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クズの魔法使い  作者: 葉月水


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第一話 灰被り


 石畳の廊下には、朝から湿り気を帯びた陰気な空気が淀んでいた。

 高い天井を戴く学院の回廊は、歩く者を押さえつけるような威圧感に満ちている。壁一面に並ぶ歴代優秀者の肖像画は、まるで通行人の価値を品定めする審問官だ。油絵の中の彼らはいずれも傲岸な笑みを浮かべ、その胸元には誇り高き家紋のバッジを輝かせていた。

 その豪華な回廊の端を、アッシュ・ヴェイルは逃げるように歩いていた。

 十七歳になっても未だ初級魔法すら覚束ない、学院最底辺の「劣等生」。痩せこけた身体に擦り切れたローブ、泥を混ぜたような灰色の短髪。そして、死人のように青い隈を刻んだ目の奥で、血のように赤い瞳だけが鈍く光っている。本来なら、スラムの路地裏で野垂れ死ぬはずだった男だ。

 ルミナリア王国には、魔力を持つ者を血筋に関わらず国家資産として徴用する制度がある。アッシュがこの学び舎にいるのはその恩恵ゆえだが――それが救いだったのか、あるいは呪いだったのか、今となっては判然としない。

 すれ違う者たちの軽蔑を避けるように、足元だけを見つめて歩く。それがいつから習慣になったのか、もう思い出すことさえできなかった。


「おい、灰被り」


 ぞわ、と首の後ろの産毛が逆立った。鼓膜を撫でる、聞き覚えのある不遜な声。

 アッシュは重い足取りを止め、深い溜息を押し殺して振り返った。

 灰被り。スラム出身で、魔力は底辺、髪まで灰色の男にはこれ以上ない渾名だと自分でも思う。腹が立たないのが、むしろ腹立たしかった。

 廊下の中央には、数人の影が立ち塞がっていた。

 先頭に立つのはヘリオス・ノクス・ルミナリア。王立ルミナリア魔導学院の頂点にして、この国そのものの後継者だ。陽光を反射する金の髪、隙のない制服、そして選ばれし者にのみ許される最上位魔法士の階級章。柔らかな笑みを湛えてはいるが、その双眸には一滴の温度も宿っていない。

 後ろに控える取り巻きたちが、愉悦を隠そうともせずに喉を鳴らした。


「昨日の課題、提出できたか?」


 昨日の課題はポーションの調合だった。どれほど緻密な術式を組み込もうと、最終的な品質を規定するのは術者の魔力の絶対量だ。アッシュがどれほど寝る間を惜しんで工夫を凝らそうと、出来上がるものは最低限の効能すら怪しい代物にしかならない。

 それを、この男が知らないはずがなかった。最初から答えが決まっている問いを、あえて優雅に投げかける。魔法の腕と同じく、嫌味の精度も一級品だ。


「……ああ」

「『ああ』? 貴様は敬語も使えないのか」


 ヘリオスが眉をわずかに寄せ、圧力をかけるように一歩踏み込んでくる。アッシュは反射的に、惨めに一歩退いた。

 だが、そのまま俯くのは、今日という日はなぜか癪だった。アッシュは震える奥歯を噛み締め、相手の磨き上げられた革靴を睨み据えたまま口を開く。


「……学院の理念には、身分の貴賤なしと、ある。学んでいる間は、対等のはずだ」


 それは、とうの昔に死に絶えた、この学院の形骸化した建前だ。

 案の定、ヘリオスの背後に控える取り巻きたちが、信じられないものを見たというように噴き出した。滑稽で、哀れな抵抗。アッシュ自身、自分の声が情けなく震えていることに気づいていた。

