第五章 第三話 マリア対ヒュドラ
【前回までのあらすじ】
大波乱のトーナメント一回戦、最後のカードはマリア対アバンダンティア。
マリアは格上の本格派関節師を相手に、出陣のファンファーレとともに黄金の四角いジャングルへと足を踏み入れる。
この黄金の四角いジャングル、コスモロジーコロッセオを支配するのは、単なる暴力ではない。
観客の視線、悲鳴、そして魂のすべてを吸い上げる「観る者を魅了する」ための肉体闘技、それが「ルクタ・フェミナ」だ。
この熱狂の渦の中心で、私は呼吸を整える。
対峙するはアバンダンティア。
赤髪を短く刈り込み、他者への関心を一切排除したような冷徹な赤い瞳が、私を射すくめる。
「おいおい、お嬢ちゃん。
貴族の道楽はここまでだ!」
彼女の全身から、重厚なプラーナが立ち上るのが見える。
女子プロステータスは「ストロング・アスリートスタイル」。
肘関節の可動域をテコの原理で限界まで引き絞る関節技の最高峰。
まさに難攻不落の城塞だ。
だが、私の胸の奥にあるプ女子の血が、恐怖を上回る興奮で沸騰していた。
最高じゃない!
これよ、この圧倒的な絶望感こそが、プロレスの華なのよ!
試合を裁くのは、主審のバル。
筋骨隆々とした体躯に、いかなる不正も許さない鋭い眼光を持つ、帝国の誇る厳格な名レフェリーだ。
彼が中央に立ち、両者を鋭く見つめる。
そして、実況席には二人の天才が陣取っていた。
一人はキケロ。
早口でまくしたて、戦況を一秒の狂いもなく言葉に変える、現代の弾丸実況そのものの男。
もう一人はマルコ。
言葉の魔術師であり、闘いを宇宙規模のドラマへと昇華させる、過激な語り部。
「さあ、世紀の決戦が幕を開けた。
伝統の名門を背負う、フラウィア・マリア。
対するは、下層階級からその腕一本で這い上がってきた冷徹なる暗殺者、アバンダンティア。
今、二人の歩んできた人生という名のドラマが、このコスモロジーコロッセオのリング上で交錯する」
マルコの声が、魔道具を通じて五万人の観衆の耳に、いや、魂に直接突き刺さる。
「攻防が激しくなってきた~」
キケロが叫ぶ。
ダカダカン、とキャンバスを蹴る小気味よい音が響く。
私はロープに向かって猛突進し、しなやかな身体を反転させてロープの反動を利用した。
ハイスピードなロープワーク。
目にも止まらぬ速さでアバンダンティアの背後へと回り込む。
「速い。
まるでボスポラス海峡を駆ける一陣の風。
マリア、跳んだ。」
私は彼女の肩を掴み、その勢いのまま前方へ投げ飛ばす、ジャパニーズ・アームドラッグを敢行した。
綺麗な弧を描いてアバンダンティアの巨体が宙を舞う。
しかし、彼女はただでは転ばない。
着地と同時に、まるで意思を持つ大蛇のように、私の足元へ滑り込んできた。
気づけば、私の右足が彼女の強靭な腕の中に囚われている。
これこそが、彼女が「ヒュドラ」と呼ばれる所以だ。
ギリシア神話の九頭の大蛇……
切っても切っても、次から次へと新たな首が襲いかかるように、彼女の関節技は終わらない。
一度その牙に触れれば、二度と逃れることはできないのだ。
彼女はかつて、他のサーカスで「ロープの大蛇」と恐れられていた。
ロープワークと寝技を病的なまでに組み合わせ、リングのあらゆる意匠を凶器に変える技巧派。
私が仕掛けた立ち技を、一瞬で泥沼のグラウンド攻防へと引きずり込む。
「捕らえたぞ、お嬢ちゃん」
アバンダンティアが冷酷に微笑む。
すぐさま、足首の靭帯を過度に変形させ激痛を強いるアキレス・ロックの体勢へ。
足首がきりきりと軋む。
「くっ! なんて力なの?」
私は痛みに顔を歪めながらも、すぐさま身を翻し、空いている左足で彼女の顔面を蹴り上げた。
パァン!
