❄❄ 15 ❄❄ 起立と転倒のアンドンプタブル
浜辺から少しだけ離れた、湖を臨むベンチ。薄雲掛かる空は、徐々に暗くなりつつある。
雪を払って腰を下ろしたエルシーに、今にも泣き出しそうな弱々しい声で、アオサンは声を掛けた。
「本当にすまない、エルシー」
「ううん、気にしないで。アオサンのせいじゃないんだから」
「いやしかし――」
「もう大丈夫だって! このくらい、全然なんとも……ッ!」
エルシーは笑いながら手を振って軽くジャンプして……しかしすぐ、顔を顰めて再び座り込んでしまう。
「あーもー、何やってんだか。無理しちゃダメだってば」
「うー。こんな時に限って鞄置いてきちゃうなんて……」
溜息をついて左足を抑えるエルシーは、心底悔しそうだ。
それを見たアオサンは、尚更落ち込んだように俯いてしまう。
残りのボクは……どうしたものやらと、相変わらず雪が降る空を見上げるしかできなかった。
――あれは、三十分ほど前だったろうか。
アオサンの羽ばたき練習は、思ったより難航していた。
風を受けるように翼を調整する動きは、特に問題ない。しかし、こと『飛立ち』を連想させるような力強い動きをすると、やはり心理的にブレーキが掛かってしまうようだ。しばらくするとすぐにぎこちなくなり、やがて羽ばたきを止めてしまう。
自分でも思い通りにいかないからか。その度に翼を見つめるアオサンの顔は、どうにも苦しそうだった。
エルシーも、彼女なりに色々なやり方を試してみたものの、どれも長く羽ばたくには至れず終い。その内に、遠心力を使ってわざとバランス崩すことで、反射的に上手く羽ばたけるのではないかと思い至ったらしい。
アオサンを伸ばした手で支えながら、猛ダッシュしてから急旋回するという無茶な試しを始めた。
そして何回目かのトライで。
「んみぎゃっ⁈」
素っ頓狂な声を上げながら見事に滑って、自らがバランスを崩して派手に転んだ。その際に、軸にしていた左足を捻ってしまったというわけなのだ。
幸いにもアオサンは雪の中に埋まるだけで済み、エルシーの怪我の程度も軽かったらしい。ただし、ゆっくりと歩行する分にはなんとかなりそうではあったが、直前までのように力強く踏み込んで走るのは厳しくなってしまった。
ボクは、彼女には治すアテがあると知っているし、「大丈夫、本当に軽いから」と言う彼女の口ぶりも、嘘で程度を誤魔化してる風でもないとわかる。
しかし、アオサンは自分を責めてガックリ落ち込んでしまった。怪我がきっかけで飛べなくなった彼が大きなショックを受けるのは、当然だろう。
こうして足を庇うエルシーとボクらはゆっくりと湖岸を離れ、見つけたベンチに座って休んで……現在に至るのだった。
「ごめんね、アオサン。今日はちょっと、無理みたい」
「……なぜ、キミが謝る」
「だって、アオサンがショックを受ける気持ち、すごく分かるもん。私だって同じ立場になったら……すごく落ち込むと思う」
なのに、と漏らすエルシーは、アオサンの心にこれ以上の負荷を掛けまいと笑顔だ。普段の彼女からすれば、随分と力なく弱々しいけれど。
「――なのに、分かるのに。そんな気持ちにさせてしまって、本当に申し訳なくって」
「……」
「でも、でもねっ! 本当に大丈夫なのっ! 一晩休んだら、明日には完全復活できるから!」
「えっと……エルシーの言うことは本当だよ。ボクが保証する」
足元の雪を見つめたままのアオサンに、ボクらは努めて明るく声を掛ける。しかし彼は、黙りこくって返事をしない。
雪交じりの風が吹きつける音と、湖面のさざめきだけが辺りに響く。
そうして、しばらく。
「……わかった。キミ達の気遣いに、心から感謝する。ありがとう」
アオサンが、重たい口を開いた。
「であればキミ達も、早く塒に戻って休んだ方が良いだろう」
