第一章 第二話 ロマニアの世界
【前回までのあらすじ】
前世はプ女子レスラーで、今世はロマニアの伝統正統派貴族の娘。
私の名はフラウィア・マリア。
私がプロデュースした「ルクタ・フェミナ」は帝都の民衆を熱狂させていた。
しかし、幸福の絶頂にいる私には、帝国の運命を揺るがす大暴動の足音が近づいていた……
「マリア様、目立ちますから、そんなにきょろきょろしないで下さい!」
隣から私の肩を優しく、けれどもしっかりとした力強さで守ってくれているのが、我がサーカス「祝祭」の筆頭女性闘士、デーメーテールだ。
二十四歳の彼女は、かつては私の実家のメイドであり、現在はサーカスの絶対的エースとして私を支えてくれる、お姉ちゃんのような存在である。
百六十八センチメートルの長身にしなやかな筋肉をまとい、黄金のセミロングから覗く瞳はどこまでも凛々しい。
プロレス的なステータスで言えば、打撃の威力を極めた「ストロング・アスリート」であり、その不屈の精神はまさに岩盤のごとし。
どんな技を受けても決して折れない「受けの美学」を体現する、我が団体の誇るべき筆頭グラディアトリクスなのだ。
現在、私たちは激動の渦中にある帝都の緊迫感から逃れるように、お忍びで街へと繰り出していた。
ここはロマニアの心臓部、首都コンスタンティノープルのメインストリートである「メーゼ(中央通り)」。
一歩足を踏み入れれば、そこはまさに人間の欲望と活気が複雑に交錯する「黄金の四角いジャングル」のようであった。
道の両側には美しい石造りの列柱がどこまでも建ち並び、その一等地の特設リング(ブース)には、きらびやかな宝飾品から衣服、異国の怪しい香料にいたるまで、あらゆる商店が軒を連ねている。
さらにその列柱の隙間を縫うようにして、無数の移動式屋台がひしめき合い、大勢の市民たちでごった返していた。
「マリア様。
あそこが市民の台所、『アルトポレイア(パン屋通り)』に、『アルトティリアナ(パンとチーズの角)』ですよ!」
デーメーテールが指差す先からは、香ばしい小麦の香りと濃厚な乳製品の匂いが容赦なく鼻腔をくすぐってくる。
前世のインディー団体の会場周辺に立ち並ぶフードトラックを想起させるその熱気に、私のプ女子としてのアンテナがビンビンに反応した。
「すごい熱気……!
ねえ、デーメーテール、ちょっと食べ歩きしない?」
「もう、お忍びなんですからね」
と言いつつも、彼女の口元も緩んでいる。
私たちはまず、香ばしい匂いを漂わせる移動販売員の元へと駆け寄った。
彼らは一品専門のプロフェッショナルであり、職人技のような手際で料理を仕上げていく。
最初に購入したのは「チーズ・プレセンタ」。
薄いフィロ生地を何層にも重ね、羊のバターと濃厚なミジトラチーズをこれでもかと挟み込んで焼き上げたビザンツ独自のチーズパイだ。
サクッ!
一口かじれば、何重もの層が織りなす芸術的な歯ごたえとともに、濃厚なチーズの塩気が口いっぱいに広がる。
これはまさに、緻密に組み立てられたハイスピードの空中戦のごとき華やかさ!
続いて、直火の炭火からモクモクと煙を上げる「スヴラキ」の屋台へ。
串に刺さった羊肉がジューシーに焼き上げられ、仕上げに塩と黒胡椒が豪快に振られている。
ガブッ!
ジュワッ!
お肉の圧倒的な弾力とスパイスの刺激がダイレクトに脳を叩く。
美味しい!
これぞ素材のパワーで真っ向からねじ伏せてくる、超大型レスラーのラリアット級の破壊力だ!