 ヘリオスは、感情の読めない瞳でアッシュを数秒間見下ろしたあと。


「ふむ……。なるほど、理屈ではその通りだ」


 ふ、と小さく吐息が漏れる。それは納得ではなく、理解不能な生物を観察した時の苦笑に近い。


「だが、それは『魔法使い』の間で交わされるべき理念だ。碌に魔法を使えぬ者にまで適用されるわけではない。まあ、ドブネズミに礼節を求めるのは酷というものか」


 取り巻きたちが嘲笑の声を上げた。廊下を行き交う他の生徒たちも、足を止めこそしないものの、ちらちらと好奇と蔑みの視線を投げかけてくる。だが、誰も助けには来ない。当然だ。ここで不用意に手を差し伸べれば、次は自分が王太子の「不興」という名の標的になりかねない。この学院において、ヘリオス・ノクス・ルミナリアの機嫌を損ねてまで正義を貫く物好きなど、一人として存在しなかった。


「低劣な才能でも『国家資産』として保護する我が国の寛大な制度には、時折、眩暈を覚えるよ。おかげで貴様のような男でも、こうして学び舎の空気を汚し続けることができる。ある意味では、その図太さに感心するよ」


 ヘリオスの声には、鋭い棘すら混じっていない。ただ透明な事実を陳列しているだけのような、凪いだ口調。それがかえってアッシュの神経を逆なでした。


(――俺だって好きでこんな場所に居座ってるわけじゃない)


 アッシュは内心で吐き捨てた。

 この学院に放り込まれたのは、本人の意思ではない。魔力が少しでもあれば、強制的に徴用され、効率的な「道具」として磨き上げられる。それがこの国のルールだ。劣等生だろうが、どれだけ惨めな思いをしようが、制度が許すまでは解放されない。


(外に出りゃ野垂れ死ぬだけ。ここじゃ家畜以下の扱い。どっちにしたってクソッタレな人生だ)


 悪意があるなら、まだ戦いようもある。だが、この男の瞳には、最初からアッシュの姿など映っていないのだ。値踏みする以前の問題。路傍の石ころを認識した上で、「価値なし」と断じているに過ぎない。そしてその残酷な評価は、この場においては概ね正解だった。


(……わかってる。全て俺の実力が足らないせいだ)


 自分に言い聞かせるのも、もはや何度目か分からない。

 かつては握りしめていた拳も、今ではただ力が抜けてぶら下がっているだけだ。燃え上がるような激しい怒りはもう湧いてこない。ただ腹の底に、どろりと黒い沈殿物が積み重なっていく、吐き気のするような感覚だけが残る。


「今夜、少し時間を割け」


 ヘリオスは、拒絶など微塵も想定していない、当然の権利を執行するような口調で告げた。


「私の研究室に来い。特別に、実験の『手伝い』をさせてやる」

「……実験だと?」

「そうだ」


 その瞬間、ヘリオスの双眸が初めてアッシュを真っ正面から捉えた。底の知れない、笑いながら凍りついているような眼。


「お前のような男にしか務まらない、特別な役割だ。光栄に思うといい」


 光栄――その言葉が、石畳の回廊にひどく空虚に、そして不吉に響いた。


***


 学院の地下深く、禁則区域のさらに奥に、ヘリオスの私設研究室はあった。

 分厚い石壁に囲まれたその空間は、外界の喧騒を完全に遮断している。室内を照らすのは、唸りを上げる魔力炉の青白い燐光のみ。石床の中央には、見たこともないほど複雑な魔法陣が刻み込まれていた。

 幾重にも重なる同心円、その隙間を埋め尽くすように、狂気じみた密度の術式文字が蠢いている。


「何だ、これは……」


 アッシュは気圧され、思わず呟いた。


「……見たこともない術式だ。こんなの、学院にあるどの書物にも載ってないぞ」

「当然だろう。私が設計したのだから」


 ヘリオスは術式の外縁に配置された魔石の配列を調整しながら、感情の欠片もない声で答えた。


「既存の魔法体系を逸脱した、高次元転移術式だ。理論が正しければ、空間の裂け目を通じてあらゆる異世界へと到達できる」

「異世界……?」

「文字通り——この世界とは理の異なる、未知の領域だ」


 アッシュは息を呑み、足元に広がる巨大な幾何学模様を見下ろした。

 術式の構造はあまりに高度で、本来なら最底辺のアッシュには理解の範疇を超えている。だが、緻密に編み上げられたその魔力の奔流からは、生物の本能を逆なでするような「異常」が滲み出していた。