頭を上げたアオサンは、こちらを見ずに湖の方を向いている。
「大丈夫だ。ワタシも、キミ達の気持ちが分かる。嘘を言っているとも思わない。だから、これで折れたりなどしない。……しかし、少しだけ。ほんの少しだけ、ワタシにも時間が必要なようだ」
赤から青にグラデーションする冠羽が、風に揺れる。
「だからお互いのためにも、今は解散としよう」
大丈夫だ、と重ねる彼を背にして、ボクらは顔を見合わせて宿へと帰るしかなかった。
その足取りが重かったのは、決して怪我のせいだけじゃないだろう。
――そして、やっとこ帰り着いた『とりみ荘』の扉をくぐった彼女の顔を見た老主人も、すぐに何かを察したようだ。
「……お風呂はいつでも空いているからね」
「はい。あの……いえ。ありがとうございます」
彼の柔和な笑みと穏やかな声に甘えて、エルシーは言葉少なに宿泊部屋へと続く階段をゆっくりと上った。
色々と声を掛けたかっただろうに、あえて何も訊かない彼の優しさには、感謝しかない。
ちなみに、今夜ばかりはボクも抵抗せずに風呂場についていった。入浴中も会話という会話はなく――。
「やっちゃった」
「うん」
「ドジだなぁ、私」
「うん」
「アオサン大丈夫かな」
「……うん」
せいぜいそんな程度の、気の無いつぶやきと相槌ぐらい。
十分すぎるほど湯に浸かって、のぼせる寸前になったエルシーが湯気を纏わせながら再び部屋に戻ると、すでに入口の襖の前には夕飯が置かれていた。昨夜と違って老主人が廊下へ顔を出すことはなく、だから食事にも誘われなかったし、声も掛けられなかった。
そしてその代わりに、ラップをされた盆の上には、白鳥の文鎮で押さえられた小さなメモ書きが一つ。
『くれぐれも、無理は為されませんように』
「…………はい、おじさん」
エルシーは小声で呟き、そのメモ書きをぎゅっと胸に抱きしめて目を閉じる。
その端で滲む小さな雫に、ボクは気が付かないフリをして敷居を跨いだ。
少ししてから遅れて部屋に入ってきた彼女の顔には――
もう、弱気など一欠片も無かった。
決意。覚悟。奮起。
そんなものが、満ち満ちていた。
あぁ、いつものエルシーが戻ってきたんだ! と、ボクは心の中で出来ないガッツポーズをした。
「――当たり前でしょ? アオサン本鳥が『折れない』って言ったのに、私が落ち込んでる場合じゃないもん!」
……しまった。思わず口に出してしまっていたらしい。
照れ隠しに窓へ視線を向けると、ガラスの外は細雪。
ボクは顔を背けたまま、エルシーの方をちらりと見遣って問いかける。
「……それで、どうするの?」
「うん。とりあえず私は、まずコレを治さないとね」
エルシーはそう答えるなり『魔法の鞄』を漁り始めた。ほどなくして取り出したのは、波打つような不思議な紋様が全面に刺繍された、枯草色の布。
それを痛めた左足首に巻いて、何かを呟きながらきゅっときつく結ぶ。
「――私はっ、強い……。これでよしっ」
確かあれは、自然治癒力を高める呪いが掛けられている道具だったはず。
あくまで、気休め程度の痛み止めと負傷が多少治りやすくなる程度の代物なはずだが、まぁ無いよりは遥かにマシだろう。
「んッ! さてと……」
部屋に響く、パチンと乾いた音。
自分の頬を叩いて気合を入れたエルシーが、鶯色の風呂敷包みと古びたカメラを手に取り、立ち上がる。
「次は?」
「次はね――」
エルシーの決意に輝く瞳は、それこそ宝石のようにいつも眩しい。
――だからボクは。
今日も直視を避けて、彼女の足元でそっと寄り添うのだ。
「ちょっと、おじさんと話してくるね!」
諦めない。そんな、少女の輝きに。
彼は、彼は、彼は。静かに決意を燃やす。
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