❄❄ 16 ❄❄ 夜明けのセクレジエール
長い夜が明けて。
薄明るい早朝の宿の玄関で、老主人は寂しそうに笑った。
「はっは。でも、もういいんだよ。合わす顔など無いのだから」
「でも――いえ。わかりました。ごめんなさい、無理を言って」
「いやいや。こちらこそ、気遣ってくれてありがとう」
「もし。もし、万が一! 気が変わることがあったら、一目だけでいいので、見に来てください。湖畔に私達はいますから」
「…………そうかい。じゃあ、気が向いたら……行こうかね」
「はいっ。――では、いってきます。カメラ、お借りしますね」
「ありがとう。いってらっしゃい」
辺り一面真っ白な雪肌に大小の足跡をつけながら、ボクらは『とりみ荘』を出発した。人気のない静かな街並みを抜けて、湖畔へとゆっくり歩みを進める。
『魔女の秘密道具』を巻き付けてぐっすり寝たおかげか、エルシーの怪我はもうほとんど治ったらしい。あくまで彼女の自己申告なのが、心配ではあるけど。
だから一応念のため、枯草色の布は左足に巻いたまま。そしてボクも、今日ばかりはフードの中ではなく彼女の隣で、雪に足を取られながらのお供をしている。
「おじさん、やっぱり来ないのかな?」
「どう、だろうね」
「……来てほしいなぁ、ふたりの為にも」
「……そうだね」
昨晩エルシーは老主人と面会し、一つだけお願いをしていた。
『今のアオサンを見に来て欲しい』
そう伝えられた彼は、いつもの柔和な表情を崩さないまま。しかし返事は、芳しくなかった。
変に隠し立てするよりもすべて伝えた方が良いからと、エルシーはアオサンの現状を見てわかる範囲で全て話したが、それが良くなかったのかもしれない。
「……そうですか。やはりまだ、彼は飛べていないのだね」
壁の写真を見ながら言葉を溢す老主人を見れば、さしものエルシーもそれ以上無理に押すことはできなかった。
それでも諦めきれなかった彼女は、「ダメ元」と言ってもう一度だけ頼んでみたけど――それがさっきの玄関での反応だ。
全くその気が無いではなさそうだが、だいぶ望み薄だろう。
「でも、大丈夫っ。私がアオサンをしゃっきり立ち直らせて、ばっちり写真に収めればいいんだからね!」
「とか言って。調子乗って、また怪我しないようにね?」
「うっ。わかってるってば。……あれ?」
「それにさぁ。カメラを使えるなんて得意気に言ってたけど、イサクのじっちゃんの時だけでしょ? あんな『写ればなんでもいい』写真と一緒にしちゃだめだよ」
「……ねぇ、アウロラ」
「そもそも! あのじっちゃんは『カラス避けにする』とか言ってボクの写真撮ってたけど、そりゃあ酷いもんだったんだから。よくもまぁ、こんなにキュートなボクをあんなにも不細工に撮れるも――」
「アウロラっ、ごめんっ!」
ボクがちょっとした説教に夢中になっていた、その時。
何かに気が付いたらしいエルシーが、急にボクを抱き上げて走り出した。
「ちょ、ちょっと! エルシー走ったら危……っ」
「いいからっ、掴まってて!」
ボクの心配する口を手で制して、エルシーは焦った様子でボクをフードに放り込む。そしてそのまま階段を飛び降り、湖畔沿いの大通りへと駆け抜けていく。
焦っているせいか荒い身のこなしに、ボクはたまらずぎゅっとしがみ付いて振り落とされないよう必死になった。
相変わらず車通りの無い道路を跳ねるように渡り、いつもの場所に辿り付いて勢い余って欄干に激突して、ようやく足を止めたが……。
「はぁ……はぁ……」
「エルシー、急にどうしたの?」
「……ない」
「え?」
「アオサンがっ……いないっ……のっ!」
息を上げながら振り絞るエルシーの声で、慌ててボクも周囲を見渡す。
穏やかに揺れる湖面。
辺りは一面の銀世界。
相変わらず深々と降りしきる雪――。
いつもここに居たはずの、あの賑やかなオシドリの姿は、どこにもなかった。
吉報も凶報も、早ければ早いほどいい。
相手に届かなければ、何ともならないけれど。
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