第五章 第五話 フィニッシュホールド
【前回までのあらすじ】
極限のピンチから立ち上がったマリアの背後に、伝統あるブルーブラッドの象徴「フェニックス・ブルー」がその姿を現した!
圧倒的なプラーナのオーラをまとったマリアは、アバンダンティアの絶対支配を力ずくで跳ね除け、奇跡の逆転劇へと舵を切る!
「ルクタ・フェミナ」
――それは命を奪い合うかつての凄惨な剣闘士試合に代わり、私が前世の「プ女子」としての知識を総動員してこのロマニアに根付かせた、美しくも熱い新時代の肉体芸術。
けれどいま、目の前にいるアバンダンティアは、完全に正気を失っていた。
我々の所属するサーカス「祝祭」の筆頭グラディアトリクスを決めるこのトーナメント。
私に追い詰められた恐怖からか、彼女は巨体を震わせ、ただの凶暴な獣と化して私へ突っ込んできた。
「おおっとォ。
アバンダンティア、完全に我を忘れての暴走重戦車だァ!」
場内に響き渡る実況アナウンサー、マルコの怒涛のマイクパフォーマンス。
過剰なまでのボキャブラリーが、五万人収容のコスモロジーコロッセオを震わせる。
「受けて立つか、マリア。
いや、これはあまりにも危険な肉弾突撃」
解説のキケロも興奮を隠せない様子で叫ぶ。
アバンダンティアがその長い腕を伸ばし、私の肉体を圧殺せんと掴みかかってくる。
ドゴォッ!
と重苦しい風切り音が鼓膜を突いた。
しかし――気づいたときには、彼女の視界から私の姿は消えていた。
「な、にいっ……??」
驚愕に目を見開くアバンダンティア。
彼女の猛進を紙一重でかわした私は、すでにその巨大な背後を完璧に捉えていた。
そう、これこそがハイスピードの真髄。
空間を支配する幾何学的なステップだ。
ふっと、私の目の奥が怪しく光を放つ。
「ごめんなさい。
みんなに教えてなかった技があるわ……」
私は小さく呟いた。
プロレスとは魂の対話であり、互いの技を受け止め合う信頼のドラマ。
けれど、闘いである以上、そこには文字通りの「句読点」が必要なのだ。
私はアバンダンティアの背後から両腕を交差させ、その脇下から自らの腕を深く差し込んだ。
タイガースープレックス!!
――前世の高潔なる猛虎が遺した、首骨への絶大なる衝撃と放物線の美を誇る至高の芸術的投技。
「これはッ。
背後をガッチリとホールド。
まさか、あの体勢から投げるというのかァッ?」
マルコの実況が絶叫に変わる。
「いけないマリア、それは首に致命的な――」
キケロが身を乗り出す。
案ずるな、名解説者よ。
これはただの破壊ではない、極限の技術によってのみ許される「魅せる」奇跡なのだ。
私のソーラ・シュリンガルが、体内に渦巻くプラーナの奔流に反応して爆発的な輝きを放つ。
十六の装飾が美しく明滅し、私の身体能力を、限界を超えて引き上げた。
ソーラ(十六)を超えて、ヴィンシャティ(二十)…トリンシャット(三十)…チャトヴァーリンシャット(四十)…
フンッ!
気合の一喝とともに、私は一七五センチメートルのアバンダンティアの巨体を、強靭な背筋の力だけで真上へと引き抜いた。
時間が凍りつく。
コロッセオの五万人の視線が、宙に舞う二人の肉体に釘付けになった。
重力を拒絶するような一瞬の「タメ」。
そこから、私は自らの身体を急角度で後方へと反らせた。
ドゴォォォンッ!!
キャンバスが悲鳴を上げるような重低音が鳴り響く。
アバンダンティアの脳天から背部にかけてが、マットへ突き刺さる。
しかし、技はここでは終わらない。
私の両足はしっかりとマットを踏みしめ、腰は天に向かって高く、どこまでも高く突き上げられていた。
指先からつま先までが一筋の美しい放物線を描く、完璧なブリッジ!
ピンと張った弧の美しさは、まるでロマニアの宮廷を飾る大理石の彫刻のよう……
アバンダンティアの巨体を完全にクラッチしたまま、私は微動だにせずホールドし続けた。
彼女の目から急速に光が失われていく。
完全に意識を絶たれた、完璧な失神劇……
「なんという美しさ。
なんという威風堂々たるブリッジの曲線美かァッ。
ロマニアの夜空に大輪の虎が舞ったァッ!!」
マルコの声がこだまする中、レフェリーのバルが素早くマットへ滑り込んできた。
彼はこの激闘の重みを誰よりも理解している。
職人肌の厳格な手つきで、マットを叩く。
「ワン」
「ツー」
バルはわざと大きな間を取った。
観客の鼓動が跳ね上がるのを見計らうかのような、心憎いまでのロング・カウント。
「……スリーッ!!!」
カン!
カン!
カン!
カン!!!
