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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第10章 揺らぎは消せない

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102/110

第102話 観測と選択のあいだ

 ここはレイアノーティア。

 理解は、時に救いにならない。


 分かること。

 見えること。

 説明できること。


 それらは力になる。


 だが。


 何かを守る時、理解だけでは届かない場所がある。



 砂漠の端。


 遠くで、黒い球体がなお進んでいる。


 ディボイド。


 虚無の魔王。


 削られた砂の道が、灰色の地平へ向かって伸びていた。


 静かだった。


 あまりにも静かだった。


 あれが通った場所には、音も、傷も、残骸もない。


 ただ、空白だけが残る。



 クラウスは目を閉じた。


 見ようとする。


 因果を。

 構造を。

 削除の理屈を。


 目を閉じた方が、よく見えるものがある。


 世界の流れ。

 選択の分岐。

 結果へ向かう線。

 わずかな綻び。


 それらを探す。


 だが。


 ディボイドの周囲には、糸がない。


 いや。


 違う。


 糸がないのではない。


 すべてが一点に収束しきっている。


 可能性がないから、分岐がない。

 誤差がないから、揺らぎもない。

 揺らぎがないから、縫い代もない。


 だから、縫えない。



「……完成している」


 クラウスは小さく呟いた。


 削除は結果ではない。


 何かが起きたあとに消えるのではない。


 最初から、ゼロへ収束するように作られている。


 完全な整流。


 均衡を守るための、最後の処理。


 そこに怒りはない。


 憎しみもない。


 ただ、余計なものを消す。


 世界にとっては、きっと正しい。



 ネームドの里。


 白い空間。


 老人の声が、脳裏に戻る。


『観測に至れ』


 あの時、クラウスは見た。


 無数の分岐。


 無数の未来。


 人が選ぶたび、世界は揺れる。

 揺れるたび、どこかが裂ける。

 裂けた場所から、痛みが生まれる。


 観測に至れば、それを上から見られる。


 干渉しなければ、すべてが理解できる。


 痛みも、責任も、後悔も、遠くなる。


 ただ、見るだけでいい。


 見るだけなら、間違えない。



 今なら分かる。


 観測者になれば、ディボイドを理解できる。


 なぜ生まれたか。

 なぜ削るのか。

 なぜ止まらないのか。


 すべて。


 正しい理由も。

 必要とされる理屈も。

 均衡のためにどれほど有効なのかも。


 きっと、分かる。


 だが。


 理解した瞬間、止める理由も失う。



 砂の向こうで、また何かが消えた。


 小さな岩だった。


 それは崩れなかった。


 砕けなかった。


 ただ、景色から抜け落ちた。


 クラウスの胸が締まる。


(あれも、必要な調整か)


(街も、誤差か)


(あそこにいる人たちも、均衡のために削られるべき線なのか)


