、別の景色が浮かぶ。

 石畳の廊下。冷笑的な肖像画。金色の髪をした男の、温度のない目。そしてその前に、這いつくばるように身を縮めていた、あの頃の自分の姿。


「……ああ、クソ」


 吐き捨てるように溜め息をつき、アッシュは廊下へと踏み出した。


***


「やめなさい」


 凛子の声は低く、しかし凛として響いた。

 三人のうちの一人が、鼻で笑った。体格のいい男子生徒だ。凛子も女性の中では背が高い方だが、それでも彼は頭一つ分、彼女を見下ろしている。


「なんだよ。テメェには関係ねえだろ」

「そうでもないわ」

「へえ。こいつの知り合いか?」


 男子生徒が卑屈な笑みを浮かべ、凛子の姿を舐めるように見回した。


「違う。けれど、知り合いかどうかは関係ないわ」


 凛子は一歩も引かなかった。


「一対多数で追い詰められている人を見て、黙って通り過ぎる理由がない。それだけよ」

「……は? 何だこいつ、正義の味方ごっこか?」


 残りの二人が顔を見合わせ、苛立ちを露わにする。男子生徒が威圧するように肩をそびやかし、凛子との距離を詰めた。


「邪魔すんなよ。でないと、次はお前が面倒なことになるぞ」

「それ、脅しのつもり?」

「受け取り方は、お前次第だ」


 周囲の二人が、挟み込むようにじりじりと動き始めた。

 そこで、アッシュが口を開いた。


「――よお」


 低い声が廊下に響き、その場にいた全員が振り返った。三人の不良、白澄凛子、そして壁際の女生徒。五人の視線がアッシュに集中する。アッシュは三人の不良を順番に眺めた。まるで、肉屋が吊るされた肉の状態を品定めするかのように。


「騒ぐなら他所でやってくれねえか」

「あ゛? ……なんだてめえ」


 リーダー格の男が、女生徒からゆっくりと視線を外した。アッシュの姿を値踏みするように上下に眺め、鼻で笑う。


「苦情を言いに来た——通りすがりの、ただの読書家だ」

「あ? 読書家ぁ……?」

「苦情だか何だか知らねえが、痛い目に遭いたくなかったら黙って引っ込んでろ。……死にたくねえだろ?」


 後ろにいた別の男が、肩を鳴らしながらアッシュとの距離を詰める。その顔には、先ほどまでの女生徒に向けていたものと同じ、醜悪な愉悦が浮かんでいた。残りの二人もそれに続く。三対一。数で押し切れるという確信が、彼らの足取りを軽くさせた。

 アッシュは男の威圧を受けても、眉一つ動かさなかった。それどころか、最短距離で踏み込んできた男子生徒の拳を、正面から受け止めた。

 初級魔法による「身体強化」。術式としてはあまりに単純だが、魔力の概念さえないこの世界では、それは絶対的な力となる。掴んだ拳を、そのまま力任せに握り込んだ。

 ぐしゃり、と鈍い音が響き、男子生徒の指があらぬ方向へ折れ曲がる。


「っ……が、あ、あぁぁぁ――っ!」


 男の顔が、一瞬で土気色に染まった。膝が折れ、声にならない絶叫が漏れる。残りの二人が石のように固まった。つい数秒前までの余裕は、跡形もなく消え去っていた。

 アッシュは冷徹にその反応を確認してから、汚れたものを捨てるようにその手を離した。

 気勢が削がれた今なら、暗示も通りやすい。


(抵抗する理由はない。従うのが、自然だ)


 そんな感情の奔流を、そっと脳内に流し込んでやる。

 三人の表情が、ゆるりと弛緩した。肩から力が抜け、目の焦点がわずかにぼやける。先ほどまでの剣幕が、潮が引くように消えていく。


「……なんか、冷めたわ」

「……ああ。帰ろうぜ、腹減ったし」


 三人は示し合わせたわけでもなく、虚ろな足取りで廊下を去っていった。まるで最初からここに用などなかったかのように。

 静寂が戻った。

 壁際の女子生徒が、呆然とした顔で去りゆく背中を見送っている。凛子はまず彼女に歩み寄った。


「大丈夫?」

「……は、はい」

「保健室、一緒に行く?」

「いえ、大丈夫です。その、怪我もないので……あ、ありがとうございました!」


 女子生徒は深く頭を下げ、逃げるように小走りで去っていった。

 廊下には、アッシュと凛子の二人だけが残された。

 アッシュは特に何も言わず、踵を返した。用は済んだ。あとは自分の日常に戻るだけだ。


「ちょっと待って」


 背中に飛んできた声に、アッシュは足を止めたが、振り返りはしなかった。


「何だ」

「……今、何をしたの?」


 今度は、詰問というよりは確認に近い口調だった。アッシュはゆっくりと振り返る。凛子が数歩近づき、まっすぐに彼を捉えていた。その瞳は、やはり何かを暴こうとするように鋭い。