このロマニアの食文化は、とにかく奥が深い。
エジプトという巨大な穀倉地帯から届く極上の小麦、シリアの薫り高いワイン、そしてボスポラス海峡という大自然の恩恵を受けた豊かな漁場。
これらが一点に交差するコンスタンティノープルは、名実ともに世界最大の食糧集積地なのである。
人々の食事は、正午の「アリストン」と日没の「デイプノン」の二回が基本。
しかし、その内容は階級によって完全に二極化されていた。
大衆が粗末な大麦のパンや豆の粥をすすり、発酵魚ソース「ガルム」を絞った後の残りカスで塩分を補給しているのに対し、貴族たちは精製された白いパン「アフラトン」を食べ、孔雀や白鳥の肉に最高級のガルムをかけて優雅に加香ワインを嗜んでいる。
この「格」の差は、まさにトップレスラーと練習生の待遇の違いを見せつけられているようで、少し胸が痛む。
それでも、この国には戦う者たちを支える究極の「スタミナ料理」が存在した。
軍隊の行軍食としても重宝される「パステリ」は、蜂蜜と胡麻を黒胡椒やシナモンとともに固めたエネルギーバーだ。
これは現代で言うところのプロテインバーであり、蜂蜜の速効性と胡麻の持続力が合わさった完璧なサプリメント。
女性闘士たちが過酷なトレーニングを乗り越え、リング上で何十分もの死闘を展開できるのは、まさにこのパステリや、羊乳で作られた硬質チーズ「ケファロティリ」による高タンパクな栄養源があるからこそなのだ。
現代のファンたちがプロレスラーの強靭な肉体に魅了されるように、この異世界の大衆もまた、過酷な環境を生き抜くための食糧を貪り、強さへの憧れを募らせているのである。
それにしても、このロマニアという国の構造は実に興味深い。
かつて旧ローマの組織力と古代ギリシアの洗練された文化が高度に融合し、この広大な世界帝国が築き上げられた。
街を見渡せば、壮大なドームを持つハギア・ソフィアのような巨大建築物が天を突き刺し、大理石と金箔のモザイクが施された貴族の邸宅が並んでいる。
その衣食住すべてに、神の「聖性」と帝国の「威厳」がこれでもかと詰め込まれており、まるで国家そのものが巨大なエンターテインメントの舞台として機能しているかのようだ。
何より、文化の洗練を象徴するのが「シルク(絹)」の存在だった。
かつては東洋の遥か彼方からしか手に入らなかった神秘の織物だが、現皇帝の命を受けた僧侶たちが、なんと竹杖の中に蚕の卵を隠して命がけで中国から密輸したのだという。
現在では帝国の独占生産が始まっており、最高級のシルクに金糸を織り込んだ「パラガウダ」などの衣装は、特権階級のステータスシンボルとして社交界を鮮やかに彩っている。
かつて古代ローマで民衆を熱狂させた剣闘士の血生臭い試合は、「命をとらない神」への信仰が普及したことで公式には禁止され、衰退の途をたどった。
古典的な演劇も廃れ、代わりに人々が求めたのは、よりアクロバティックで視覚的な驚きを伴う娯楽だった。
だからこそ、前世の知識を持った私が「命を奪い合うのではなく、肉体と魂の輝きを魅せるエンターテインメント」として女子プロレス型興行「ルクタ・フェミナ」を立ち上げたとき、それは驚くほどのスピードでこの国に受け入れられていったのだ。
強さ、美しさ、そして人間関係のドラマをすべて内包したリングは、新しい時代の完璧な「サーカス」として民衆の心を掴んだのである。
しかし、そんな一見華やかで幸せに満ちあふれた世界最大の帝国にも、修復不可能なほどの深い亀裂が走っていた。
メーゼを行き交う大衆の笑顔の裏には、隠しきれない疲弊と不満が澱のように溜まっている。
相次ぐ遠征や巨大建築のための容赦ない重税。
そして、罪を犯しても罰金だけで許される貴族と、鼻の切断や鞭打ちといった凄惨な身体刑に処される一般庶民との間に横たわる、法的な絶望の溝。
私はメーゼの喧騒の中、急に不安になり、自身の胸元を強く握りしめた。
隣に立つデーメーテールが、無言で私の手をそっと握り返してくれた……
【次回予告】
ロマニア帝国が掲げるの国家大戦略「レノヴァティオ・インペリイ」。
それは、失われた西方の領土を回復するという、徹底的な中央集権のファイトスタイルだった。
この超過激なメジャー団体を率いる「眠らぬ最高経営責任者」ユスティニアヌス1世と、最強のタッグパートナーである皇后テオドラの過去が明かされる。
次回、第一章 第三話「レノヴァティオ・インペリイ(帝国再興)」
燃ゆる夕陽と、凍てつく月光。
孤独を背負い、夜明けを待たずして立ち上がる姿は、一輪の孤高な華。
夜明けのゴングまで、あと……