 答えは、構造の中にある。


 そして、その答えはおそらく正しい。


 正しいからこそ、苦しい。



 ノインの声が思い出される。


『削除は慈悲です』


 慈悲。


 その言葉は、あまりにも静かだった。


 無秩序を防ぐための処理。

 世界を完璧に保つための消去。

 より大きな破綻を避けるための、小さな犠牲。


 理屈は通っている。


 理解できる。


 理解できてしまう。


 だから、嫌だった。



 クラウスの記憶に、路地裏の子どもの影が浮かぶ。


 暗い石壁。

 細い腕。

 薄い呼吸。

 助けを求める目。


 そして、自分の声。


『必要な犠牲です』


 あの時も、理屈は正しかった。


 選ばなかった。


 ただ見た。


 そうすれば、より大きな流れは守られると思った。


 だが、今も消えない。


 あの目だけは、消えない。



「私は……」


 クラウスは拳を握る。


 観測者になれば、苦しまなくて済む。


 選ばなくて済む。

 間違えなくて済む。

 誰かを切り捨てた痛みに、名前をつけなくて済む。


 すべては構造だと言える。


 すべては均衡のためだと言える。


 必要だったと、言える。


 だが。


 それでは、また同じだ。



 トンヌラは、少し離れた場所に立っている。


 理解していない。


 構造も知らない。


 ディボイドの本質も分かっていない。


 それでも、退かない。


 ただ、黒い球体と街の間に立とうとしている。


 無謀だ。


 非合理だ。


 観測者なら、真っ先に排除する種類の選択だ。



「……あなたは、何も分かっていない」


 クラウスは小さく言った。


 トンヌラは眉をひそめる。


「悪かったな」


 いつもの返しだった。


 こんな状況でも、変わらない。


 クラウスは、少しだけ息を吐く。


「ですが」


 声が掠れる。


「あなたは、退かない」


 トンヌラは答えない。


 代わりに、黒い球体を見る。


 それだけだった。



 観測者になれば、ディボイドは正しいと分かる。


 削除は合理だと理解できる。


 街が消えても、それは均衡の回復だと納得できる。


 ノインの側に戻れば、痛みは整理される。


 役割も与えられる。


 理解する場所に戻れる。


 だが。


(それでいいのか)


 砂丘の端が、また消えた。


 空白が広がる。


 街までの距離が、縮まる。



 クラウスの中で、何かが裂けた。


 理解だけでは足りない。


 観測するだけでは、止められない。


 正しさを知っているだけでは、誰も守れない。


「理解だけでは」


 声が震える。


「足りない」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥にあった何かが崩れた。


 だが、崩れた場所に、別のものが生まれる。


 選ぶしかない。


 正しいかどうかではなく。


 後悔しないかどうかでもなく。


 今、何を守りたいのか。


 そこから始めるしかない。



(自分で、揺らぎを作るしかない)


 クラウスの呼吸が変わる。


 他人の可能性を縫うことはできない。


 あの男のようにはできない。


 トンヌラは特別だ。


 本人は自覚していない。


 だが、迷いなく言い張れるから、世界に通る。


 クラウスは違う。


 見えてしまう。


 迷ってしまう。


 理解してしまう。


 だから、怖い。



「私は、あの人とは違う」


 小さく呟く。


 指先が震える。


「だが」


 自分の内側なら。


 自分が選ぶ一本なら。


 観測ではなく、選択として通すことなら。


 できるかもしれない。


 いや。


 できるかどうかではない。


 やるしかない。



 危険だ。


 少しでも迷えば、破綻する。


 選択が揺らげば、縫い目は裂ける。


 クラウスは、自分が安全な場所にいたがる人間だと知っている。


 いつも、少し引いた場所から見ていた。


 理解し、整理し、縫える場所だけ縫っていた。


 それでも。


 もう、見ているだけではいられない。



(本気で思え)


 手に力が入る。


(本気で信じろ)


 歯を食いしばる。


(お前は、観測者ではない)


 砂漠の風が止まったように感じた。


 黒い球体は、確実に迫っている。


 ディボイド。


 完全なゼロ。


 揺らぎのない収束。


 そこへ、一本だけでも。


 選択の糸を通す。



 クラウスは目を開いた。


 見るだけではなく、選ぶ。


 理解しなくていい。


 いや、理解した上で、なお決断する。


「私は」


 息を吸う。


 砂の匂いが肺に入る。


「観るだけでは終われない」


 はっきりと、そう呟いた。


 その声は大きくない。


 だが、クラウス自身には聞こえた。


 確かに。


 初めて、自分の側から世界へ線を引いた音だった。



 黒い球体は、まだ止まらない。


 揺らぎも、まだ見えない。


 だが、クラウスの視界に、ほんの細い線が生まれた。


 世界の側にあった線ではない。


 観測して見つけた糸でもない。


 自分で選ぶことで、今まさに生まれかけている線。


 細く。


 頼りなく。


 すぐに消えそうな線。


 クラウスは、その線を見つめた。


 まだ、縫えない。


 だが。


 縫えるかもしれないと思えた。



 ここはレイアノーティア。


 理解は、均衡を守る。


 だが――。


 選択は、均衡を揺らす。



 第102話 了

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