と乾いた音が響く。
拘束が緩んだ一瞬を逃さず、私は手首を急角度で曲げる関節技、手首固めで切り返す。
そこから目まぐるしいグラウンドのポジション争いだ。
上になり、下になり、お互いの四肢が複雑に絡み合う。
チェスのように、一手先、二手先を読み合う極限の攻防。
私は前世の知識と、この世界で鍛え上げた技術のすべてを動員して対抗する。
だが、悲しいかな。
肉体そのものの馬力、純粋なパワーにおいては、アバンダンティアが私を凌駕していた。
彼女は私のホールドを、力任せに引き剥がす。
指先から爪先までを戦慄させる、強烈なエルボーを私の胸元に叩き込んできた。
ドカッ!
強烈な衝撃が走り、肺の中の空気が一気に押し出される。
息が詰まる。
「やはり、基礎体力の差が出たか。
アバンダンティアの打撃が、マリアの華麗な動きを止めにかかる」
キケロの実況が響く。
アバンダンティアは、立ち上がろうとする私の髪を掴み、容赦なくキャンバスに叩きつけた。
美しさのステータスがいくら高くとも、このストロングスタイルの前には、ただの飾りになってしまうのか。
私は必死に、不屈の精神の炎を燃やし続けようとするが、肉体へ刻まれるダメージは確実に私を蝕んでいった。
息が荒くなる。
額から流れる汗が、目に入って染みた。
アバンダンティアは焦らない。
獲物をじわじわと追い詰める肉食獣の目で、私の一挙手一投足を見つめている。
私はフラフラと立ち上がり、反撃を試みて右ストレートを放った。
しかし、彼女はそれを紙一重でかわす。
「甘い」
冷徹な声とともに、彼女の手が私の胴体をクラッチした。
バックをとられた。
来る。
スープレックスだ。
私は本能的に腰を落とし、首や背中に致命的な負荷を与える背後からの投げ技を防ごうとする。
重さの攻防。
数手の先を読み合う、無言の対話。
私が耐えたのを見て、彼女は瞬時にクラッチを切り替え、私をロープ際へと力任せに押し込んだ。
突き放される。
私はロープの反動で前方へ引き戻された。
その瞬間、目の前に赤い閃光が走った。
アバンダンティアの、完璧なフォームから繰り出された鋭いドロップキックが、私の胸元を直撃する。
ドゴォン!
スリリングな衝撃とともに、私の身体は後方へ吹き飛び、サードロープに激しく叩きつけられた。
「見事なドロップキック。
マリア、ロープに釘付け。
完全に動きが止まった!」
キケロが叫ぶ。
私は意識が朦朧とする中で、かろうじてロープにしがみつき、身体を支えていた。
視界が歪む。
観客の声援が、遠くの地鳴りのように聞こえる。
そこへ、アバンダンティアがゆっくりと歩み寄ってきた。
彼女の顔には、勝利を確信した冷酷な笑みが浮かんでいる。
「終わりだ、マリアお嬢ちゃん!」
彼女は私の右腕を掴むと、あろうことか、トップロープをまたぐようにして自らの身体をリング外へと躍らせた。
何をする気?
