第四章 第三話 グラディアトリクスのマリア
【前回までのあらすじ】
マリアはテオドラ皇后との緊迫した舌戦の末、自らと、サーカス「祝祭」が「花の戦争」を勝ち抜き、最高峰の「レノヴァティオ・インペリイのベルト」を奪取することを条件に、ヒパティウスの死刑執行猶予をもぎ取った。
ここ、東ローマ帝国――もとい、私たちが「ロマニア帝国」と呼ぶこの世界の首都コンスタンティノープルは、今日も相変わらずの熱気に包まれている。
東西の交易から流れ込む莫大な富と、百万人もの大衆が放つ混沌としたエネルギー。
その中心から少し外れた、ボスポラス海峡の潮風が届く場所に、我がサーカス「祝祭」のグラディアトリクス養成所――ルドゥスはある。
木枠でできた観客席と、頑丈な壁に囲まれた訓練場。
その中央には、前世で私が魂を捧げ、今世でも文字通り血と汗を流して作り上げた、簡素だが美しき四角いジャングル――プロレスリングが鎮座していた。
だが、今のリングの周囲に満ちている空気は、お世辞にも「祝祭」の名にふさわしいものとは言えなかった。
私はリングのキャンバス中央に立ち、集まったメンバーたちの顔を順番に見つめた。
黒髪をキュッと結び直し、青い瞳に宿るすべての真剣さを乗せて、私は深く息を吸い込む。
「みんな、集まってくれて有難う。
今日、みんなにどうしても伝えたいことがあって、ここに立っています」
私の声は、広い石造りの天井に少しだけ反響した。
「知っての通り、ニカの乱は鎮圧された。
でも、その結果として、私の婚約者であるヒパティウスが反逆者として処刑されようとしているの。
それを止める唯一の条件が……
皇后テオドラが宣言した貴族代理戦争『花の戦争』で、私や『祝祭』が勝ち抜き、あの最高峰の黄金に輝くベルト――『レノヴァティオ・インペリイ』を勝ち取ることなの。
お願い、みんなの力を私に貸してください!」
バッと頭を下げた。
前世でパッとしない新人レスラーだった私が、プ女子としての知識を総動員して興行を立ち上げ、ここまで大きくしてきた「ルクタ・フェミナ」。
新しい闘技として大衆に愛され始めたそれは、今や政治の泥沼に引きずり込まれ、歪な「パンとサーカス」の象徴へと変貌しようとしていた。
ニカの乱によって、私も財産の大半が没収され、祝祭のオーナーではない。
共同オーナーだった、アニキア・ユリアナ様の代理・ガラ様がオーナーとなっている。
すなわち、私に命令する権限など既に無いのだ……
真っ先に声を上げてくれたのは、私の右腕であり、現在のサーカスで誰もが認める絶対王者のデーメーテールだった。
黄金のセミロングをなびかせ、凛とした佇まいで私の一歩前に出る。
「マリア様、あなたの覚悟は分かったわ。
私がこの『黄金の大地』の二つ名にかけて、全力であなたをサポートしましょう。
あなた様の夢は、私の夢でもあるのだから……」
その包容力に満ちた言葉に、私は胸が熱くなった。
彼女のファイティングスタイルは、打撃を極めた究極のストロング・アスリート。
これぞ、団体の顔としての誇りと不屈の精神の塊だ。
しかし、救いの神が現れたのも束の間、周囲の空気はむしろ冷たく凍りついていった。
「……話はそれだけ?
お嬢様?」
低く、地を這うような声。
腕を組み、不敵な笑みを浮かべていたのはバンバだった。
百八十センチメートルの巨躯、赤髪の短髪。
まさにリング上の破壊の要塞、パワー・デストロイヤー。
「勘違いしないで欲しいね。
あんたがこのルクタ・フェミナを作り、
アタシたちにプロレスの技術を教えてくれたことには感謝してるさ。
でもね、アタシらが戦うのは、あんたの男を救うためでも、名門貴族のあんたのお家再興のためでもないんだよ」
「バンバ……」
「そして、テオドラ皇后の直属サーカスを見てみな。
美を極めた者、芸術を操る者、精度を極めた死を司る者……化け物揃いだ。
それに比べて、今のウチはどうだい?
