第二話 異物
転移からひと月が経った。
アッシュ・ヴェイルは今、現代日本という名の異世界に、なんとか根を張りつつあった。
最初の一週間は純粋に地獄だった。言語が通じない、金がない、食い物が異様な形状をしている。初級の暗示魔法で意思疎通を試みたものの、術式は言語の壁を完全には越えられず、相手の感情をわずかに誘導するのが精一杯だった。
路地裏で段ボールを敷いて眠り、ゴミ捨て場を漁る日々。ふと気づけば、制服姿の少年少女に囲まれ、「お兄さん大丈夫ですか」と声を掛けられていた。それが、今の奇妙な生活の始まりだった。
語学については、初級の暗示魔法を応用した。相手の言語野に干渉し、「この男に教えたい」という衝動を微弱に刺激する。向こうは無意識のうちに、親切心から言葉を説いてくれる。これを繰り返すことで、アッシュは一ヶ月足らずで日本語の日常会話をほぼ習得した。
住処についても同様だ。暗示魔法で大家の感情を「この若者は信頼できる」という方向へ少しだけ押し流し、保証人も身分証もないアパートを確保した。家賃の出処についても、彼は彼なりのやり方で工面していた。
この世界の紙幣を複製するのは現代魔法の術理では不可能だが、「財布をどこかに落とした気がする」という暗示を通行人に植え付ければ、道端で「拾いもの」をする機会が不思議と増える。倫理的にどうかという問いは、スラム育ちのアッシュの辞書には収録されていなかった。
そして、現在。
アッシュは窓際の席で頬杖をつきながら、黒板を斜めに一瞥した。
高校へ編入したのは、知識を身につける場として最適だと判断したからだ。手続きの一切は、学校関係者への暗示魔法一発で片がついた。
「君、転校生だったね。書類の不備は……まあ、後でいいか」
「はい、よろしくお願いします」
「君は……うん、なんだか、すごく『いい子』そうだしね」
担任の中年教師は、ぽかんとした顔のまま教室を去っていった。初級魔法の効果は長くは持たないが、短い会話を乗り切る程度なら十分だ。印象の刷り込みさえうまくいけば、人間は自分の都合の良いように記憶を補完してくれる。
教室の中は騒がしかった。授業開始直前の数分間、生徒たちは思い思いに喋り、光る板——スマートフォンをいじり、隣の席の人間に無防備な笑みを向けたりしている。アッシュはその光景を、窓から差し込む午後の光の中で、どこか遠いものを見るような目で眺めていた。
(よく笑う連中だ)
学院では、少なくともアッシュの周囲では、誰もこんな風には笑わなかった。笑いとは、常に誰かを貶めるための毒が含まれているものだったからだ。だが、ここの連中は、特段の理由もなく笑っている。それが滑稽なのか、あるいは眩しいのか。アッシュにはまだ判別がつかなかった。
しかし、ここ数日、入手したスマートフォンを触っているうちに、理解できたこともある。
まず、この世界には「魔法」という概念そのものが存在しない。
創作の世界には魔法使いも竜もあふれているが、それはあくまでフィクションの話だ。最初にそれを確信したとき、アッシュは少しの間、画面を眺めたまま硬直した。ないのだ。本当に。魔力も、術式も、魔石も、魔法陣も。
この世界の人間は、それらを一切持たずに、ここまでの文明を築き上げた。その代わりに発展させてきたのが、「科学」と呼ばれる理だ。魔力ではなく、人間の知恵と技術の積み重ねで、高層建築も、超高速の乗り物も、手のひらの中の世界も実現してきたのだという。
(つまり――魔法使いは、この世界に俺だけだ)
その事実が、じわじわと腹の底に染み込んでくる。
魔物もいない。国家間の大規模な戦争もない。強者が弱者を踏みにじる身分制度も、魔力の有無で人間を選別する仕組みも、ここには存在しない。前の世界に比べれば、笑えるほど平和な、お花畑のような世界。そしてその世界で、魔法を使えるのは自分ひとり。
これが都合よくなくて、何が都合いいというのか。
前の世界では、貴族に生まれるか、強大な魔力を持つか。それだけで人生のすべてが決定された。だがここでは、少なくとも表向きは「平等」という建前が成立している。前の世界では当たり前だった「略奪」や「私刑」が、ここでは「犯罪」として定義される。
それはそれで窮屈な気もしたが、ルールの網の目を掻い潜ることには、スラム育ちとして多少の自負があった。そしてそのルールの外側に、自分だけが「魔法」という隠し札を一枚余分に持っているのだ。
とんでもない災難だと思っていたが、気づけばここは、俺にとっての楽園だったわけだ。あのゴミクズ王子に感謝でもしてやろうか――いや、それだけは御免だと内心で吐き捨て、アッシュは鼻を鳴らした。
ただ、一つだけ、じわじわと頭痛の種になりつつある問題があった。
アッシュは視線を教室内へと戻す。斜め前の席。肩口で真っ直ぐに切り揃えられた黒髪の女子生徒が、こちらを鋭く一瞥し、すぐに視線を前へ戻した。
白澄凛子。
恐らく、彼女にはアッシュの暗示魔法が、ほとんど効いていない。
編入初日。担任もクラスメイトも、アッシュの微弱な暗示に中てられて「なんとなくいい奴」という虚像を受け入れた。だが、凛子だけは違った。魔法を放った直後、彼女はわずかに眉を寄せたのだ。原因も分からないまま、確かな「違和感」を覚えている顔だった。
初級魔法の限界といえばそれまでだ。魔力量が低いアッシュの暗示は、感受性の鋭い人間には弾かれやすい。理屈は分かるが、極めて面倒な状況だった。
と、そのときだった。
「ねえ、ちょっといい?」
声をかけてきたのは、その凛子だった。いつの間にかアッシュの隣に立ち、落ち着いた瞳でこちらを射抜いている。
「……何だ」
アッシュはぶっきらぼうに返した。凛子はしばらくアッシュを凝視していた。何かを確かめるような、本質を暴こうとするような、静かな目。
やがて、彼女は小さく息をつき。
「……やっぱり、いいわ。何でもない」
それだけ言って、何事もなかったように自席へ戻っていった。アッシュは一瞬、その背中を呆然と目で追った。
(……何だったんだ、あいつ)
何かを察したような引き際。踏み込もうとして、土壇場で思い直したような。あの一瞬で彼女が何を読み取ったのか、アッシュには判別できない。
理外の戦場において、情報の欠落は死線を見失うことに等しい。相手の出札を読み違えれば、それが即座に致命傷となる綱渡りの日々を彼は生きてきた。
ゆえに「分からない」という事実は、アッシュにとって最大の脅威だった。
(……殺すか)
一瞬、本気で思考が不穏な方向へ飛んだ。
やらなければやられる。先手を打つ。スラムで叩き込まれ、学院で刻み込まれた生存の鉄則。そこには心理的な抵抗など微塵もない。
(……いや、割に合わないな)
だが、すぐに思い直した。この世界には「警察」という執拗な組織がある。人が死ねば、魔法のないこの世界では総力を挙げて原因を突き止めようとするだろう。身元不明のアッシュが捜査網に引っかかれば、この快適な生活は根こそぎ崩壊する。
合理的に考えれば、今は泳がせておくのが正解だ。アッシュは視線を再び窓の外へ逃がした。凛子はもうこちらを見ていない。涼しい顔で教科書を開いている。
全く、どこの世界に行っても、面倒な奴はいるものだ。アッシュは誰に聞かせるでもなく、心の中でそう毒づいた。