気づいた時には遅かった。
彼女はロープを支点にして、私の腕を巻き込みながら、自らの全体重をかけて関節を逆方向に引き絞ったのだ。
ロープ越しの腕ひしぎ逆十字固め。
「これは反則だ。
アバンダンティア、なんとロープを凶器として使用。
マリアの右腕が、ありえない方向に曲がっている」
マルコの声が悲痛に響く。
「ギブ、ギブ」と叫びそうになるのを、私は必死に堪える。
いや、ロープ際での関節技は、リング内であれば反則だ。
主審のバルが、すぐさまアバンダンティアの元へ駆け寄り、鋭く腕を突き出す。
「ワン、ツー、スリー、フォー……」
バルが烈火のごとくカウントを刻む。
プロレスのルールにおいて、反則攻撃はカウントファイブまでに解除しなければ失格となる。
アバンダンティアは、バルの声を完全に無視するかのよう、限界まで私の腕を引き絞り続けた。
激痛が脳を突き抜ける。
左腕の靭帯が悲鳴を上げている。
「フォー・ポイント・ナイン!」
キケロが絶叫する。
カウントファイブが宣告される直前、まさに「四・九」のタイミングで、アバンダンティアは冷酷に技を解いた。
これだ。
これこそが、悪魔的な技術を持つヒールの真骨頂。
反則を限界まで使いこなし、相手に最大のダメージを与える。
私はキャンバスに崩れ落ち、右腕を抱えてのたうち回った。
しかし、大蛇の猛攻はこれだけでは終わらない。
彼女はリング内に戻るや否や、今度は私の首を掴み、サードロープの下へと潜り込ませた。
強靭なロープを用いて頸動脈を圧迫し、酸素を遮断する、悪魔のロープチョーク。
「あ、が、っ……」
呼吸が完全に止まる。
喉が押し潰され、酸素が脳に行き届かなくなる。
バルが再び叫ぶ。
「ワン、ツー、スリー、フォー」
またしても、四・九で技を離す。
息を吸い込もうとするが、ゲホゲホと激しい咳が込み上げるだけだ。
私のステータスレベルが、視界の隅で急激に低下していくのが分かった。
力が、入らない……
リングに大の字になった私を見下ろし、アバンダンティアはフンと鼻を鳴らした。
「これが、お前たちの言う『祝祭』の力か。
笑わせるな。
お前が救おうとしている婚約者も、このリングの上で無様に散るお前を見て、絶望するだけだ」
彼女の言葉は、肉体的な痛み以上に、私の心を深く抉った。
いけない。
私は勝たなければならないのだ。
ヒパティウス様を救い、ブルーブラッドを再興し、何より私の愛する「ルクタ・フェミナ」を取り戻すために、この「花の戦争」で年間王者にならなければならない。
だけど、身体が動かない。
左腕は感覚を失い、喉は焼けるように熱い。
「フラウィア・マリア、大ピンチ。
立ち上がることができない。
まさに、ヒュドラの毒牙に全身を侵されたかのように、その美しい翼はむしり取られようとしています!」
マルコの情緒的な実況が、会場の悲壮感をさらに煽る。
観客席からは、私を心配する声と、アバンダンティアへの凄まじいブーイングが渦巻いていた。
アバンダンティアは、そんな罵声を心地よさそうに浴びながら、私を完全に仕留めるための次なる技へと移行しようとしていた。
彼女は私を引きずり起こし、その強靭な腕で私の胴体を再び固定する。
今度は逃げ場のない、中央でのサブミッションを狙う気だ。
私は完全に、彼女の構築した絶対的な支配の檻の中に閉じ込められていた。
意識が遠のいていく中で、私はただ、己の無力さと、目の前に迫る敗北の恐怖に震えるしかなかった……
【次回予告】
絶望の檻に閉じ込められたマリアの胸の中で、プロレスへの不滅の信仰心が爆発する!
彼女の「ソーラ・シュリンガル」が共鳴し、リング全体を染め上げるほどの青白いプラーナの奔流を噴出させた。
立ち上がるマリアの背後に現れたのは、帝国の精神そのものである秩序と正統性の守護獣
――青き不死鳥の幻影だった!
次回、第五章 第四話「フェニックス・ブルー」
救済の光と、審判の闇。
翼を折られてなお高く跳ぶその背中に、人々は真の救世主の姿を見る。
審判のゴングまで、あと……




