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第三章 第二話 「ニカ(勝利)の乱」勃発

【前回までのあらすじ】

マリアは最愛の婚約者ヒパティウスとの出会いを語る。

幸せの絶頂期に、悲劇は訪れようとしていた……

「やめて下さい! その人を連れて行かないで! 

 ヒパティウス様! ヒパティウス様!」


 私の絶叫は、怒号渦巻く大歓声――いや、暴徒と化した大衆の地鳴りのような咆哮にあっけなくかき消されていった。

 ここは名門貴族であり、東方軍司令官でもある私のフィアンセ、ヒパティウス様の邸宅だ。

 当時、私は街の不穏な空気を感じて彼を心配し、この邸宅を訪れていた。

 その日、帝都に流れる空気が、単なる不満のパチパチとした小さな火花ではなく、スタジアム全体を大爆発させる直前の、あの恐ろしい熱気と同じ種類のものであるということを感じていた。

 邸宅の巨大な鉄の門の向こうには、数万人規模の民衆がぎっしりと詰めかけ、津波のように押し寄せていた。

 彼らの手には松明や棍棒が握られ、その目は完全に血走っている。


「新しい皇帝はヒパティウスだ!」


「我らが緑党も、宿敵である青党も、今こそ一つになって新政権を作る時が来た!」


「旧体制の象徴、正統なる名門の血を引くヒパティウス様こそが、我らの真の王者だ!」


 それはあまりにも突然に始まった、歴史を揺るがす大暴動――「ニカ(勝利)の乱」の最悪の幕開けであった。

 民衆は現皇帝への激しい反旗を翻し、あろうことか野心などないヒパティウス様を都合のいい神輿として祭り上げ、巨大競技場ヒッポドロームへと連行しようとしていたのだ。


「皆の者、落ち着くのだ! 

 静まりなさい!

 このような暴挙は、ロマニア帝国にさらなる血の雨を降らせるだけだ!」


 ヒパティウス様は必死に門の前に立ち、両手を広げて民衆の暴走を止めようと訴えかけた。

 その姿は、悪徳ヒールユニットの無法な乱入をたった一人で食い止めようとする、正義のベビーフェイスそのものであった。

 しかし、完全にコントロールを失った群衆という名の「最悪の観客」には、まっとうなマイクパフォーマンスなど一切届かない。

 彼らは聞く耳を持たず、むしろその優しさを突き破るようにドスの利いた声を荒らげた。


「お断りだ!

 もし我らの要求に従わぬというのなら、この美しい名門の邸宅を今すぐ粉々に破壊し、全てを灰にしてやる!」


 それは明確な脅迫であった。

 従わなければ、ここにいる全員の命はないという、あまりにも理不尽なデスマッチの要求だ。

 ヒパティウス様は絶望に顔を歪めた。

 彼は有能な軍司令官だが、本質は慎重で、無用な争いを好まない優しいお方なのだ。


「……分かった。

 だから、邸宅の者たちには手を出すな」


 望まぬまま、最悪の泥沼へと引きずり込まれるように、ヒパティウス様は民衆の渦へと足を踏み出した。


「嫌! 行かないで!」


 私は泣き叫びながら彼の体にしがみついた。

 前世のレスラーとしての意地と筋力を総動員して、必死にその衣服を掴んで離さなかった。


「この人々は、貴方を輝かしい王座ではなく、確実な死へと導いているのです!」


 しかし、人間の巨大な濁流は、私一人の力ではどうにもできない怪物であった。

 何十人もの男たちの無骨な手が、私をヒパティウス様から引き剥がそうと容赦なく襲いかかる。

 ビリビリと上質な麻の衣服が裂ける音が響き、私は強引に冷たい地面へと引き倒された。


「マリア! 来るな!

 生き延びてくれ!」


 それが、民衆の波に飲まれていく彼から聞こえた、引き裂かれるような最後の言葉であった。


「マリア様、いけません! 

 これ以上は本当に命に関わります!」


 地面に伏した私を背後からガッチリとホールドし、安全な奥へと引き戻したのは、我がサーカス「祝祭フェストゥム」の筆頭グラディアトリクスであり、私の元メイドでもあるデーメーテールであった。

 彼女の最高峰の技術と岩盤のような不屈の精神に裏打ちされたフルネルソンは、私を暴徒の手から守るためのものであったが、今の私にとっては愛する人との距離を絶望的に引き離す壁でしかなかった。

 遠ざかっていくヒパティウス様の背中を、私は涙で視界を激しく滲ませながら、ただ見つめることしかできなかったのだ。


 なぜ、世界はこれほどまでに歪んでしまったのか。

 この「ニカの乱」という最悪のメインイベントが組まれてしまった背景には、現皇帝ユスティニアヌス一世が進める、あまりにも強引な「力による統治」があった。

 皇帝が掲げる「レノヴァティオ・インペリイ(帝国再興)」という甘美なスローガンの裏で、行われていたのは徹底的な中央集権化と、血も涙もない重税の取り立てであったのだ。