狂ったように鳴らされるゴングの音。
しかし、直後の会場を包んだのは、歓声ではなく「静寂」だった。
あまりの衝撃と、信じられないほどの様式美に、五万人の大衆も、セコンドにいた「祝祭」の仲間たちも、ただ息を呑んで立ち尽くするしかなかったのだ。
私はゆっくりとブリッジを解き、激しく上下する胸を押さえながら立ち上がった。
「試合を決める技……
それがフィニッシュホールド」
静まり返るコロッセオに向けて、私は心の中でそう語りかけた。
プロレスにおいて、フィニッシュとは物語の完結を意味する句読点。
これがあるからこそ、それまでの攻防のすべてに説得力が生まれるのだ。
横たわるアバンダンティアを見つめながら、私はそっと汗を拭う。
「まあ、これは前世の偉大な先人たちの遺産……
まだ自分だけのオリジナルホールドは持っていないけれどね……」
心地よい疲労感のなかで、プ女子としてのこだわりが小さく胸を張った。
興奮冷めやらぬコスモロジーコロッセオの熱気が、じわじわと地鳴りのような歓声へと変わっていく。
その圧倒的な光景を前に、ひな壇に陣取る他のサーカスのグラディアトリクスたちは、一様に驚愕の表情を浮かべていた。
「今の技は何……あんな投げ方、見たこともないわ」
「美しすぎる……だけど、なんて恐ろしい破壊力なの」
怯え、困惑し、しかし同時に、彼女たちの瞳の奥には一人のグラディアトリクスとしての熱い闘志がパチパチと着火していくのが分かった。
プロレスの「格」とは、こうしてリング上の闘いによってのみ証明され、高められていくものなのだ。
「お嬢様。大丈夫ですか?」
花道を走ってきたのは、サーカス「祝祭」の、私の頼れる保護者でもあるデーメーテールだった。
黄金の髪を揺らし、真剣な眼差しで私の身体を気遣ってくれる。
「大丈夫よ、デーメーテール。
少し息が上がっただけ」
私は微笑みながら、その力強い手を借りて立ち上がる。
その時、ふと強烈な視線を感じて上層階を見上げた。
巨大なコロッセオの最上部に位置する、絢爛豪華な皇帝席。
そこには、この「花の戦争」の発案者であり、私の最大の敵である皇后テオドラが座っていた。
彼女は冷徹な美貌に微かな驚きを浮かべ、じっと私の姿を観察している。
その隣には、絶対的な権力を誇示する皇帝ユスティニアヌスの姿もある。
見ていなさい、テオドラ。
あなたの作ったこの歪な『パンとサーカス』のリングで、私は必ず生き残ってみせる。
そして、私の大切なヒパティウス様を救い出す。
私は小さく拳を握りしめた。
「祝祭」の仲間たち――バステトやバンバ、ポモナたちが私を取り囲む。
彼女たちの目は、さっきまでの「お嬢様を見る目」ではなかった。
明確に、一人の強力なライバルとして私を意識している。
「みんなに認められて、このサーカスを引っ張っていくためには、まず私がこのトーナメントを勝ち抜いて筆頭グラディアトリクスになるしかないのよね」
私の言葉に、猫のマスクを被ったバステトが不敵に目を光らせる。
「ふん、次はアタシがそのスピードで狂わせてあげるよ」
巨漢のバンバも、鈍い凶暴な光を瞳に宿してニヤリと笑った。
「甘いよ、マリア。
もし次の戦いを勝ち残ってきたら、反則だろうが何だろうが、その綺麗な顔をマットに沈めてやるからね」
熱い、あまりにも熱い視線の交錯。
これこそがプロレスにおける人間関係のドラマであり、軍団内の切磋琢磨だ。
アバンダンティアとの死闘を制したものの、これはまだ、私に課された果てしない試練の第一歩に過ぎない。
婚約者ヒパティウスの処刑執行猶予を勝ち取ったとはいえ、彼を完全に救い出し、ブルーブラッドの名誉を再興するため、そして私の愛する「ルクタ・フェミナ」を皇后の手から取り戻すため、この「花の戦争」で年間王者にならなければならないのだ。
そのためには、この「祝祭」の中の頂点に立ち、さらにはテオドラ率いる最強のサーカスたちを全てなぎ倒す必要がある。
「レノヴァティオ・インペリイ ベルト……
必ず私がこの手で掴み取ってみせる」
私はまだ青白く発光しているソーラ・シュリンガルに手を当て、心の中で強く誓った。
私が、このロマニアの地で、プロレスの「受けの美学」と「不屈の精神」をもって世界を変えていく。
闘いは始まったばかりだ。
バステトが、バンバが、そして立ちはだかる数多の女性闘士たちが、私の魂を揺さぶるために待っている。
プ女子のプライドと、愛する人を救うための執念を胸に、私は次のゴングへと向かって歩み出す。
私の本当の戦いは、ここから無限の輝きを放つのだ。
次回、エピローグ「レノヴァティオ・インペリイ(帝国再興)ベルトへの道」
全ての始まりか、全ての終わりか。
キャンバスに刻まれるのは少女の涙か、それとも勝者の名前か。
……運命のゴングは、いま鳴った!




