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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第9章 役に立たない場所の歌

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第101話 観測者の声

 ここはレイアノーティア。

 均衡は、見られている。


 戦う者は、前を見る。

 守る者は、背後を見る。

 逃げる者は、足元を見る。


 だが。


 世界を整える者は、すべてを上から見る。


 そこに、痛みが残っているかどうかまでは、見ない。



 砂漠の端まで退いた。


 誰も、すぐには振り返らなかった。


 振り返れば、黒い球体がまだこちらへ進んでいるのが見えるからだ。


 速くはない。


 だが、止まらない。


 遠くで、砂が消えていく。


 風が吹けば砂は流れる。


 足で踏めば跡が残る。


 それが当たり前だった。


 だが、黒い球体が通った場所には、流れる砂すら残らない。


 ただ、空白だけが伸びている。



 冒険者の一人が、膝をついた。


「……無理だ」


 掠れた声だった。


「俺たちじゃ止められない」


 誰も否定しない。


 否定できる材料がなかった。


 ガルドの盾は欠けた。


 ミラの音は削られた。


 フィーは治せなかった。


 コムギは何も渡せなかった。


 クラウスは糸を見つけられなかった。


 トンヌラは、足が消えかけた。


 それが現実だった。



 別の男が、砂を握りしめながら言った。


「勇者がいてくれたら……」


 言い切れなかった。


 勇者。


 その名前に、かつてなら縋れた。


 だが今、そこに勇者はいない。


 そして。


 いたとしても。


 クラウスが静かに首を振る。


「勇者でも、難しいでしょう」


 声は低い。


 視線は、遠くの黒い球体へ向いている。


「あれには因果が通らない」


 唇が乾く。


「世界の構造が、存在しない」


 ガルドが眉を寄せる。


「構造がない?」


「正確には、こちらから繋げる線がありません」


 クラウスは目を細めた。


「あれは壊れているのではない。歪んでいるのでもない。削除されるべき結果へ、完全に収束している」


 黒い球体が、遠くでまた砂を消す。


「……世界調停機構は、本気で世界を削ろうとしている」


 その言葉に、空気が冷えた。



 その時だった。


 砂が踏まれる音がした。


 静かな足音。


 誰も気づかないうちに、そこに立っていた。


 白い外套。


 長い影。


 揺れない瞳。


 ノインだった。



「久しぶりですね、クラウス」


 声は変わらない。


 感情はない。


 ガルドが半分になった盾を構え、前に出る。


「あなたは、敵ですか」


 ノインはガルドを見た。


 それから、黒い球体へ視線を向ける。


「違います」


 淡々と答える。


「私は、世界調停機構です」


「それは敵ではないという意味ですか」


「意味の取り方は、あなた方次第です」


 ガルドの眉がわずかに動く。


 ノインは表情を変えない。


「あれは、世界が生み出した調整です」


 氷のように冷たい声。


「五戒の最後の魔王」


 黒い球体は、遠くでなお進んでいる。


「虚無のディボイド」


 その名が、砂漠に落ちた。


 誰も、すぐには言葉を発せなかった。



 ノインは続ける。


「均衡を崩す誤差を削る存在」


 視線が、トンヌラたちへ向く。


「あなた方のような」


 トンヌラは黙っている。


 腕を組んだまま、ノインを見る。


(敵じゃないとか言って、敵意ありありじゃないか)


