心地よい休息
「はぁ…終わらない…」
うんざりした呟きは、目の前の書類を消してはくれなかった。
執務を片付けている私の前には、こんもりと積み重なった書類の山がある。
その山が片手で数え切れないほどにあるのだから、溜息も仕方ない。
「私も手伝いますから、頑張ってください、お嬢様」
「頑張るわ」
元気を出した。
ピシっと背筋を伸ばし、私は書類を切り崩しにかかる。
ピエール公爵が来訪した事によって、明らかに嘆願書が増えている。
どこぞが壊れているだの、井戸の水が出ないだの、小さなことから大きなことまで。
まぁ、言いたいことがあるなら私に言えと言った、私の自業自得なのだけど…。
「公爵が訪れた事によって、全ての領民が領主様に期待し始めたのでしょう。ただでさえ、騎士団が街をしっかりと見回るようになって以降、日に日に治安が良くなっていますから」
「それはいいことなのだけどね」
リチャーズの苦笑いに答えながら私は書類を通していく。
ふと、渡された書類の中見慣れたものがあって手を止めた。
「ここ、発毛剤の材料の使いすぎじゃない?」
「あ、それは、その、効果が実証されてから欲しいという人が続出していまして…」
「それはいい事だけれど、大量生産できるわけじゃないから、少し調整なさい。予算を減らすわよって伝えて」
「分かりました」
「それから、米や麦なのだけど、他領からの輸入に頼っている今のままは良くないわ。出来る限りアスセーナで生産出来ないか考えて。具体的な予算、必要の人手の計算を…そうね、十日後までに」
「十日後!?」
「出来ない?」
「や、やりますっ!やらせて頂きます!」
「お願いね。シュバルツも使っていいから」
はっきり言って発毛剤の売上は爆発的に伸びている。
だけど、調子に乗って生産したら素材が取れにくくなるし、供給が多すぎるの問題だ。
リチャーズには無茶を言っている気がするが、彼はなんだかんだとやる男。頼りにしている。
これが終わったら休暇をあげようと心に決めつつ、私は次の書類に手を伸ばす。
財務関係を終わらせ、決裁の書類を終わらせていると、こちらをじっと見る視線に気づいた。
「何かしら?」
「いえ…とんでもないスピードでやっていくのですね」
「これくらいやらないと間に合わないのよ」
役人の一人の言葉に私は息を吐いた。
暇つぶしに王城の中にある書架の全てを読み尽くした経験が役に立っているのだろう。
どれもこれも、書式が整っているから要点を読み解けば事足りるのだ。
と、そんな私に遠慮がちに、役人から一つの書類が差し出された。
「これは?」
「教会からの陳情書です。寄付金を増やせと」
領地から教会へと寄付するのは一月に一度だと決まっている。
私が領主になってから、寄付金が来るまで気づかなかったという事は、司祭の器が知れるわね。
寄付金を無くしたわけじゃないのに、増やせとは図々しい。
「却下よ。前にも言ったけど、領地の寄付金は私が決めるし、異論があるなら他のところで布教活動をすればいいでしょう」
私は手早く書類に却下と書き、判を押して役人に突き返す。
「私が言った言葉を書いておいて。慈善活動をしない教会なんて必要ない」
「分かりました」
それから日々はあっという間に過ぎていく。
ピエール公爵の来訪によって何かが起きる事を警戒したけど、目立った事はない。
私は週に何度かパレアの職場に足を運び、絵がますます増えている事に満足した。
騎士団にも顔を出したけれど、リディルによって鍛えられた騎士団はめきめきと力を伸ばしており、一ヶ月も経つ頃には明らかに身体つきが変わっていた。
「良い筋肉だが、尻に柔らかさが足りねぇ」
