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第三章 第三話 紫衣は最高の死に装束

【前回までのあらすじ】

最悪の大暴動「ニカの乱」が勃発してしまった。

マリアは群衆に担ぎ上げられようとする婚約者ヒパティウスの体にしがみつき必死に抵抗したが、圧倒的な濁流の前に力ずくで引き離され、彼は連れ去られてしまった。

 ヒパティウス様が連れ去られて数時間が経った。

 そして帝都は火の海と化し……

 結果、ヒパティウス様はヒッポドロームへと力ずくで連れ去られ、興奮の極みに達した大群衆の前で、ロマニア皇帝としての即位を宣言されてしまったのだ。

 背後にきらめくのは、伝統の「青い正統」の輝き。

 だが、その実態は、コントロールを失った大衆に無理やりベルトを巻かされた、悲劇の暫定王者に過ぎなかった。

 これにより、現皇帝ユスティニアヌス一世の王座は、文字通りカウント二・九九、風前の灯火となったのである。


 一方、その頃。

 堅牢な宮殿の奥深くにある御前会議の席は、まるでメインイベントで惨敗を喫した直後の、通夜のように重苦しい控室の空気に包まれていた。


「もうおしまいだ。

 すべては水泡に帰した」


 五十歳を迎えてなお鋭い眼光を持つはずの皇帝ユスティニアヌス一世は、完全に心が折れ、玉座で頭を抱えていた。

 ヒッポドロームから響いてくる「ニカ!」の地鳴りのような咆哮が、宮殿の分厚い石壁を透過して、彼らの鼓膜を執拗に痛めつける。

 かつて農民の子から這い上がり、古典教育と軍事訓練を経て「レノヴァティオ・インペリイ(帝国再興)」を成し遂げると豪語した英雄の面影は、そこにはなかった。

 ただの、敗北を目前にした一人の怯える男だった。


「港に船を用意させろ。

 国庫の金銀財宝をすべて積み込むのだ。

 まだ海路を使えば、この首都から亡命できる。

 命さえあれば、いつでもリターンマッチは行える……」


 皇帝の弱気な言葉に、周囲の男性高官や将軍たちも、一様に安堵の表情を浮かべて頷いた。

 プロレスで言えば、敵対ユニットの乱入を恐れて、試合を放棄してリングから一目散に逃げ出しようとする、無様な王者の姿そのものだった。


 その時だった。


「――お黙りなさい!」


 宮殿の静寂を切り裂く、雷鳴のような鋭い声が響き渡った。

 一同が息を呑んで振り返った先――

 そこに立っていたのは、皇后テオドラだった。

 かつて最底辺から這い上がってきた、美貌と冷徹な知性を兼ね備えた三十三歳の女性。

 彼女は、逃亡の準備で右往左往する男性高官たちを、まるでリング上から不甲斐ない練習生を睨みつけるトップレスラーのような、圧倒的な威圧感で射すくめた。

 テオドラはゆっくりと、だが一歩一歩に確かな玉座の重みを乗せて、皇帝の前に歩み出た。

 その背筋は一本の槍のようにまっすぐに伸び、まとう紫色の絹衣が、部屋の松明の光を反射して怪しく、神々しく揺らめいている。


「いま、この状況で逃げ出すことが何を意味するのか、

 貴方方は本当に分かっているのですか?」


 彼女の声は、低く、しかし驚くほどよく通った。

 まるで、満員のドーム会場の隅々にまで言葉を届ける、伝説の名実況アナウンサーの語り口のように、聴く者の魂に直接突き刺さってくる。


「たとえ逃げ延びて命が助かったとしても、かつて皇帝であった者が、

 名誉を奪われ、亡命者として惨めにおびえながら生き延びることは、私には到底耐え難いことです。

 王権を手にした者が、一度リングを降りれば、

 二度とその輝きを取り戻すことはできない」


 彼女は一呼吸置き、居並ぶ将軍たち、そして夫である皇帝の目をまっすぐに見据えた。


「私は、古の格言を信じます――

『帝衣(紫衣)は最高の死に装束である』と」


 ゾクッ、と皇帝の背筋に極限の戦慄が走った。

 それは、敗北を認めて不名誉な泥にまみれるくらいなら、この最高峰のベルトを巻いたまま、リングの上で骨を埋めるという、究極の「受けの美学」の表明だった。

