第五章 第四話 フェニックス・ブルー
【前回までのあらすじ】
アバンダンティアの冷酷無比な一点集中攻撃と、逃げ場のないストレッチマフラーホールドによって、マリアは完全に動きを止められ、五万人の観衆が絶望の淵に落とされる。
レフェリーであるバルの手が今、非情に上下しようとしていた。
コスモロジーコロッセオの熱気は、すでに人間の体温を遙かに超えていた。
視界の端で激しく明滅する魔導メーターが、大衆の興奮をそのままポイントに変えて吸い上げていく。
これぞプロレス、これぞ魂のスタジアム。
私は、今、最大の窮地に立たされていた。
いや、窮地なんて言葉じゃ生ぬるい。
婚約者の命と全てを背負った、文字通りの背水の陣だ。
この「サーカス王者トーナメント」で頂点に立ち、サーカス「祝祭」の筆頭グラディアトリクスにならなければ、その先にある「花の戦争」に進むことすらできない。
私の前に立ちはだかるのは、「ヒュドラ」こと、アバンダンティア。
赤髪を短く刈り込んだ彼女の瞳には、執念と、貴族階級に対する激しい憎悪が、どす黒い炎となって燃え盛っていた。
「おいおいおい、どうしたマリアお嬢ちゃん。
名門貴族の血筋も、リングの上じゃただの生肉だぜ」
アバンダンティアのハスキーな声が、キャンバスを蹴る音とともに鼓膜を刺す。
その巨体からは想像もつかない俊敏さで、彼女はロープへと飛んだ。
ビィィィン。
と魔導で強化されたロープが文字通り「鳴る」。
リバウンドの推進力を完全に殺さず、自らのパワーへと変換するそのロープワーク。
前世の女子プロレスで言えば、まさに超一流のストロングスタイルだ。
ただの力任せじゃない。
どれだけの血とにじみ出るような努力を重ねれば、異世界のリングでこれほどの「ワーク」ができるようになるのか。
感動で胸が震えるのと同時に、私の肉体は悲鳴を上げていた。
「捕まえたぞ、お嬢様」
ドガァァァン。
強烈無比なタックルが私の腹部をえぐる。
肺からすべての酸素が強制終了されるような衝撃。
視界がチカチカと明滅する。
「ああっと。
ヒュドラが狂暴な牙を剥いた。
マリア、完全に足が止まっている」
場内に響き渡る実況アナウンサー・キケロの声。
彼は前世の伝説的実況者のごとく、理知的でありながらも圧倒的な熱量で言葉を紡いでいく。
間髪入れずに、解説のマルコが過激なまでの詩的表現で追従する。
「まさにコンスタンティノープルを揺るがす地殻変動。
アバンダンティアの肉体から放たれるのは、地を這う怨念のマグマか。
マリアの美しい顔が苦悶に歪む。
これぞ肉体の対話、魂のスクラップブックだ」
この最高の実況陣の前で、試合を裁くのはレフェリーのバル。
鋭い眼光で反則を見逃さず、それでいてレスラーの意地を最大限に引き出すその引き締まった佇まいは、前世のあの「不器用なほどに厳格な名レフェリー」の魂を感じさせる。
彼が至近距離で私の目を確認する。
「マリア。まだやれるか?」
「あたり……まえ……よ。」
私はかろうじて声を絞り出し、ロープ際へと這った。
しかし、アバンダンティアはそれを許さない。
私の右足を冷酷に掴むと、そのまま自身の首の後ろへと巻き付け、腰を深く落とした。
「しまっ……た……」
ギチ、ギチギチギチ。
脊髄を電流が駆け抜けるような激痛。
首と腰、そして膝の関節を同時に固定し、神経を限界まで圧迫する、逃げ場のない地獄のストレッチマフラーホールド。
アバンダンティアは、私がかつて教えた格闘技術を、さらに残酷なまでに研ぎ澄ませていた。
「どうした、マリア嬢ちゃん。
その程度で、テオドラの鼻を明かそうなんて笑わせるな」
「くっ、あああああ」
痛い。
肉体が引き裂かれそうだ。
だが、この痛みこそがプロレスだ。
相手の技をすべて受け止めた上で、それを上回る輝きを見せる。
それこそが、私が前世から愛してやまない「受けの美学」の極致なのだから……
リングの中央。
完全に逃げ道を塞がれた私の姿は、大衆の目にどう映っていただろうか。
アバンダンティアの背後に、まるで見えざる九頭の大蛇がうごめき、私という獲物をじわじわと締め付け、丸呑みにしようとしているかのような錯覚を誰もが抱いたはずだ。
「おい、マリア嬢ちゃん、ギブアップしな。
お前じゃ、わたしにゃ勝てないし、何も変えられないんだよ!」
彼女の言葉が、重税に苦しむ一般庶民の絶望と重なる。
場内の観客からも
「もう終わりか」
「やっぱり貴族のお嬢様じゃ無理だ」
という諦めの声が漏れ始めていた。
レフェリーのバルが私の顔覗き込み、手を高く上げる。
三回、その手が上下すれば、私の夢も、ヒパティウスの命も、すべてが暗海の底へと沈む。
終わってたまるか……
私は、プロレスを愛して、プロレスに救われたんだ。
その瞬間、私の肉体を包む「ソーラ・シュリンガル」が、見たこともない反応を示した。
万物に流れる生命エネルギー「プラーナ」。
それが、私の不屈の精神と、前世から培ってきた「プロレスへの信仰心」に呼応するように、爆発的な輝きを放ち始めたのだ。
シュゥゥゥゥン……
それは、最初は小さな火花だった。
しかし、次の瞬間、頭の先から足の先まで配置されたエネルギーの要所を護る「十六の装飾」が一斉に共鳴し、リング全体を染め上げるほどの青白いオーラとなって噴出した。
「な、なんだ、これは……
プラーナが……逆流している?」
アバンダンティアが驚愕の声を上げる。
彼女のホールドが、私の肉体から放たれる圧倒的な圧力によって、じりじりと押し戻されていく。
テコの原理すら通用しない、絶対的なエネルギーの奔流。
「ハァァァァァッ」
私は残されたすべての力を指先に込め、キャンバスを叩き、強引にその拘束を跳ね除けた。
バシィィィン!