リディルがそんな事を言っていたのは蛇足かしら。
なぜか騎士団の彼らは団長のそんな言葉にぞっとしつつも、奮起していたようだ。
ともあれ、武力に関しては問題が無くなって来ている。
「だいぶ、活気付いて来たわ」
「そうですね。…お嬢様が、たくさん頑張られましたから」
屋敷の窓から領地を見下ろした私のつぶやきに、マリアがくすりと微笑む。
アスセーナの街をもらってから半年が過ぎた。
他の領地からの流入や行商人の行き交いも大きくなり、流通が回るようになって来た。
領民に貨幣が流通し、領地に収める税金も以前とは比べものにならないほど。
最初の襲撃がなんだったのかと言わんばかりの順調さだ。
商人ギルドや職人ギルドの提案で、発毛剤の他にも、私が改良した清涼剤や整髪剤、塗り薬や脱毛剤まで、主に薬関係を幅広く開発し、売上は順調だ。
王都はまだだが、他の領地の街にもいくつか出店して、『アスセーナ商会』といえばそこそこ名前が知られた商会だろう。
ぼちぼち貴族にも広まっているようで、本番はこれからだけど。
「ねぇ、マリア。貴女は休暇が欲しいとは思わないの?」
「私はお嬢様のメイドであれる事が幸せなので、休暇をもらっても困ります」
振り返ると、マリアは眉尻を下げてそう言った。
そう言ってくれるのは嬉しいのだけど、やっぱり『メイド』なのよね…。
どうしたものかと、私は小首を巡らせる。
幸いにして、今すぐにしなければならない書類仕事も終わり、ひと段落ついている。
明日になるまでゆっくりと休むのもいいかもしれない。
そう思って、私は「なら」とマリアに微笑んだ。
「ちょっと、一緒に出掛けない?」
「え?」
◇
「で、こうなったわけだ」
「仕方がないでしょ。護衛は必要だってマリアが言うんだもの」
商人の娘に変装した私の横で、偉丈夫の男が鼻を鳴らす。
私はそれに小声で返しながらも溜息を吐いた。
本当は二人でデートしたかったんだけど、それは贅沢なのだろう。
「あのぉ、わたしも来て良かったんですか?」
「…いいのよ。私たちは同志だし、この馬鹿の相手をしてくれる人が必要だもの」
遠慮がちに私の顔を覗き込んで来たパレアに私は微笑みを返す。
彼女が書いてくれた百合絵もだいぶ溜まって来た。
今では、それを見るのが毎夜の楽しみとなっている。
「パレア、こんな時だからと言って、所作を怠ってはいけませんよ」
「はひ」
にっこりと微笑みを浮べるマリアにパレアは背筋を伸ばす。
側からみれば、仲の良い三姉妹とお父様といったところだろうか。ん…?姉妹?
突然に悪巧みが頭に閃いて、にやりと、私の口角は上がった。
とんとん、とマリアの肩を叩く。
「マリア、わたし達は今、商人の娘という設定なんだから、堅苦しい事を言っちゃダメよ」
「う、ですが、お嬢様…」
「私はイリアよ?お嬢様って誰のことかしら?」
「うぅ…」
喧騒の中を歩きながら、私はマリアに悪戯に微笑む。
「マリア、私の事はお姉様って呼びなさい。いつも言っているでしょう?」
「そ、そんな…」
「ほら、お姉様の命令よ?」
「で、でも…」
「お姉様の言う事が聞けないの?」
マリアはうっと喉を詰まらせて、搔き消えるような声で口を開く。
「……………………ぇ…さま」
「マリア、聞こえないわ」
人通りが多くなった通りでは小声はすぐに掻き消される。
耳を近づけた私に、マリアは頬を真っ赤に茹で上がらせて口を動かす。
「お姉様」
「はう」
感じたことのない電撃が私の頭を走った。
心臓の鼓動が跳ね上がり、頭がくらっとするようだった。
妹は一度言ったことで吹っ切れたのか、赤らめた顔を近づけて来る。
「お姉様、あまり離れないでくださいね」
