第三章 第一話 フィアンセ
【前回までのあらすじ】
ルドゥスでの凄まじいスパーリングを通じて、サーカス「祝祭」のメンバーは技を競い合い、固い絆とライバル関係を深めていく。
マリアは彼女たちと共に、全てのサーカスを凌駕する未来を確信していた。
天井のドーム型に穿たれた小さな円窓から、午後の柔らかな光が差し込んでいた。
そこは、ロマニア帝国の歴史と富を象徴する伝統的名門貴族、アニキア家の私的浴場である。
壁一面を埋め尽くす金箔入りのガラス・テッセラが、差し込む光を万華鏡のように乱反射させ、まるで神の国に迷い込んだかのような輝きを放っている。
立ち上る濃密な湯気は、最高級のオリーブオイルに極上の薔薇香料を混ぜた、甘く豪奢な香りをまとっていた。
私は贅沢な多色大理石の浴槽の縁に頭を預け、豊かな湯の中で大きく手足を伸ばす。
「はふぅ……生き返る。
やっぱり、肉体鍛錬の後の湯浴みは、肉体と魂の奥深くまでダイレクトに染み渡るわね」
前世ではパッとしない新人女子プロレスラー、今世では名門貴族の令嬢にしてグラディアトリクスのプロデューサーとなった私、フラウィア・マリアは、贅沢な湯の感触に思わず恍惚とした声を漏らした。
プロレスラーの肉体というものは、相手の技をすべて受け止めるための強靭な防衛本能と、それをリング上で最も美しく魅せるための華麗な佇まいが同居していなければならない。
日々、皆に知られないように隠れて過酷なヒンドゥースクワットやブリッジなどの肉体鍛錬を重ねている私の肌は、程よく引き締まり、格闘技における理想的な肉体美を維持している。
そんな私の横で、滑らかな白い肌を湯に浸らせながら、一人の高貴な女性が優雅に微笑んだ。
「マリア、またおかしな言葉を使っているわね。『ぷろれす』だなんて。
でも、あなたのその前向きなエネルギーを見ていると、こちらまで若返るようだわ」
声をかけたのは、帝国で最高級の血筋を誇り、新興の皇帝一家すら恐れおののくローマ正統貴族の象徴、アニキア・ユリアナ様だ。
五十六歳という年齢を全く感じさせない気品と知性を湛えた彼女は、私の最大の理解者であり、サーカス・「祝祭」のパトロンでもある。
彼女の隣では、帝国のトップエリートたちがこぞって婚姻を望むという絶世の美女、娘のガラが、長い黒髪をかき上げながらクスクスと笑っていた。
「本当にお母様の言う通りですわ、マリア。
その『うけのびがく』というのは、相手の攻撃をあえて真っ向から受け止めることで、己の不屈の精神を観衆に誇示する様式美なのでしょう?
まるで、今の歪んだ帝国の政治に耐え忍ぶ、私たち伝統的名門貴族の立場のようですわ」
ガラの言葉は、冗談めかしつつも鋭い政治的な棘を含んでいた。
現在、このロマニアの帝都コンスタンティノープルは、人口百万人を抱える大メトロポリスとして東西交易の富を集める一方、新興の皇帝ユスティニアヌス一世とその皇后テオドラによる苛烈な中央集権改革の嵐が吹き荒れている。
大衆に人気のある戦車競走が行われるヒッポドロームの熱気の裏では、特権階級と一般庶民の分断が深刻化し、重税への不満が火山マグマのように溜まっていた。
「ガラ、お風呂の中でまで政治の生臭いお話は野暮というものよ。
それよりもマリア、あなたの最愛の婚約者、ヒパティウス殿は最近会っているの?」
ユリアナ様が、悪戯っぽい瞳で私を覗き込んできた。
その名前を聞いた瞬間、私の心臓がゴングの第一打のようにドクンと跳ね、頬が一気に熱くなるのを感じた。
「ひ、ヒパティウス様ですか!?
もう、ユリアナ様ったら!
あの方は……その、本当に完璧な御方なんです!
プロレスで例えるなら、圧倒的な実力と高潔な精神を兼ね備え、団体の顔として君臨する『絶対王者』であり、同時にファンを一番に気遣う最高のベビーフェイス(善玉)なんです!」
私は思わず湯船から身を乗り出し、身振り手振りを交えて熱弁を振るってしまった。
前帝アナスタシウス一世の甥であり、最高位の貴族階級パトリキウス、さらには東方軍司令官や執政官を歴任する名門中の名門。
それほどの超大物でありながら、ヒパティウス様は驚くほど優しく、慎み深いお人柄なのだ。
「ふふ、まあ。
マリアののろけ話は、いつでも大劇場の実況アナウンサーのように熱狂的で、聞いていて飽きませんわね」
ガラが白い手で口元を隠しながら微笑む。
実際、私の脳内では、前世のあの伝説的な名実況者たちの過激なフレーズが鳴り響いていた。
『見よ、この溢れんばかりの気品!