という衝撃波とともに、アバンダンティアの巨体が後方へと吹き飛ぶ。
フラフラになりながらも、私は両足でしっかりとリングに立った。
前髪の間から覗く私の青い瞳は、今や魔導の光を帯びて妖しく輝いている。
そして、私の背後。
立ち上る青白いプラーナのオーラが、ゆっくりと翼の形を成していった。
更に大きな翼を広げ、天に向かって咆哮する、一羽の巨大な光の鳥。
「フェ、フェニックスだ……
それも、青い……」
観客席の最前列にいた老貴族が、震える声でそう呟いた。
「青い血脈の象徴……
ロマニア帝国の正統なる守護獣が、今、あの娘の背後に現れたというのか?」
このロマニアの歴史において、不死鳥は単なる伝説の生き物ではない。
幾度もの塗炭の苦しみから立ち上がり、不滅の繁栄を誇ってきた帝国の精神そのもの。
とりわけ名門貴族の間では、秩序と正統性を守護する「神聖なる炎」として、何世紀にもわたり崇められてきた絶対的なアイコンだった。
マリアが研究開発を重ねてきた「ソーラ・シュリンガル」。
それは単に肉体を保護するだけの防具ではなかったのだ。
女性闘士が限界を超えた不屈の精神を示したとき、その隠された未知なるステータスレベルを覚醒させ、神話の力を現世へと引き出す「魂の触媒」だった。
「見たか、奇跡だ!
これぞコスモロジーコロッセオに舞い降りた青き奇跡!!」
キケロの絶叫が、静まり返った場内に炸裂する。
「マリアの背後に燃え盛るは、絶望の闇を切り裂く、まさにフェニックス・ブルー!
アバンダンティアの蛇の毒を、その聖なる炎で焼き尽くした!」
「いやはや、驚天動地とはこのことですね!」
マルコの声も、興奮のあまり裏返っていた。
「これはもう、単なるルクタ・フェミナの試合ではない。
帝国の歴史そのものが、この四角いジャングルの中で再構築されている。
マリア、美しき不死鳥となって、今、完全なる覚醒を遂げました!」
プラーナの青き炎を背負う私の姿を、アバンダンティアは数歩後退りしながら見上げていた。
その顔には、先ほどまでの冷酷な余裕は一切ない。
あるのは、未知の領域へと足を踏みいないた者に対する、本能的な戦慄。
圧倒的な力への、剥き出しの「恐怖」だった。
「嘘だろ……
何の苦労も知らないようなお嬢ちゃんのお前が……
なんで、こんな……」
彼女の額から、大粒の汗が床へと滴り落ちる。
私の戦闘ステータスは、今、彼女の理解を遥かに超えるスピードで上昇を続けていた。
「アバンダンティア!」
私は静かに、しかしリング全体に響き渡る声で彼女の名を呼んだ。
「ルクタ・フェミナは、絶望を希望に変える闘いよ。
あなたの強さも憎悪も、私のこの炎で、すべて受け止めてみせる」
青いフェニックスが、私の動きと完全に同調するように、その巨大な翼を力強く羽ばたかせた。
ゴォォォォッ!
と巻き起こる突風が、アバンダンティアの短い赤髪を激しく揺らす。
恐怖に顔を歪めながらも、彼女は逃げ出さず、獣のような構えをとった。
その眼差しに、ただの恐怖ではない、グラディアトリクスとしての「意地」が再び宿るのを私は見逃さなかった。
これだ。
この魂の応酬こそが、私たちがリングに立つ理由。
さあ、ここからが本当の、魂の対話の始まりよ!
【次回予告】
覚醒したマリアと、執念を燃やすヒュドラの、1秒先すら予測不能な大空中戦!
観客の人気投票メーターが限界突破する中、マリアが前世から背負ってきた物語のすべて、その技術の集大成であるフィニッシュホールドがついに炸裂する!
カウント三の刹那のサスペンスの先で、勝利のゴングを鳴らすのはどちらだ!?
次回、第五章 第五話「フィニッシュホールド」
偽りの微笑みと、真実の怒り。
仮面を脱ぎ捨てた少女が、その素顔で世界を射抜く時、新たな歴史が幕を開ける。
胎動のゴングまで、あと……