もう限界だった。そんなに潤んだ瞳で言われたら、誰が我慢出来るものか。
私は素早くマリアの手を掴んで、目当ての出店に走り出す。
「ぁ、お姉様!?」
「ふふっ、マリア、こっちよ!美味しそうな匂いがいっぱいするわ!」
「もう、いきなり走らないでください、お姉様!」
出店の前に並び、二人でお菓子を頬張る。
「美味しい!これ、久しぶりに食べたわ!」
「ずっと忙しくしていましたもんね」
王城でも時々出されていた甘味だ。口の中に頬張ると溶けて消えるような感触に私の頬は緩む。
その間も、マリアと私の手はずっと繋がれたままだ。
暖かくて、柔らかくて、すべすべする。離したくない。
「マリア、次はあっちよ!」
「あ、お姉様、私、まだ…」
「次々行くわよ!」
慌てるマリアを横目に私は走り出す。
と、その後ろでパレアとリディルが言葉を交わしていた。
「なぁ、俺たち邪魔じゃねぇか?」
「リディルさんは護衛なので離れたらダメですよ。それに、見てて捗るじゃないですか!」
「お前、そっちもいけるクチだったのか?」
「そうじゃないですけどぉ…お二人、すっごく絵になりますよ」
ふふん。そうよ。マリアは凄いんだから!
パレアの反応に私は内心で満足しながら、色々な香りのする街中を歩いた。
こんな風に街を歩くなんて、領地に来て最初の視察以来だろう。
あの時とは違い、人々は苦労を分かち合いつつも笑顔を見せている。
出店に通りが活気付き、商人達が商談を交わし、家族が育まれていく。
炭焼きの匂いや甘い匂い、色々な匂いが入り混じる通りは、飛び跳ねるほどに自由だ。
「ほら、この服なんてマリアにぴったりよ!」
「私、こんなに可愛らしいのは…」
「絶対似合うから、着てみなさい!」
服飾店に入って服を見繕った時にはかなり躊躇していたが、最後にはマリアも喜んでくれた。
私も買おうと思ったけど、流石に変装を解いてしまったらバレるので諦めた。残念。
そうしていくつかの店を回って、お腹がいっぱいになって来た。
お腹が重くなり、足取りが鈍重になっていく。
「うぷ…ちょっと苦しくなって来たわ」
「お姉様、食べ過ぎですよ、もう」
通りを歩きながらお腹を抑える私にマリアは呆れ顔。
かくいうマリアも、私と同じかそれ以上の量を食べているはずなのだけど…解せぬ。
微苦笑を返しつつ、手の温もりを感じて私はマリアの顔を覗き込む。
「ね、マリア、背負ってくれない?」
「え、でも…二人も見てますし」
「いいじゃない。私は貴女のお姉様なのよ?」
恥ずかしげに頬を赤らめて、後ろのリディルとパレアを流し見るマリア。
かくいう二人といえば、私とマリアの後ろで会話が盛り上がっているようだった。
「しょ、しょうがないですね…今だけですよ?」
「ふふ。分かってるわ」
私の前に進み出て、しゃがみこむマリアに私は頬を緩める。
胸の形を崩しながら私が背中にひっつくと、マリアは動き出した。
「あぁ、やっぱりマリアの背中が一番いいわね」
「ありがとうございます」
前にリディルに背負って貰った時の乗り心地は最悪だったけど、今は最高の気分だ。
背中から見えるマリアの首筋は妖しく艶めき、漂ってくる甘い匂いが頭を麻痺させる。
マリアの温度をもっと感じたくて、私はぎゅぅっと抱きついた。
「マリア、暖かい…」
「あ、あんまりくっつくと歩きづらいですよ。お姉様」
「ゆっくりでいいの。亀のように遅く歩きましょう」
既に陽は暮れ始めている。そろそろ屋敷へと戻らないといけない所だけど、もっと堪能していたい。そうしていると、近くの店の硝子窓に目についたものがあった。
「マリア、あっちに行ってみましょう」
「はい」