ロマニアの夜空に燦然と輝く南十字星か、はたまた元元老院の良心を具現化した奇跡の男か!』
そんな言葉が次々と浮かんでしまうほど、彼は見事な容姿を持っていた。
彫刻のように整った輪郭に、知性を湛えた穏やかな瞳。
そして、軍司令官として鍛え上げられたその肉体は、無駄な脂肪が一切なく、まさにヘビー級のトップレスラーのような、機能美と伝統的威厳に満ちあふれている。
街を歩けば、一般庶民の女性たちからも黄色い歓声が上がり、兵士たちからの信頼も厚い。
国民的人気という意味では、新興の農民出身である皇帝ユスティニアヌス一世を遥かに凌駕する、真の『ブルーブラッド(青血)』のカリスマだった。
「でも、マリア。
彼ほどの男性だからこそ、私たちは心配なのよ」
ユリアナ様の声が、にわかに低く、シリアスな響きを帯びた。
「今の宮廷は、冷酷で復讐心に満ちた皇后テオドラの諜報網が張り巡らされているわ。
野心のないヒパティウス殿が、そのあまりの人気の高さゆえに、皇帝一派から『反逆の芽』として目を付けられ、政治の荒波に引きずり込まれなければ良いのだけれど……」
ユリアナ様の言葉は、私の胸の奥に冷たい氷を突き刺したようだった。
権力者がその座を脅かされると判断したとき、どれほど非情な粛清を行うか。
前世のプロレス界でも、急激にトップへ押し上げられた若手が、バックステージの政治劇によって一瞬で干される光景を何度も見てきた。
ましてや、ここは命のやり取りが行われる本物の帝国なのだ。
私は、自分の社会的地位に伴う危険を熟知しており、彼が不本意な陰謀に巻き込まれることを、何よりも強く恐れていた。
思わず自分の肩を抱きしめるようにして、湯の中に身を沈める。
どうか、あの優しい方が、この歪んだ社会の犠牲になりませんように、と心の中で祈らずにはいられなかった。
湯浴みを終えた私は、長い黒髪を乾かし、上質な麻のチュニックを身にまとって、アニキア邸の中庭へと歩を進めた。
初夏の風が心地よく吹き抜け、私の頭の中で、ヒパティウス様との出会いの記憶が、まるで名勝負のハイライトシーンのように鮮明に蘇ってきた。
あれは、私がまだ十五歳の頃、「ルクタ・フェミナ」を立ち上げて試行錯誤していた時期だった。
私は自身が設立したサーカス「祝祭」のグラディアトリクス養成所「ルドゥス」で、泥塗れになりながら少女たちの指導にあたっていた。
「コブラツイストは、首、脇、足を同時に固定して捻るのよ!
全身の筋肉を限界まで引き延ばす、これぞプロレスの基本関節技!」
などと、大声を張り上げていたその時だった。
「失礼、見事な熱弁に、思わず足を止めてしまった」
振り返ると、そこには名門貴族の豪華な金糸の縁取りがあるパラガウダをまといながらも、どこかお忍びの雰囲気を醸し出した見目麗しい青年が立っていた。
それが、ヒパティウス様だった。
彼は私の「貴族の令嬢が、怪しげな肉体格闘技を始めた」という噂を聞きつけて、好奇心から養成所を覗きに来たのだった。
最初は、ただの冷やかしの貴族かと思った。
だが、私がルクタ・フェミナの理念について、前世のプロレス愛を爆発させながら熱く語り出すと、彼の瞳の色の輝きが変わった。
「ヒパティウス様、これは単なる野蛮な殺し合いではありません!
相手の得意技をあえて受け切り、その上で自分の限界を超えて立ち上がる!
