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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第9章 役に立たない場所の歌

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第99話 欠ける盾

 ここはレイアノーティア。

 守りは、破られてから価値を知る。


 盾は、攻撃を受けるためにある。

 刃を止めるためにある。

 誰かの前に立つためにある。


 だが。


 受けるものすら残らない相手に、盾は何を守れるのか。



 黒い球体は、なお進んでいた。


 速くない。


 急がない。


 ただ、距離を詰めてくる。


 砂の上には、細い空白の跡が伸びていた。


 削られた跡ではない。

 焼けた跡でもない。

 そこにあった砂が、最初から存在しなかったように抜け落ちている。


 誰も、声を上げなかった。


 声を上げれば、その声まで削られる気がした。



 ガルドが、もう一度前へ出た。


 大盾を構える。


 すでに一度、後ずさった。


 押されたわけではない。

 弾かれたわけでもない。

 ただ、近づかれるだけで身体が退いた。


 それでも、ガルドは前へ出る。


 背後には仲間がいる。


 さらに奥には、街道がある。


 街がある。


 守るべきものがある。


「止めます」


 低い声だった。


 震えてはいない。


 だが、呼吸は浅い。


 ガルド自身も分かっている。


 これは、いつもの守りとは違う。



 黒い球体が、盾へ近づく。


 圧はない。


 魔力の衝突もない。


 爪も牙もない。


 ただ、近づく。


 ガルドは、退かなかった。


 盾の縁が、黒へ触れる。


 音はなかった。


 衝撃もない。


 ただ、這い寄るように触れた。


 次の瞬間。


 盾の縁が、消えた。



 切断ではない。


 摩耗でもない。


 溶けたのでもない。


 欠けた部分が落ちたわけでもない。


 そこにあったはずの鉄が、最初からなかったように消えていた。


 ガルドの瞳が揺れる。


 盾の重さが変わる。


 握っていたはずの均衡が崩れ、欠けた部分に空気が入り込む。


「……っ」


 思わず、一歩退く。


 だが、黒い球体は止まらない。


 もう一度、盾へ触れる。


 厚い鉄の面が、音もなく薄くなった。


 また、消える。


 存在そのものが抜き取られる。



 ガルドの腕が震えた。


「……軽い」


 呟く。


 大盾が軽くなっている。


 守るために重かったものが、軽くなっていく。


 軽くなることが、こんなに怖いとは思わなかった。


 盾が消えている。


 守りの形が、失われていく。



 ミラが叫びそうになり、声を飲み込んだ。


 コムギは水袋を抱えたまま息を止めている。


 フィーは震える手を伸ばしかけて、止まった。


 治す対象がない。


 怪我ではない。

 欠損ですらない。

 削られた場所に、傷が残っていない。


 クラウスは必死に糸を探していた。


 原因。

 結果。

 繋ぎ目。

 ほころび。


 だが、ない。


 そこだけ線がない。


 縫いようがない。



 球体が、盾を半分ほど削ったところで、ガルドが歯を食いしばった。


「……下がれ」


 それは仲間に向けた声ではなかった。


 自分に言い聞かせるような声だった。


 ガルドは一歩、退く。


 半分になった盾を構えたまま。


 盾の欠けた縁が、妙に軽い。


 守りの象徴が、半分存在しない。


 それでも、ガルドは握っている。


 手放さない。


「まだ……負けていません」


 声は低い。


 だが、誰もそれを勝算とは思えなかった。



 トンヌラが前へ出た。


 黒い球体を見つめる。


 理解はできない。


 だが、本能が告げている。


(これは、まともに戦える相手じゃない)


 ガルドの盾が消えた。


 ミラの音も削れた。


 クラウスの糸も見えない。


 なら、自分に何ができるのか。


 分からない。


 それでも、黒い球体は進む。


 背後には、街がある。


 退けば、あれは街へ向かう。


 だから、立っているしかなかった。



 黒い球体が、トンヌラへ向く。


 目はない。


 顔もない。


 だが、向いた。


 ほんのわずかに、進路が変わった。


 ミラが息を呑む。


「団長……」


「団長ではない」


 いつもの言葉が口から出た。


 だが、自分でも驚くほど声が硬かった。


 黒が、近づく。


 腕に触れかける。


 その瞬間。


 トンヌラの右手の輪郭が、一瞬だけ薄くなった。



 皮膚の感覚が消える。


 重さが消える。


 指先が、自分のものではなくなる。


 痛みはない。


 熱もない。


 ただ、存在の密度が落ちる。


(――消える)


 心臓が、強く打った。


 恐怖ではない。


 理解だった。


 これに触れれば、自分は壊れるのではない。


 消える。


 最初からなかったことに近づく。



「触れるな!」


 クラウスが叫んだ。


 普段の彼にはない、鋭い声だった。


 トンヌラは半歩だけ退く。


 腕の輪郭が戻る。


 指先も、手の重さも戻った。


 だが、感覚は残っている。


 消えかけた感触。


 自分が自分でなくなるよりも前に、自分という輪郭が薄くなる感覚。


 それは、身体の奥に冷たく残った。



 黒い球体は、なお進む。


 止まらない。


 怒らない。


 威圧しない。


 ただ、削り取った。


 ガルドの欠けた盾の破片は、砂へ落ちていない。


 落ちるものがなかった。


 半分だけになった盾を、ガルドはまだ握っている。


 大盾だったものは、もう大盾とは呼べない形になっている。


 それでも、彼は構えていた。


「まだ……立てます」


 フィーが苦しそうに眉を寄せる。


「でも、その盾では」


「盾が半分でも」


 ガルドは前を見たまま言う。


「前に立つことはできます」



 クラウスの額に汗が滲んでいた。


(これは――虚無だ)


 解釈ではない。


 因果でもない。


 現象のつなぎ直しでも届かない。


(存在そのものを、削っている)


 黒い球体は、ゆっくりと前進を続ける。


 砂の上に、空白の道を作りながら。


 その道には、足跡もない。


 削れた跡もない。


 ただ、そこにあったものがない。



 トンヌラは、欠けた盾を見る。


 ガルドの手を見る。


 そして、黒い球体を見る。


 強い敵なら、まだよかった。


 怒っている敵なら、まだ分かりやすかった。


 意思があるなら、言葉をぶつける余地もあったかもしれない。


 だが、これは違う。


 何も返してこない。


 何も主張しない。


 ただ、存在を削る。


 世界の余白を消すように。



 ここはレイアノーティア。


 壊すのではなく、消す。


 そして――。


 消えたものは、戻らない。


 それが、虚無。



 第99話 了

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