指差した方向にマリアが進む。細工店、なのだろうか。
最近出店したばかりであろう煉瓦造りの店は綺麗に整えられ、硝子窓は曇りない。
そこに並べられていたのは、硝子を加工してさまざまな色が内包されたアクセサリーだ。
指輪や、ペンダント、イヤリング、硝子玉、そういったものが並べられている。
「綺麗、ですね…」
ほぅ、とマリアは息を吐いた。
その瞳はある一点に釘付けになっており、私も視線を辿る。
それは蒼と青が混ざり合った瑠璃色の宝石がついたブローチだ。
艶めくそれに引き寄せられるようにマリアは硝子窓に手を伸ばしている。
「あれが欲しいの?」
「ぇ、いえ、その、そういうわけじゃないのですけど…」
背中からかけた声にマリアの身体が跳ねる。視線を逸らして、やっぱりそこに視線が戻る。
その愛らしい仕草に頬を緩めつつ、私は名残惜しさを感じながらも降ろして貰った。
「ね、買ってあげる」
「え、でも、ダメです。そんなの」
「いいじゃない。私が買って、勝手に貴女にあげるだけだもの」
細工店の扉を開いて中に入る。店主は男性で、私が入ると目を見開いていた。
「こんにちは。これが欲しいのだけれど」
「は、はい。かしこまりました。えっと、代金は…」
「もちろん持っているわ。パレア」
「はい、お姉様」
後ろからついてきていたパレアを促し、金貨三枚を支払う。
その姿を見て彼は私をどこかの商会の令嬢かと納得したのか、頷いていた。
「ほら、つけてあげる」
「ぁ…」
黒みがかった髪のマリアに、瑠璃色のブローチはよく似合う。
普段使いも仕事使いも出来そうで、私的にかなり満足。
頬を赤らめているマリアは、それでも嬉しそうにブローチを触った。
「あ、ありがとうございます」
「可愛いわよ、マリア」
本当によく似合ってるし、今すぐに抱きしめたいくらい愛らしい。
湧き上がって来た情動をかろうじて呑み込んだ私は、視界に目に付いたものを手に取る。
「じゃぁ、私はこっちを貰おうかしら」
呟いて、私はガラスケースの中に入っていたブローチを手に取る。
エメラルドよりも少し淡くて、色艶のある燐葉石がついたブローチ。
「試しにつけてもいいかしら?」
「えぇ、もちろんでございます」
店主に断りを入れて、パレアにつけてもらう。
首下につけられたそれはずっしりとした存在感があって、私は頬を緩めた。
「ほら、マリアの瞳と同じ色よ」
「え、ぁ…」
「これで、どんな時でも一緒に居る気分になれるわ」
…少しやりすぎかしら。けど、目に付いてしまったものはしょうがないわよね。
もう離さないとばかりにブローチを握る私は少し不安に思った。
だけど、そんな私を否定するかのように、マリアは頬を緩める。
「そうですね。お綺麗ですよ。お姉様」
「うん…ありがとう」
褒められただけで頬が熱くなる。それを誤魔化すために、私は視線を逸らした。
ひらひらと一回転し、パレアとリディルの前でカーテシー。
「似合ってますよ!お姉様!」
「あぁ、いいんじゃねぇか?」
賞賛と賛同の声を受けて、調子に乗った私はマリアの腕を取る。
胸が肘に当たってすごくドキドキするけど、鼓動が伝わってないか不安。
けど、それ以上に満ち足りたものが胸にあって、私はマリアを離さなかった。
「お、お姉様…」
「いいじゃない。少しくらい」
恥ずかしがるマリアをなだめて、私は半年分のご褒美を堪能する。
側から見ていた店主は、私達姉妹を見て感嘆の息を吐いた。
「本当に妹様がお好きなんですね。お姉様は」
言われて、私の頬は緩み、感情のままに笑っていた。
「えぇ、私、マリアが大好きなの!」
——あぁ、こんな時間が、永遠に続けば良いのに。