 特に、無慈悲な増税は、汗水垂らして働く一般庶民の財布から最後の一枚の銅貨までをも毟り取り、同時に伝統的な特権を持つ貴族たちのプライドをも無残に踏みにじっていた。

 さらに、厳格すぎる法改革は、これまで「グレーゾーン」という名の巧みな受け身で衝撃を逃がしてきた特権階級の逃げ道を完全に塞いでしまった。

 プロレスで言えば、ロープエスケープも場外カウントも一切認めない、逃げ場のない完全決着ルールを全員に強制したようなものだ。

 これによって、社会の全階層に溜まりに溜まった不満のフラストレーションは、まさに臨界点に達していた。

 商工業者たちのギルドへの所属が強制され、個人の自由が制限されていたことも、その火に油を注いでいた。


 そして、その大爆発の最悪の引き金となったのが、帝国の政治とエンターテインメントの中心地である競馬場――ヒッポドロームでの事件であった。

 当時、帝国の民衆は「青党」と「緑党」という二大サーカス派閥に分かれ、日夜激しい抗争を繰り広げていた。

 それは現代のプロレスにおける軍団抗争の比ではなく、政治的・宗教的な対立をも孕んだ血生臭いものである。

 普段であれば彼らは犬猿の仲であり、互いの顔を見るだけで罵り合うような宿敵同士であった。

 ところが、前年に発生した暴動の際、双方の派閥から出た殺人犯への死刑執行を、当局が無理に強行しようとしたことで風向きが変わった。

 処刑の失敗という予想外のアクシデントも重なり、生存者が教会へ逃げ込む事態になると、両派閥の民衆は「共通の敵」の存在に気づいてしまったのだ。


「俺たちが血を流して戦っている裏で、あの農民出身の皇帝どもは俺たちの金を奪い、仲間を殺している!」


 宿命のライバル同士が突如として手を組み、正規軍である皇帝に対して異例の巨大共闘ユニットを結成する――

 これほど最悪で、これほど熱狂的なベビーフェイスターンが他にあるだろうか。

 ヒッポドロームに集まった七万人以上の大観衆は、いつものチームへの応援連呼を止めた。

 その代わりに、地鳴りのような一つの合言葉をスタジアム全体に響かせたのだ。


「ニカ! ニカ! ニカ(勝利を掴め)!」


 その瞬間、スポーツの熱狂は一瞬にして血生臭い暴動へと変貌を遂げた。

 怒り狂った暴徒たちはヒッポドロームを飛び出し、市内の主要な政府建造物に次々と放火していった。

 メインストリートの列柱の下に並ぶ商店街から火の手が上がり、メラメラと燃え盛る大火災は、街の半分近くを灰燼に帰し、伝統ある聖ソフィア教会までもが激しい炎に包まれた。

 東西交易の結節点として莫大な富を誇った首都コンスタンティノープルの中心部は、文字通りの火の海、地獄のデスゲームのリングと化してしまったのである。

 ヒパティウス様が民衆に拉致されるように連れ去られ、ニカの乱が本格的に勃発してしまったいま、私の目の前にあるのは真っ黒な煙に覆われた絶望の空だけであった。

 パチパチと何かが爆ぜる音が遠くから聞こえ、風に乗って灰が私の頬を黒く汚す。


「そんな……こんなのってないよ……」


 私は地面に膝をついたまま、自分の無力さに唇を血が出るほど噛み締めた。

 前世でパッとしないレスラー人生を送り、不慮の事故でこの世界に転生した時、私は今度こそ誰もが笑顔になれる「最高の興行」を作りたいと願っていた。

 新しく私がプロデュースした「ルクタ・フェミナ」という肉体美と魂の応酬の闘技が、この帝国の新しいエンターテインメントとして受け入れられつつあったはずなのに。

 それなのに、政治という名の汚い場外乱闘は、ルールもマットもないコンクリートの床の上で、大切な人を無慈悲に踏みつけていくのだ。

 民衆に担ぎ上げられたヒパティウス様は、これからヒッポドロームで偽りの皇帝として戴冠させられるだろう。

 それは現皇帝ユスティニアヌス一世と、あの冷徹な皇后テオドラに対する明確な宣戦布告を意味する。

 もしこの暴動が失敗すれば、彼を待っているのは「反逆者」としての確実な処刑だ。

 私の頭の中で最悪のバッドエンドを警告音のように鳴らし続けていた。


「マリア様、立ち上がって下さい。

 ここにいては、私たちまで煙に巻かれてしまいます」


 デーメーテールが静かに、しかし力強い手で私の肩を支え、抱き起こしてくれた。

 彼女の美しい黄金の瞳には、燃える街の光がギラギラと反射していたが、その奥にある精神は少しも揺らいでいなかった。


「……戦わなきゃ」


 私は涙を手の甲で乱暴に拭い去り、キッと前を睨みつけた。

 私の心の中に、前世から受け継いだあの「不屈の精神スピリット」が、小さな、しかし消えない炎となって灯るのを感じた。

 ただ泣いて助けを待つだけの悲劇のヒロインになるつもりはない。

 たとえ相手が絶対的な権力を持つ皇帝であろうと、冷酷無比な皇后であろうと、プロレスラーはカウントスリーを聞くまでは絶対に肩を上げ続けるものだからだ。

 私の愛する人の命を奪おうとする運命という名の凶悪な対戦相手に、私は真っ向から立ち向かうことを決意した。


 今、運命が大きく動き始めた……


挿絵(By みてみん)

【次回予告】

 民衆に拉致されたヒパティウスが暫定皇帝として戴冠させられ、現皇帝ユスティニアヌス1世の王座は風前の灯火となる。

怯えて亡命を図ろうとする皇帝の背中を、皇后テオドラの冷徹な絶叫が叩き起こす!

「帝衣(紫衣)は最高の死に装束である」

――絶望の控室を震わせる、烈女のマイクパフォーマンスを見よ!


次回、第三章 第三話「紫衣は最高の死に装束」


遠き日の約束と、目の前の現実。

過去を振り切り、今この瞬間に全てを懸ける。その覚悟が、軌跡を奇跡へと変える。

邂逅のゴングまで、あと……

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