ただでさえ戦力が足りないってのに、おいおい、まさか元『オーナー』だったお嬢様、あんた自身がグラディアトリクスとしてリングに上がるってんじゃないだろうね?」
今度は、赤褐色の肌を持つアバンダンティアが、冷徹な赤い瞳で私を射すくめた。
関節技を極めた孤高のトゥイーナー。
「私は、自分の肉体一つでこの泥沼の階級社会を成り上がるためにここにいる。
貴族の代理戦争なんて反吐が出る。
何より……お嬢様。
あんたに、闘うグラディアトリクスとしての「資質」が本当にあるの?」
彼女の問いは、鋭利なナイフのように私の胸に突き刺さった。
「ルクタ・フェミナは、ただの劇じゃない。
魂の削り合い。
あんたはこれまでトレーナーやセコンドとして私たちを見てきたけれど、いざ自分がプロレスのステータスレベルを競うリングに立って、あの地獄のような技の応酬に耐えられるというの?
毎日の厳しい訓練すらまともにやっていないお嬢様に、あの重みは背負えないよ」
バステトは猫のマスクの奥から気まずそうに視線を外し、新人のポモナは憧れと不安の入り混じった顔で固まっている。
一見、固い絆で結ばれていると思われていた我がサーカス「祝祭」。
しかし、政治の暴風雨を前に、その足並みは完全にバラバラになっていた。
プロレスで言うところの、ユニット内の深刻な内部抗争、あるいは格の不一致による空中分解の危機。
私は拳を強く握りしめ、ただ下を向くことしかできなかった。
翌朝。
まだ夜が明けきらぬ薄暗いルドゥスに、小気味よい音が響いていた。
ドス、ドス、ドス、と規則正しくキャンバスを踏みしめる音。
「九十七、九十八、九十九、百……!」
汗が滝のように流れ、床に水たまりを作る。
私は、前世のレスラーたちが必ず通る地獄の基礎体力作りに挑んでいた。
まずは、すべての強さの土台となるヒンドゥースクワット数百回。
さらに、大胸筋と三頭筋を極限まで追い込むプッシュアップ。
そしてプロレスラーの象徴とも言える、首を鍛え、ブリッジの美しさを極めるための、額を床につけた三点倒立。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
筋肉がちぎれそうに熱い。
だが、頭の中にはプ女子としての知識が、 そして前世の高きプロレスの様式美が、私の肉体を突き動かしていた。
「良いフォームですよ、マリア様。
でも、腰が少し浮いているわ!」
私の横で、同じように汗を流しながら指導してくれるのはデーメーテールだ。
彼女の指導は厳しくも的確。
ウエイト&体幹トレーニングでインナーマッスルを徹底的にいじめた後、私たちはリングへと上がった。
「次は受け身の精度を上げる。
受ける技術がなければ、命がいくつあっても足りないですよ」
バァァァン!
背中からキャンバスに叩きつけられる。
一瞬、肺の空気がすべて吐き出され、目の前が真っ白になる。
それでも私は立ち上がる。
何度も、何度も、身体の衝撃を逃がす完璧な着地を体に染み込ませていく。
続いて、リングの空間把握のためのロープワークだ。
ロープに背中を預け、その反発力を利用して弾むように走る。
ただ走るのではない。
三本のロープのどこに背中を当て、どの角度で加速するか。
プロレスの幾何学とも言える美しい軌道を頭に描きながら、足運びを叩き込む。
「よし、次はロックアップ(組み合い)!
技の『掛け・受け』の同調、フォームとタイミングを合わせる練習よ!」
ガシィィィィン!
