表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第9章 役に立たない場所の歌

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
100/105

第100話 消える境界

 ここはレイアノーティア。

 境界は、壊れるのではなく――失われることがある。


 盾と空気の境目。

 音と沈黙の境目。

 身体と世界の境目。

 生きているものと、なかったものの境目。


 それらは、当たり前にあるように見える。


 だが。


 虚無は、その当たり前から削っていく。



 黒い球体は、なお進んでいた。


 速くない。


 だが、止まらない。


 砂の上には、空白の道が伸びている。


 足跡ではない。

 傷跡でもない。

 焼け跡でもない。


 そこだけ、存在が抜けていた。


 誰かが歩いた道ではなく、世界そのものが薄く削られた道だった。



 ガルドの盾は、半分になっていた。


 大盾だったものは、もう完全な円でも、壁でもない。


 片側の縁が大きく失われ、奇妙な形で空気を抱えている。


 それでも、ガルドは構えた。


「……まだ立てます」


 声は震えていない。


 だが、腕は重い。


 盾は軽くなったはずなのに、構えるほどに重く感じる。


 失われた部分の重さが、逆に腕に残っている。


 守る対象は、背後にある街道。


 その先に、街がある。


 ここを抜かれれば、終わる。



 ミラがギターを握った。


 指先はまだ震えている。


 だが、弾く。


 強く。


 激しく。


 戦場の空気を揺らすように。


 救世響鳴レゾナンス・オブ・エクソダス


 あの音なら、戦場の意味を変えられる。


 絶望へ向かう拍を、生きて抜ける拍へ変えられる。


 そう信じて、弦を鳴らした。


 音は走る。


 前線へ。

 仲間へ。

 冒険者たちへ。

 そして、黒い球体へ。


 だが。


 音が球体に近づいた瞬間、波形が欠けた。


 まるで、音の一部だけを空間から抜き取られたように。


 音は完全には消えない。


 けれど、届き切らない。


 共鳴する前に、意味が削られる。


「……嘘でしょ」


 ミラの声が掠れた。


 救世響鳴が立ち上がらない。


 共鳴できない。


 そこには、響く相手がいない。


 リズムがない。


 呼吸がない。


 ただ、何もない。



 コムギの額に汗が滲む。


 目で距離を測る。


 球体の速度。

 侵食幅。

 街道までの距離。

 残っている物資。

 動ける人の数。


 補給担当として、数字を追う。


 だが、どの数字を並べても結論は変わらない。


「このままだと……」


 言葉が詰まる。


 言いたくない。


 けれど、言わないと間に合わない。


「街が、危ない」


 その声に、後方の冒険者たちが息を呑んだ。


 誰も怒らない。


 誰も否定しない。


 みんな、分かっていた。



 フィーは両手を握りしめていた。


「治せない……」


 苦しそうな声だった。


 傷なら見える。


 呼吸なら読める。


 命の波なら、乱れを整えられる。


 でも、黒い球体が削るものは違う。


 命が消えたわけではない。

 血が流れたわけでもない。

 肉が裂けたわけでもない。


 存在の厚みが、削られている。


 そこにあったはずのものが、そこにあったという形ごと薄くなっていく。


 整える対象がない。


 戻すべき波が残らない。


 フィーは初めて、自分の両手が何も掴めない感覚を覚えた。



 クラウスが前へ出た。


 目を閉じる。


 因果の糸を見る。


 原因。

 結果。

 分岐。

 綻び。

 縫い代。


 世界は、普通ならどこかに線を持っている。


 壊れたものにも。

 歪んだものにも。

 失敗したものにも。

 まだ、縫える場所がある。


 だが、黒い球体の周囲には何もない。


 いや。


 何もない、だけではない。


 すべてが一点に収束しきっている。


 可能性がない。


 誤差がない。


 揺らぎがない。


 だから、縫い代がない。


(因果がないのではない)


 クラウスの喉が乾く。


(因果が、収束しきっている)