「……これ、本当にまともに作動するのか? 空間を裂くなんて、もし失敗したら……」

「さあな」


 ヘリオスの短い答えには、驚くほど重みがなかった。


「成功すれば世紀の発見だ。失敗すれば、お前という存在がこの宇宙から消滅するだけのこと。どちらに転んでも、私にとっては有益なデータになる」

「……俺は、そのデータを取るための使い捨てか」

「そうだ」


 ヘリオスは再び魔石の調整に戻り、さも当然の事実を述べるように淡々と続けた。


「お前がどうなろうと、学院にとっても国にとっても損失にはならない。無価値な命を燃料にして真理を覗けるのなら、これほど合理的なことはないだろう?」


 静寂が、重く沈殿した。

 アッシュの腹の底で、何かが音を立てて冷え切っていった。


(……ああ、そういうことか)


 自分の命が、この男にとってはインクの一滴ほどの価値もない。その事実が、驚くほどすとんと腑に落ちた。

 怒りは湧かなかった。ただ腹の底の澱が、また一段と深く沈んだ気がした。

 自分の存在は、この国において最初からただの「消費財」だったのだ。

 それを目の前の男は悪びれもせず、合理性という言葉で包んで差し出してくる。腹が立つよりも先に、その徹底した一貫性に対し、乾いた感心すら覚えた。


「中央に立て」


 ヘリオスは作業を止めぬまま、機械的に命じた。


「貴様のチンケな魔力など、潤滑剤にすらならない。ただそこにいろ。術式が起動すれば、あとは勝手に世界が削れる」


 アッシュは緩慢な足取りで、魔法陣の中央へと歩みを進めた。

 抵抗という選択肢は、最初から存在しない。ヘリオス・ノクス・ルミナリアは次期国王だ。その後ろ盾は王家そのものであり、この学院も、国家機構のすべてを奴が握っている。

 逃げたところで行き先などどこにもない。スラムに戻れば制度違反として即座に捕縛され、国外へ逃げようとすれば王国の名のもとに指名手配される。どちらに転んでも、今より無残な末路が待っているだけだ。

 ならば、未知の次元に放り出される方がまだマシだ――そう判断するのに、一秒もかからなかった。

 足元で術式文字が青白く脈動し始める。足の裏から、骨を震わせるような振動が伝わってきた。これが、世界の理を書き換える最先端の術式。どこか遠い場所で、現実の膜が軋むような不快な音が響く。


(……別の世界、か)


 アッシュは静かに、熱を失った息を吐いた。

 恐ろしいという感情は、不思議なほど薄かった。長年削られ、磨り減り続けた自己肯定の残骸は、もう恐怖を形作れるほど残ってはいない。

 だが――。


(それでも)


 ぎり、と奥歯が軋むほどの力で噛み締めた。


(このクズより先に死んでたまるか。地獄の果てに飛ばされようが、どんな化け物の住む世界だろうが……俺は、絶対に生き延びてやる)


 ヘリオスが起動式の詠唱を開始した。耳慣れない、おぞましくも厳かな古代語の韻律が、石室の空気を暴力的に震わせる。配置された魔石が一斉に輝きを放ち、魔法陣全体が視界を焼き尽くさんばかりに膨れ上がった。

