第101話 観測者の声
ここはレイアノーティア。
均衡は、見られている。
戦う者は、前を見る。
守る者は、背後を見る。
逃げる者は、足元を見る。
だが。
世界を整える者は、すべてを上から見る。
そこに、痛みが残っているかどうかまでは、見ない。
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砂漠の端まで退いた。
誰も、すぐには振り返らなかった。
振り返れば、黒い球体がまだこちらへ進んでいるのが見えるからだ。
速くはない。
だが、止まらない。
遠くで、砂が消えていく。
風が吹けば砂は流れる。
足で踏めば跡が残る。
それが当たり前だった。
だが、黒い球体が通った場所には、流れる砂すら残らない。
ただ、空白だけが伸びている。
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冒険者の一人が、膝をついた。
「……無理だ」
掠れた声だった。
「俺たちじゃ止められない」
誰も否定しない。
否定できる材料がなかった。
ガルドの盾は欠けた。
ミラの音は削られた。
フィーは治せなかった。
コムギは何も渡せなかった。
クラウスは糸を見つけられなかった。
トンヌラは、足が消えかけた。
それが現実だった。
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別の男が、砂を握りしめながら言った。
「勇者がいてくれたら……」
言い切れなかった。
勇者。
その名前に、かつてなら縋れた。
だが今、そこに勇者はいない。
そして。
いたとしても。
クラウスが静かに首を振る。
「勇者でも、難しいでしょう」
声は低い。
視線は、遠くの黒い球体へ向いている。
「あれには因果が通らない」
唇が乾く。
「世界の構造が、存在しない」
ガルドが眉を寄せる。
「構造がない?」
「正確には、こちらから繋げる線がありません」
クラウスは目を細めた。
「あれは壊れているのではない。歪んでいるのでもない。削除されるべき結果へ、完全に収束している」
黒い球体が、遠くでまた砂を消す。
「……世界調停機構は、本気で世界を削ろうとしている」
その言葉に、空気が冷えた。
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その時だった。
砂が踏まれる音がした。
静かな足音。
誰も気づかないうちに、そこに立っていた。
白い外套。
長い影。
揺れない瞳。
ノインだった。
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「久しぶりですね、クラウス」
声は変わらない。
感情はない。
ガルドが半分になった盾を構え、前に出る。
「あなたは、敵ですか」
ノインはガルドを見た。
それから、黒い球体へ視線を向ける。
「違います」
淡々と答える。
「私は、世界調停機構です」
「それは敵ではないという意味ですか」
「意味の取り方は、あなた方次第です」
ガルドの眉がわずかに動く。
ノインは表情を変えない。
「あれは、世界が生み出した調整です」
氷のように冷たい声。
「五戒の最後の魔王」
黒い球体は、遠くでなお進んでいる。
「虚無のディボイド」
その名が、砂漠に落ちた。
誰も、すぐには言葉を発せなかった。
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ノインは続ける。
「均衡を崩す誤差を削る存在」
視線が、トンヌラたちへ向く。
「あなた方のような」
トンヌラは黙っている。
腕を組んだまま、ノインを見る。
(敵じゃないとか言って、敵意ありありじゃないか)
そう思う。
だが、言葉にはしない。
今の自分が何かを言えば、余計に事態が悪くなる気がした。
ディボイドは暴れていない。
怒ってもいない。
ただ、近づくものを削除していく。
ノインの声も、それに似ていた。
静かで、冷たく、止まらない。
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ノインはクラウスを見る。
「まさか、あなたがこちら側に立つとは思いませんでした」
皮肉ではなかった。
驚きに近い。
だが、それすら薄い。
「あなたは理解しているはずです」
ノインは言う。
「調整は必要だと」
クラウスは視線を逸らさない。
「理解はしています」
「ならば」
ノインの声は静かだった。
「なぜ、無秩序の側に立つのですか」
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クラウスの脳裏に、白い空間が浮かぶ。
ネームドの里。
老人の声。
『観測に至れ』
あの時、確かに見えた。
構造の全体像。
可能性の分岐。
無数の線。
無数の未来。
観測者になれば、痛みは消える。
選ばなくて済む。
ただ見るだけでいい。
誰が落ちるのか。
誰が救われるのか。
どの分岐が最適なのか。
すべてが理解できる。
理解さえできれば、苦しまずに済む。