 死をも恐れぬ覚悟を秘めた、凄まじいまでの「ヒールとしての誇り」が、彼女の全身から黒いオーラとなって立ち上っている。

 この毅然とした態度と、痛烈極まるスピーチに、逃亡を企てていた男性たちの心は完全にへし折られ、同時に、眠っていた野生の闘争本能が呼び覚まされた。


「紫衣は、最高の死に装束……」


 ユスティニアヌス一世は、その言葉を何度も口の中で噛み締めた。

 テオドラの放った強烈なマイクパフォーマンスは、絶望の淵にいた皇帝の魂に、一撃必殺の膝蹴りの如く炸裂したのだ。


「……そうだ。

 私はロマニアの皇帝だ。

 敵に背中を見せて逃げ出すなど、あってはならない!」


 皇帝の瞳に、再びギラギラとした残虐な野心の炎が燃え上がった。

 彼は逃亡計画をその場で完全に破棄し、首都に踏みとどまって、死を覚悟した徹底抗戦を決意したのである。

 それは、ギブアップ寸前の王者が、セコンドの強烈なビンタによって正気を取り戻し、狂気の反撃へと転じる運命の瞬間だった。

 テオドラのたった一言のスピーチによって、ロマニア帝国の歴史という名の巨大な歯車が、凄まじい音を立てて逆回転を始めた。

 宮殿の奥で、それまで防衛戦に徹していた皇帝軍の首脳陣が、一転して「全滅か、勝利か」の超攻撃的フォーメーションへとシフトしていく。


「ナルセス! 敵の連携を分断しろ。

 金貨を使って青と緑の派閥を切り崩すのだ!」


「ベリサリウス、ムンドゥス! 

 軍を率いてヒッポドロームを完全に包囲せよ。

 リングに上がった暴徒どもには、一切の反則カウントを認めるな。

 文字通りの完全決着だ!」


 去勢奴隷から上り詰めた老獪な知将ナルセス、そして冷徹な猛将たちが、皇帝の命を受けて一斉に闇へと散っていく。


「なんてこと……

 皇后テオドラの一言で、ブック(筋書き)が完全に書き換わっちゃった……!」


 私は宮殿の動向を察知し、その恐るべき展開に全身の血が凍りつくのを感じていた。

 もしユスティニアヌス一世が逃亡していれば、ヒパティウス様が新たな王者として君臨し、平和な新体制が築かれるはずだった。

 しかし、テオドラのあの執念のスピーチが、その未来を木っ端微塵に打ち砕いたのだ。

 ヒッポドロームに立てこもる七万人の大群衆、そしてそこに祭り上げられた私の大切な婚約者は、いまや激昂した皇帝軍という名の「最凶ヒール軍団」の軍靴に踏みにじられるのを待つだけの、無防備な標的と化してしまった。


「このままじゃ、ヒパティウス様が、本当の惨劇に巻き込まれてしまう……」


 コンスタンティノープルの街を包む炎はさらに赤さを増し、夜空を血のような色に染め上げていく。

 テオドラが示した「死に装束」の覚悟は、これから始まる、歴史上最も凄惨な大虐殺プログラミングの、冷酷なゴングの音に他ならなかった。

 愛する人の命が、私の未来が、いま、巨大な闇に飲み込まれようとしている。

 だが、私の胸の中にあるプ女子としての魂、不屈のスピリットは、まだ一秒も諦めてはいなかった。


「どんなに絶望的なカウント二・九でも、絶対に肩を上げてキックアウトしてみせるんだから!」


 血の雨が降ろうとするロマニアのリングで、私の、運命をひっくり返すための本当の戦いは始まったばかりだ……



【次回予告】

テオドラの叱咤によって覚醒した皇帝軍が、ヒッポドロームを完全包囲する。

ベリサリウス将軍の無慈悲な突撃により、三万人もの民衆が泥のように押しつぶされ、凄惨な虐殺によって乱は鎮圧された。

そして、民衆の神輿にされただけの無実のヒパティウスに、冷酷な処刑の宣告が下される……


次回、第三章 第四話「ヒッポドロームの惨劇」


雷鳴の如き咆哮と、静寂の祈り。

散ることを許さぬ猛き百合は、荒れ狂う嵐の只中でこそ凛と咲き誇る。

終焉のゴングまで、あと……

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