第99話 欠ける盾
ここはレイアノーティア。
守りは、破られてから価値を知る。
盾は、攻撃を受けるためにある。
刃を止めるためにある。
誰かの前に立つためにある。
だが。
受けるものすら残らない相手に、盾は何を守れるのか。
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黒い球体は、なお進んでいた。
速くない。
急がない。
ただ、距離を詰めてくる。
砂の上には、細い空白の跡が伸びていた。
削られた跡ではない。
焼けた跡でもない。
そこにあった砂が、最初から存在しなかったように抜け落ちている。
誰も、声を上げなかった。
声を上げれば、その声まで削られる気がした。
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ガルドが、もう一度前へ出た。
大盾を構える。
すでに一度、後ずさった。
押されたわけではない。
弾かれたわけでもない。
ただ、近づかれるだけで身体が退いた。
それでも、ガルドは前へ出る。
背後には仲間がいる。
さらに奥には、街道がある。
街がある。
守るべきものがある。
「止めます」
低い声だった。
震えてはいない。
だが、呼吸は浅い。
ガルド自身も分かっている。
これは、いつもの守りとは違う。
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黒い球体が、盾へ近づく。
圧はない。
魔力の衝突もない。
爪も牙もない。
ただ、近づく。
ガルドは、退かなかった。
盾の縁が、黒へ触れる。
音はなかった。
衝撃もない。
ただ、這い寄るように触れた。
次の瞬間。
盾の縁が、消えた。
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切断ではない。
摩耗でもない。
溶けたのでもない。
欠けた部分が落ちたわけでもない。
そこにあったはずの鉄が、最初からなかったように消えていた。
ガルドの瞳が揺れる。
盾の重さが変わる。
握っていたはずの均衡が崩れ、欠けた部分に空気が入り込む。
「……っ」
思わず、一歩退く。
だが、黒い球体は止まらない。
もう一度、盾へ触れる。
厚い鉄の面が、音もなく薄くなった。
また、消える。
存在そのものが抜き取られる。
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ガルドの腕が震えた。
「……軽い」
呟く。
大盾が軽くなっている。
守るために重かったものが、軽くなっていく。
軽くなることが、こんなに怖いとは思わなかった。
盾が消えている。
守りの形が、失われていく。
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ミラが叫びそうになり、声を飲み込んだ。
コムギは水袋を抱えたまま息を止めている。
フィーは震える手を伸ばしかけて、止まった。
治す対象がない。
怪我ではない。
欠損ですらない。
削られた場所に、傷が残っていない。
クラウスは必死に糸を探していた。
原因。
結果。
繋ぎ目。
ほころび。
だが、ない。
そこだけ線がない。
縫いようがない。
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球体が、盾を半分ほど削ったところで、ガルドが歯を食いしばった。
「……下がれ」
それは仲間に向けた声ではなかった。
自分に言い聞かせるような声だった。
ガルドは一歩、退く。
半分になった盾を構えたまま。
盾の欠けた縁が、妙に軽い。
守りの象徴が、半分存在しない。
それでも、ガルドは握っている。
手放さない。
「まだ……負けていません」
声は低い。
だが、誰もそれを勝算とは思えなかった。
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トンヌラが前へ出た。
黒い球体を見つめる。
理解はできない。
だが、本能が告げている。
(これは、まともに戦える相手じゃない)
ガルドの盾が消えた。
ミラの音も削れた。
クラウスの糸も見えない。
なら、自分に何ができるのか。
分からない。
それでも、黒い球体は進む。
背後には、街がある。
退けば、あれは街へ向かう。
だから、立っているしかなかった。
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黒い球体が、トンヌラへ向く。
目はない。
顔もない。
だが、向いた。
ほんのわずかに、進路が変わった。
ミラが息を呑む。
「団長……」
「団長ではない」
いつもの言葉が口から出た。
だが、自分でも驚くほど声が硬かった。
黒が、近づく。
腕に触れかける。
その瞬間。
トンヌラの右手の輪郭が、一瞬だけ薄くなった。
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皮膚の感覚が消える。
重さが消える。
指先が、自分のものではなくなる。
痛みはない。
熱もない。
ただ、存在の密度が落ちる。
(――消える)
心臓が、強く打った。
恐怖ではない。
理解だった。
これに触れれば、自分は壊れるのではない。
消える。
最初からなかったことに近づく。
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「触れるな!」
クラウスが叫んだ。
普段の彼にはない、鋭い声だった。
トンヌラは半歩だけ退く。
腕の輪郭が戻る。
指先も、手の重さも戻った。
だが、感覚は残っている。
消えかけた感触。
自分が自分でなくなるよりも前に、自分という輪郭が薄くなる感覚。
それは、身体の奥に冷たく残った。
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黒い球体は、なお進む。
止まらない。
怒らない。
威圧しない。
ただ、削り取った。
ガルドの欠けた盾の破片は、砂へ落ちていない。
落ちるものがなかった。
半分だけになった盾を、ガルドはまだ握っている。
大盾だったものは、もう大盾とは呼べない形になっている。
それでも、彼は構えていた。
「まだ……立てます」
フィーが苦しそうに眉を寄せる。
「でも、その盾では」
「盾が半分でも」
ガルドは前を見たまま言う。
「前に立つことはできます」
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クラウスの額に汗が滲んでいた。
(これは――虚無だ)
解釈ではない。
因果でもない。
現象のつなぎ直しでも届かない。
(存在そのものを、削っている)
黒い球体は、ゆっくりと前進を続ける。
砂の上に、空白の道を作りながら。
その道には、足跡もない。
削れた跡もない。
ただ、そこにあったものがない。
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トンヌラは、欠けた盾を見る。
ガルドの手を見る。
そして、黒い球体を見る。
強い敵なら、まだよかった。
怒っている敵なら、まだ分かりやすかった。
意思があるなら、言葉をぶつける余地もあったかもしれない。
だが、これは違う。
何も返してこない。
何も主張しない。
ただ、存在を削る。
世界の余白を消すように。
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ここはレイアノーティア。
壊すのではなく、消す。
そして――。
消えたものは、戻らない。
それが、虚無。
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第99話 了