 光が、爆発する。

 網膜が白く焼け、鼓膜の奥で万雷の轟音が鳴り響いた。

 肉体が素粒子レベルまで引き裂かれるような感覚――そう思った直後、あらゆる感覚が、嘘のように消失した。


***


 最初に気づいたのは、音だった。

 絶え間のない、重厚な地響き。不規則に混じり合う、金属的な駆動音。耳を刺すような鋭い高音。

 そして、視界を埋め尽くす――灰色と人工的な光の洪水。

 アッシュは、黒く滑らかに舗装された地面の上に倒れ込んでいた。

 両手をついて顔を上げると、そこには想像を絶する光景が広がっていた。

 天を衝くような巨塔。ガラスと未知の金属で組み上げられた、学院の何倍もある高層建築が幾つも並び、空を切り取っている。頭上には複雑に絡み合った黒い導線の束が走り、その下を鋼鉄の塊が、生物の限界を超えた速度で走り去っていく。

 至る所に極彩色の光る板が掲げられ、見たこともない文字が躍っていた。

 人々が歩いていた。驚くほど大勢の人間が、大河の流れのように往来している。その装いは――あまりに異様だった。

 魔導士のローブでもなければ、平民の粗末な麻布でもない。薄くて機能的な、そして見たこともない素材の服を纏い、誰もが手のひらの中の「小さな光る板」を凝視して俯いている。魔法具か。それとも……もしこれが魔法なのだとしたら、アッシュの知る術理とは根本から異なる文明だ。

 大通りを行き交う群衆の中から、数人が足を止め、薄暗い路地裏に身を潜めるアッシュを見た。

 きらびやかな雑踏から向けられるのは、奇妙なものを見る目。怯えの混じった目。しかし、そこから外れた陰へと手を差し伸べようとする者は一人もいない。


(ここは、どこだ。……いや、そもそもここは、俺のいた「世界」なのか?)


 立ち上がろうとした膝が、情けなく笑った。転移の衝撃で身体の組成が追いついていない。体内の魔力回路も、激流に掻き回されたように乱れている。

 それでもアッシュは、震える手で地面を押し、ゆっくりと立ち上がった。

 石畳も、魔法灯も、魔石を嵌め込んだ重厚な街壁も、ここには何一つない。

 歴代優秀者の肖像画が並んだ回廊も、冷たい地下の研究室も、ヘリオスのあの凪いだ瞳も。

 すべてが、消えた。


(消えていい存在が、消えた先が――ここか)


 アッシュは目を細め、夜を昼に変えるほど眩いガラスの摩天楼を見上げた。

 奇妙な感覚だった。恐怖も安堵もない。ただ、極限まで乾いた「生存本能」だけが研ぎ澄まされていく。この世界で何が通用し、何が致命的なのか。その一点だけを、すでに思考の核に据えていた。

 右手を持ち上げ、指先に意識を集中させる。

 初級魔法。火種を生み出す、最も初歩的な術。

 学院では「子供の遊び」と嘲笑われ、無能の証明として忌み嫌われた、取るに足らない極小の技。

 指先に、ちりちりとした微かな熱が灯った。掌の上で、小さな火の玉がゆらりと揺れる。

 使える。

 その確信だけで、肺の奥に溜まっていた重苦しい澱が、少しだけ軽くなった気がした。だがそれも束の間、通りがかった男が、その火の玉を見て絶句した。

 目を見開き、口を大きく開けたまま、硬直している。まるで――この世で最もあり得ない奇跡を突きつけられたかのように。

 アッシュは静かに、火の玉を握り消した。

 そして、ゆっくりと口元を歪めた。

 それは、笑いだった。他人に向けた愛想でも、自虐でもない。腹の底でずっと腐らせ、押し殺し続けてきた何かが、初めて「出口」を見つけた時の貌だった。


(そうか。そういうことか)


 頭の中で、世界を構築するパズルが静かに組み変わっていく。


(ここでは、俺の魔法は――)


 周囲の視線が、好奇心から明確な「恐怖」へと変質し始めていた。

 アッシュはそれに対し、一言も発しなかった。

 ただ腹の底で、ずっと重く沈んでいた感情が、どろりと熱い野心に形を変えていくのを感じていた。

 見知らぬ異世界の中心で、一人。

 かつて「灰被り」と呼ばれた男が、初めて自らの意思で、この世界の空気を吸い込んだ。







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