 そう思う。


 だが、言葉にはしない。


 今の自分が何かを言えば、余計に事態が悪くなる気がした。


 ディボイドは暴れていない。


 怒ってもいない。


 ただ、近づくものを削除していく。


 ノインの声も、それに似ていた。


 静かで、冷たく、止まらない。



 ノインはクラウスを見る。


「まさか、あなたがこちら側に立つとは思いませんでした」


 皮肉ではなかった。


 驚きに近い。


 だが、それすら薄い。


「あなたは理解しているはずです」


 ノインは言う。


「調整は必要だと」


 クラウスは視線を逸らさない。


「理解はしています」


「ならば」


 ノインの声は静かだった。


「なぜ、無秩序の側に立つのですか」



 クラウスの脳裏に、白い空間が浮かぶ。


 ネームドの里。


 老人の声。


『観測に至れ』


 あの時、確かに見えた。


 構造の全体像。


 可能性の分岐。


 無数の線。


 無数の未来。


 観測者になれば、痛みは消える。


 選ばなくて済む。


 ただ見るだけでいい。


 誰が落ちるのか。


 誰が救われるのか。


 どの分岐が最適なのか。


 すべてが理解できる。


 理解さえできれば、苦しまずに済む。



 ノインが言う。


「あなたには素養があります」


「観測に至り、理解できる」


「ディボイドは正しい」


 黒い球体の向こうで、また砂が消える。


「削除は慈悲です」


 砂漠の風が止まったように感じた。


 その先に、街がある。


 子どもが走る広場。


 灯りのついた窓。


 まだ復旧途中の家屋。


 水を運ぶ者。


 パンを分ける者。


 歌を聴いた者。


 立ち直ろうとしている者たち。



 クラウスの脳裏に、別の風景が浮かぶ。


 路地裏。


 暗い石壁。


 痩せた子どもの影。


 自分の声。


『必要な犠牲です』


 あの時の声が、今も耳の奥に残っている。


 理屈は通っていた。


 構造は正しかった。


 誰かを切り捨てることで、より多くを保てる。


 そう理解していた。


 だから、選ばなかった。


 ただ見た。


 そして、見殺しにした。



「……慈悲?」


 クラウスの口から、小さく漏れた。


 ノインは反応しない。


 ただ、答えを待っている。



 トンヌラは黙っていた。


 拳を握る。


 何も言えない。


 構造も知らない。


 調整の理屈も分からない。


 ディボイドの仕組みも理解できない。


 ただ、街を守りたいと思っただけだ。


 それが正しいのかどうかすら、分からない。


 だが、黒い球体の先に街がある。


 それだけは分かる。



 クラウスは黒い球体を見る。


 遠くで、砂が消える。


 もし止めなければ。


 街が消える。


 だが止めれば。


 世界の均衡が崩れる。


 ノインの言うことは、間違っていない。


 ディボイドは、世界にとっての処理だ。


 誤差を削り、揺らぎを消し、均衡を戻す。


 正しい。


 理解できる。


 理解できてしまう。



「私は」


 クラウスの声は、かすれていた。


「理解している」


 ノインの目が、わずかに細くなる。


「ならば戻りなさい」


 白い外套が風に揺れる。


「あなたの場所は、こちらです」



 沈黙が落ちる。


 砂の音だけが残る。


 遠くで、また何かが消えた。


 誰かが小さく息を呑む。


 コムギは水袋を握りしめている。


 フィーは祈るように手を重ねている。


 ミラは弦に触れたまま動けない。


 ガルドは半分の盾で、それでも前に立っている。


 ぽめは、目を閉じたまま丸い。



 クラウスは目を閉じた。


 理解だけでは足りない。


 観測するだけでは、守れない。


 選ばなくてはならない。


 誰かを。


 何かを。


 その選択が、正しいとは限らない。


 後悔しないとも限らない。


 それでも。


 見ているだけでは、また同じ場所へ戻る。


 あの路地裏へ。


 あの子どもの影へ。



 クラウスは目を開く。


 ノインを見る。


「私は」


 小さく息を吸う。


「彼の隣で、選ぶ側に立ちたい」


 トンヌラが、わずかに顔を上げる。


 ノインは感情を動かさない。


「後悔しますよ」


「均衡を壊す側は、必ず代償を払う」


 クラウスは頷いた。


「知っています」


 声は震えていない。


「だからこそ、選びます」



 ノインはしばらくクラウスを見ていた。


 やがて、一歩下がる。


 白い外套の裾が、砂の上を滑る。


「では、見てみることにします」


 静かな声。


「あなた方が、どこまで壊すのか」


 空間が揺らいだ。


 次の瞬間、ノインの姿は消えていた。



 砂漠には再び、静寂。


 遠くで、ディボイドはなお進む。


 砂が消えていく。


 街までの距離は、確実に縮まっている。



 トンヌラが小さく言った。


「……どうする」


 初めてだった。


 トンヌラが、クラウスへ問いを預けた。


 自分では分からない。


 構造も見えない。


 答えも出せない。


 だから、聞いた。


 クラウスは黒い球体を見る。


 理解はある。


 だが、それだけでは足りない。


 選択が必要だ。



 ここはレイアノーティア。


 調整は正しい。


 だが。


 正しさは、誰かを守るとは限らない。



 第101話 了

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