命を奪う剣闘士の試合ではなく、お互いの魂をぶつけ合い、観衆に生きる希望を与える、
最高のエンターテインメントなんです!」
私の熱弁に、周囲のメイドたちは「またお嬢様の妄言が始まった」と頭を抱えていたが、ヒパティウス様だけは、驚いたように目を見開いた後、心の底から優しく微笑んでくださったのだ。
「素晴らしい考えだ、マリア。
今のロマニア帝国は、終わりの見えない西方遠征の軍事費を賄うための重税で、民衆も農民も疲れ果てている。
戦車競走の派閥争いは暴動の火種となり、人々はただ血を流す刺激だけを求めている。
だが、あなたの言う「ルクタ・フェミナ」には、命を大切にしながら大衆の心を震わせる、新しい光があるように思える」
その言葉に、今度は私が衝撃を受ける番だった。
まさか、伝統的名門貴族のトップに立つようなお方が、これほどまでに一般庶民の苦しさに心を痛め、戦争の悲惨さを憂いているなんて。
さらに彼は、私を見つめながらこう続けた。
「それに、この国では女性の慎み深さばかりが強調され、法的な権利や自由が制限されがちだ。
だが、あなたの養成所で汗を流す少女たちは、貧困からの脱却や社会的成功を目指し、己の意志で戦おうとしている。
テオドラ皇后も女性保護の法案を推進しているが、あなたの『ルクタ・フェミナ』もまた、女性の地位向上に大きく寄与するに違いない。
私は、あなたのその高い志に、強く共感するよ」
その瞬間、私の胸の奥で、カチリと何かのスイッチが入った。
単なる家同士が決めた婚約という形式的な関係だったはずのパズルが、完璧に噛み合った音がした。
この人は、私の前世の奇妙な知識を否定せず、その根底にある「命を大切にする」という本質を見抜いてくれた。
何より、社会的弱者や女性のために何かを変えたいという、私と同じ熱い情熱を抱いている。
私たちはその日、時の経つのも忘れて語り合い、互いの理想と未来を共有した。
気づけば、儀礼的な関係は完全に崩壊し、私たちは深い相愛の絆で結ばれるようになっていたのだ。
彼が私を愛してくれる最大の理由。
それは、私が命を尊ぶ「ルクタ・フェミナ」を普及させ、この異世界に新しい希望のエンターテインメントをもたらしたからだと、彼は何度も言葉にしてくれた。
高貴な血統という重すぎる十字架を背負いながらも、どこまでも優しく、どこまでも誠実なその人柄に、私は完全にノックアウトされてしまったのだった。
中庭のベンチに腰掛け、私は自分の手のひらを見つめた。
少しマメの固くなったこの手は、高貴な令嬢のものとしては不釣り合いかもしれないが、ルクタ・フェミナのプロデューサーとして懸命に活動してきた私の誇りの証だ。
「ヒパティウス様……」
その名前を呟くだけで、胸の奥がキュンと締め付けられるように愛おしい。
彼を思い浮かべるとき、私の頭に浮かぶのは、きらびやかな宮廷で執政官の椅子に座る威厳ある姿ではない。
二人きりの時に見せてくれる、少し困ったような、でも世界中の誰よりも温かい、あの優しい微笑みだ。
前世での私は、パッとしない新人レスラーのまま、不慮の事故で短い生涯を終えてしまった。
スポットライトの真ん中に立つこともできず、ファンの大歓声を浴びることもないまま終わった、未完の人生。
だが、この異世界ロマニア帝国に転生し、彼と出会ったことで、私の世界は一変した。
彼は私の不完全な魂を受け止め、私の挑戦を誰よりも応援し、私という存在を無条件で肯定してくれた。
歴史の教科書に載るような偉大な英雄でも、野心に満ちた独裁者でもないけれど、私にとっては、彼こそが人生のメインイベントを共に歩む、唯一無二のパートナーなのだ。
今の私は、貴族ヒパティウスの婚約者として、そして大衆に愛される「ルクタ・フェミナ」の創始者として、まさに幸せの絶頂期にいる。
大好きなプロレスの仲間たちに囲まれ、愛する人と結ばれる未来が、すぐ目の前まで迫っている……
はずだった……
この穏やかな日常の裏で、帝国の歪みは確実に限界へと達しつつある。
青と緑のサーカス派閥の対立、皇帝の強硬な法改革、実務能力の高い名士プロブスや行政官マリヌスら旧エリートたちの反発、そして大衆の爆発寸前の不満。
これらすべての導火線が、間もなく一本の巨大な火薬樽へと繋がろうとしている。
史上最大の危機の足音が、すぐそこまで迫っていたのだ……
【次回予告】
相次ぐ遠征と巨大建築のための重税により、社会の全階層に溜まった不満のフラストレーションがついに爆発する!
競馬場ヒッポドロームで手を組んだ「青」と「緑」の二大派閥が、合言葉「ニカ!」を叫んで暴徒と化す。そして暴徒の波は、愛するヒパティウスの邸宅へと押し寄せてきた!
次回、第三章 第二話「『ニカ(勝利)の乱』勃発」
白銀の涙と、鉄錆の汗。
頬を伝う液体が真珠へと変わる時、少女は真の女王へと覚醒する。
戴冠のゴングまで、あと……