デーメーテールと正面から組み合う。
首と腕をロックし、お互いの体重を預け合う。
その瞬間、鳥肌が立った。
これはただの力比べじゃない。
お互いの「ファイティングスタイル」が、肉体を通じて交錯する、言葉なき魂の対話。
技術力、身体能力、そして不屈の精神。
それらが一つになった時、プロレスという名の小宇宙がリング上に生まれるのだ。
その時、ルドゥスの重い扉が静かに開き、二つの影が滑り込んできた。
猫のマスクを被ったバステトと、緑の髪を揺らす新人のポモナだった。
二人は、私たちの真剣そのものの、一切の妥協のない攻防に目を奪われていた。
まるで、実況解説者が「信じられないほどの密度の構成、これはもはやスポーツ・ドキュメンタリーだ!」と絶叫するような、極限の熱量がそこにはあった。
「……マリア、あなた、本当にやる気なんだね」
バステトがポツリと呟き、マスクを直しながらリングに近づいてきた。
「しょうがないなぁ、見てられないよ。
アタシのハイスピードなロープワーク、教えてあげる」
「あ、あの!私も、マリア様の輝きを近くで見たいです!
一緒に練習させてください!」
ポモナも頬を紅潮させて駆け寄ってくる。
バラバラだった「祝祭」の歯車が、リングの上の熱気によって、確かに再び回り始めようとしていた。
それからの日々は、まさに怒涛の如く過ぎ去っていった。
バステトの超高速なロープワークの駆け引き、そしてポモナのひたむきな情熱が加わり、私たちのトレーニングはより実践的で、かつ過酷なものへと変貌していった。
リングの上で激しくぶつかり合い、技を掛け合い、お互いの肉体美と精神力を極限まで高めていく。
それは、ただの肉体の改造に留まらなかった。
私が前世で愛してやまなかった、あの「魅せる」プロレス。
観客の感情を揺さぶり、カウント二・九でのキックアウトに会場全体が狂喜乱舞する、あの熱狂をこのロマニアの地で再現するための、緻密な試合運び(ワーク)の構築でもあった。
「みんな、見て。
私の『ソーラ・シュリンガル』が……」
私が開発した衣装は、使用者の女子プロステータスレベルに反応して姿を変える。
ダメージを受ければ輝きを失い、逆にレベルが向上すれば、無限大の力を秘めた究極の姿へと強化される、グラディアトリクスとしての資格の証。
今、その衣装が、私の猛特訓に応えるかのように、微かに、だが確かに青く神聖な光を放ち始めていた。
バンバやアバンダンティアは、まだ遠くから私たちを冷ややかな目で見ている。
サーカス内の完全な和解には、まだまだ時間がかかるだろう。
テオドラ皇后の擁する強力なサーカスたちとの戦いも、困難極まりないことは百も承知だ。
まずは、この「祝祭」の中での頂点を決める「サーカス王者トーナメント」を勝ち抜き、私が筆頭グラディアトリクスとして認められなければならない。
だが、私の心に、もう迷いはなかった。
愛するフィアンセを救い出し、私の大切な「ルクタ・フェミナ」も皇后の道具にさせない!
そのためには、どんなに激しい技の応酬が待っていようとも、この命が燃え尽きるまで受け切ってみせる。
前世のプ女子の魂が、今世のグラディアトリクスとしての肉体と完全に融合した。
最高峰の年間王者ベルト「レノヴァティオ・インペリイ」への過酷な道のり。
私、フラウィア・マリアの、魂を賭けた本当の戦いが、今、本格的に幕を開けた。
ゴングが鳴り響くその瞬間を、私は全身の血をたぎらせながら待っていた。
【次回予告】
「祝祭」のトップ、すなわち「サーカス筆頭グラディアトリクス」の座を掴まなければ、「花の戦争」での勝利などあり得ない。
マリアに突きつけられた条件は、身内同士がシングルで激突する過酷な「サーカス王者トーナメント」での優勝だった。
没落貴族のお嬢様から、真の看板レスラーへと脱皮するための戦いが始まる。
次回、第四章 第四話「サーカス筆頭グラディアトリクス」
神の祝福か、悪魔の誘惑か。
運命という名の鎖を千切り捨てた少女の咆哮が、異世界の空を震わせる。
約束のゴングまで、あと……