「お前だって見ていただろ。別に。少し話をしただけだ」

「違うわ」


 凛子の声は低く、揺るぎない。


「あの三人、急に糸が切れたみたいになった。あの子もそうよ。怖い目に遭った直後なのに、すごく落ち着いていた。あなたが何かしたんでしょう」


 アッシュは無言で彼女を見つめた。やはりこの女は勘が良い。実際、あの三人だけでなく、目撃者となる女生徒にも微弱な暗示をかけていた。余計な記憶として残らないように。だが、それすら見抜かれているのだとすれば、厄介どころの話ではない。


「気のせいだろ」

「気のせいじゃないわ」


 凛子がさらに一歩詰め寄る。


「前からずっとおかしかった。あなたは、何かをしてる。それが何なのかまでは分からないけれど――」

「それで?」

「え……」


 肯定も否定もせず、ただ冷ややかに問い返すアッシュに、凛子の言葉が詰まった。


「仮にそうだとして、何が悪い」


 窮地に現れ、悪役を成敗する。英雄譚としてはあまりにチープな話だ。だがそれは、アッシュがスラムでも学院でも、焦がれるほど待ち望んで一度も得られなかったものでもあった。彼を助けに来る者など、これまで一人もいなかったのだ。


「あいつらは相応の教訓を得て、お前たちは助かった。この結果にいったい何の問題がある」

「……結果じゃなくて、手段の話をしているの」


 凛子の目が細められた。


「確かに私は助けられたし、その点については感謝しているわ。ありがとう」


 一拍置いて、彼女は続けた。


「でも、あそこまでする必要があった? 指を折るなんて……。制圧するだけなら、他にもやり方があったはずでしょう」

「あいつが先に手を出した。それに対する、妥当な報酬だろ」

「妥当って、あれが?」

「俺がいた場所じゃ、これでも生温い方だ」


 アッシュにとっては事実だった。スラムでは些細な諍いが命のやり取りに直結した。学院では、もっと陰湿な魔法で人間が内側から壊されていくのを何度も見てきた。それに比べれば、指が二、三本折れた程度など、笑い話にもならない。


「でも、ここは違う」


 凛子の声には、静かだが確かな芯があった。


「あなたがどこから来たかは知らない。でもここでは、行き過ぎた力はただの暴力になる。それがどんな相手であっても」

「綺麗事だな」

「そうかもね。でも、その綺麗事で回っているのがここなの」


 アッシュは鼻を鳴らした。それを見た凛子が、さらに一歩踏み込む。


「あなたが悪い人じゃないのは、これまでの振る舞いを見ていればわかるわ。さっきだって、見て見ぬ振りをしようと思えばできたはずでしょう?」

「勘違いするな。俺はただ、ああいう手合いが気に食わなかっただけだ」

「……つまり、人を助けたかったわけじゃなくて、自分が不快だったから止めただけ?」

「ああ。俺は気に入らないものを排除しただけだ」


 アッシュは冷たく言い切った。

 凛子は数秒、彼を見つめたまま黙り込む。


「でも、力で人を意のままに動かして、自分の都合のいいように事を運ぶ。それって――あなたが嫌いな人たちと同じじゃないの?」

「……俺が、あいつらと同じだと?」


 アッシュの言葉に、鋭い熱が混じった。

 同じ。その一言が、腹の底で澱んでいた記憶に火をつけた。人を人とも思わぬ選民思想の塊どもと、自分が同じだと。魔力の低い者を「消費材」と呼び、スラム出身というだけで虫けら以下に扱ってきた連中と。


「知った風な口を利くな。お前に、俺の何がわかる」


 凛子がわずかに目を見開く。

 彼女には分かるはずがない。スラムで泥をすすった夜のことも、学院の廊下で床を這うような屈辱に耐え続けた日々のことも。この平穏な世界で、何不自由なく育った人間に理解できるはずがないのだ。


「……そうね。今のは撤回するわ」


 凛子は一歩引いた。しかし、その瞳から光が消えることはなかった。怒りでも嫌悪でもない、もっと静かで、そして重たい光だった。


「よく知りもしないのに、勝手なことを言ってごめんなさい。改めて、さっきは助けてくれてありがとう……また明日」


 それだけ言い残すと、彼女は踵を返した。怒鳴るでもなく、言い返すでもなく、ただ自らの非を認めて去っていく。夕暮れの光の中に、その背中が溶けて消えていった。

 アッシュは一人、廊下に残された。西日が床に長い影を落としている。遠くで部活動の活気ある声が響く。何も変わらない放課後だ。

 だが、ひどく居心地が悪かった。怒鳴りつけた相手が反論もせずに去り、自分の内側にあった怒りの行き場が失われていく。


(……知ったことか)


 アッシュは踵を返し、歩き出した。腹の底に張り付いたわずかな違和感も、数歩歩くうちに消え去るだろう。そう自分に言い聞かせて。





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