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ノインが言う。
「あなたには素養があります」
「観測に至り、理解できる」
「ディボイドは正しい」
黒い球体の向こうで、また砂が消える。
「削除は慈悲です」
砂漠の風が止まったように感じた。
その先に、街がある。
子どもが走る広場。
灯りのついた窓。
まだ復旧途中の家屋。
水を運ぶ者。
パンを分ける者。
歌を聴いた者。
立ち直ろうとしている者たち。
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クラウスの脳裏に、別の風景が浮かぶ。
路地裏。
暗い石壁。
痩せた子どもの影。
自分の声。
『必要な犠牲です』
あの時の声が、今も耳の奥に残っている。
理屈は通っていた。
構造は正しかった。
誰かを切り捨てることで、より多くを保てる。
そう理解していた。
だから、選ばなかった。
ただ見た。
そして、見殺しにした。
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「……慈悲?」
クラウスの口から、小さく漏れた。
ノインは反応しない。
ただ、答えを待っている。
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トンヌラは黙っていた。
拳を握る。
何も言えない。
構造も知らない。
調整の理屈も分からない。
ディボイドの仕組みも理解できない。
ただ、街を守りたいと思っただけだ。
それが正しいのかどうかすら、分からない。
だが、黒い球体の先に街がある。
それだけは分かる。
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クラウスは黒い球体を見る。
遠くで、砂が消える。
もし止めなければ。
街が消える。
だが止めれば。
世界の均衡が崩れる。
ノインの言うことは、間違っていない。
ディボイドは、世界にとっての処理だ。
誤差を削り、揺らぎを消し、均衡を戻す。
正しい。
理解できる。
理解できてしまう。
⸻
「私は」
クラウスの声は、かすれていた。
「理解している」
ノインの目が、わずかに細くなる。
「ならば戻りなさい」
白い外套が風に揺れる。
「あなたの場所は、こちらです」
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沈黙が落ちる。
砂の音だけが残る。
遠くで、また何かが消えた。
誰かが小さく息を呑む。
コムギは水袋を握りしめている。
フィーは祈るように手を重ねている。
ミラは弦に触れたまま動けない。
ガルドは半分の盾で、それでも前に立っている。
ぽめは、目を閉じたまま丸い。
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クラウスは目を閉じた。
理解だけでは足りない。
観測するだけでは、守れない。
選ばなくてはならない。
誰かを。
何かを。
その選択が、正しいとは限らない。
後悔しないとも限らない。
それでも。
見ているだけでは、また同じ場所へ戻る。
あの路地裏へ。
あの子どもの影へ。
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クラウスは目を開く。
ノインを見る。
「私は」
小さく息を吸う。
「彼の隣で、選ぶ側に立ちたい」
トンヌラが、わずかに顔を上げる。
ノインは感情を動かさない。
「後悔しますよ」
「均衡を壊す側は、必ず代償を払う」
クラウスは頷いた。
「知っています」
声は震えていない。
「だからこそ、選びます」
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ノインはしばらくクラウスを見ていた。
やがて、一歩下がる。
白い外套の裾が、砂の上を滑る。
「では、見てみることにします」
静かな声。
「あなた方が、どこまで壊すのか」
空間が揺らいだ。
次の瞬間、ノインの姿は消えていた。
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砂漠には再び、静寂。
遠くで、ディボイドはなお進む。
砂が消えていく。
街までの距離は、確実に縮まっている。
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トンヌラが小さく言った。
「……どうする」
初めてだった。
トンヌラが、クラウスへ問いを預けた。
自分では分からない。
構造も見えない。
答えも出せない。
だから、聞いた。
クラウスは黒い球体を見る。
理解はある。
だが、それだけでは足りない。
選択が必要だ。
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ここはレイアノーティア。
調整は正しい。
だが。
正しさは、誰かを守るとは限らない。
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第101話 了