 ゼロ。


 揺らぎのない、完全なゼロ。


「……完全消去型の、魔王だ」


 小さく呟いた。


 まだ名前は分からない。


 だが、本質だけは分かる。


 これは、壊すものではない。


 存在を、消去するものだ。



 ガルドが踏み込んだ。


 半分の盾で、黒い球体を押そうとする。


「やめろ!」


 トンヌラが叫ぶ。


 だが、ガルドは退かなかった。


「ここで退けば、街へ行きます」


 短く答える。


 盾の残った縁が黒へ触れる。


 その瞬間。


 さらに消えた。


 盾の縁が薄くなる。

 鉄の厚みがなくなる。

 鎧の一部が、かすかに透ける。


 ガルドの腕の輪郭が、一瞬だけ淡くなった。


「下がれ!」


 クラウスが叫ぶ。


 ガルドは歯を食いしばり、飛び退く。


 腕の輪郭は戻った。


 だが、ガルドは自分の手を見た。


 感覚が薄い。


 握っているはずの力が、少し遠い。


「……まだ、動きます」


「無理をしないでください!」


 フィーが声を上げる。


 ガルドは頷かない。


 ただ、半分以下になった盾を握り直した。



 トンヌラが前へ出る。


 黒い球体を見つめる。


(強い、って感じじゃない)


 強者の圧ではない。


 殺意でもない。


(ただ……何も存在しない)


 この球体は、戦う存在ではない。


 残さない存在だ。


 ほんのわずかに速度を上げる。


 ゆっくり。


 それでも、確実に。


 距離が詰まる。



 背後で、冒険者の一人が転んだ。


 疲労で足がもつれたのか。


 恐怖で膝が抜けたのか。


 誰かが助けようと手を伸ばす。


 その前に、黒い球体の外縁が、彼の肩に触れた。


 肩が――消えた。


 血は出ない。


 肉も裂けない。


 骨も見えない。


 ただ、肩があった場所だけが、不自然に欠けている。


 悲鳴が上がった。


 だが、その悲鳴の一部が途中で削れた。


 音が欠ける。


 声の形が、最後まで届かない。


 フィーが駆け寄る。


「動かないで!」


 手をかざす。


 だが、治せない。


 傷がない。


 出血もない。


 ただ、欠けている。


「こんなの……」


 フィーの声が震えた。


「どうしたら……」



「こ、これ以上は無理だ……!」


 誰かが叫んだ。


 その声をきっかけに、後退が始まる。


 責められない。


 あれに近づくこと自体が、存在を賭ける行為だった。


 けれど、逃げれば球体は街へ向かう。


 逃げなければ、消える。


 どちらも、正しくない。


 どちらも、助からない。



 クラウスの呼吸が乱れる。


(どうする)


(どこを縫う)


 削除は結果ではない。


 前提だ。


 縫う以前に、消えている。


 原因と結果の間に手を入れるのではない。


 その前に、存在そのものがゼロへ落ちる。


 クラウスの指が震えた。


 糸が見えない。


 縫えない。


 自分の力が、届かない。



 球体が、トンヌラの足元に影を落とした。


 影が、薄くなる。


 地面との境界が曖昧になる。


 自分の足が、砂の上に立っているのか。


 それとも、砂と一緒に薄くなっているのか。


 分からなくなる。


(これが触れたら)


 トンヌラの喉が鳴る。


(俺は消える)


 恐怖はある。


 あるに決まっている。


 だが、動けない。


 退けば、街が消える。


 ミラが叫ぶ。


「団長!」


 その瞬間。


 トンヌラの足元の砂が消えた。


 身体がわずかに沈む。


 足の輪郭が薄くなる。


 自分の体重が、少しだけ世界から抜け落ちるような感覚。



 クラウスがトンヌラの腕を掴んだ。


「下がってください!」


 力任せに引く。


 トンヌラが後退する。


 足の輪郭が戻る。


 重さも戻る。


 だが、ほんの一瞬、自分の足がなかった感覚が残った。


 足元がある。


 立っている。


 それなのに、体の奥が信じていない。



 距離は確実に縮まっている。


 ここで、全員が理解した。


 勝ち筋がない。


 守りは通らない。


 攻撃も通らない。


 音も届かない。


 治癒もできない。


 構造も縫えない。


 黒い球体は、無言でなお進んでいく。


 無感情に、ただ削除する。



 ガルドは半分以下になった盾を握る。


 ミラは鳴らせない弦を見つめる。


 コムギは何も渡せない相手を見ている。


 フィーは治せない欠損の前で立ち尽くす。


 クラウスは、糸のない空白を睨む。


 トンヌラは、戻ったはずの足を見下ろす。


 ぽめは、少し離れた場所で丸くなっていた。


 だが、寝てはいなかった。


 目を閉じたまま、耳だけが黒い球体の方を向いている。



 ここはレイアノーティア。


 均衡は、揺らがない。


 だが――。


 虚無は、均衡の外側にあるだけ。



 第100話 了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