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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第10章 揺らぎは消せない

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103/112

第103話 均衡の提案

 ここはレイアノーティア。

 正しさは、時に救いの顔をする。


 被害を抑える方法がある。

 犠牲を小さくする道がある。

 誰かが退けば、多くのものが残る。


 その計算は、間違っていない。


 だが。


 間違っていないことと、受け入れられることは、同じではない。



 黒い球体――ディボイドは、なお進んでいた。


 砂漠の端にあった岩棚が、音もなく消える。


 崩れない。

 砕けない。

 砂煙も上がらない。


 ただ、なかったことになる。


 そこに岩棚があったという記憶だけが、取り残されたように空白が広がる。


 距離はもう、数百歩もない。


 速くはない。


 だが、止まらない。



 冒険者の一人が、後ずさった。


「……もう街まで時間がない」


 その声は、責めるものではなかった。


 ただ、現実を言っただけだった。


 別の男が吐き捨てるように言う。


「撤退だ」


 誰もすぐには反応しない。


 男は続けようとした。


「街を捨てるしか――」


 言葉の途中で、口を噤む。


 背後にはメルグラフがある。


 商人がいる。

 子どもがいる。

 負傷者がいる。

 ようやく立ち上がり始めた者たちがいる。


 捨てる。


 その言葉は、あまりに軽かった。



 ガルドは、半分以下になった盾を握り直した。


 もう大盾とは呼べない。


 守るための面は削られ、残った部分も歪んでいる。


 それでも、ガルドは前へ出ようとする。


「まだ、立てます」


 声は低い。


 だが、誰もそれを勝算とは呼ばなかった。


 立てることと、止められることは違う。



 ミラはギターの弦に指を置く。


 しかし鳴らさない。


 鳴らしても、削られる。


 救世響鳴レゾナンス・オブ・エクソダスも、ディボイドには届き切らない。


 フィーは両手を握りしめている。


 治せない。


 整えられない。


 欠けたものに、命の波は残らない。


 コムギは非常食を握っている。


 誰かに渡すためのものだ。


 でも、今は何を渡せばいいのか分からない。


 クラウスは、ディボイドを見ている。


 細い線は見えた。


 観測ではなく、自分が選ぶことで生まれかけた線。


 だが、それはあまりにも細い。


 ディボイドの完全なゼロへ届く前に、消えかけている。


 ぽめは、寝ている。


 丸い。


 この状況で、いつも通りに。



「諦めるしかない」


 誰かが小さく言った。


 その言葉が、空気を凍らせる。


 誰も反論しない。


 反論するための材料が、何もなかった。



 その時。


 空中に、白い線が走った。


 砂漠の風が止まる。


 光の線は折れ曲がり、薄い板のような形を作った。


 通信結界。


 そこに、ノインの姿が映る。


 白い外套。


 感情の薄い瞳。


 先ほどのようにそこへ立っているわけではない。


 だが、その声は、すぐそばで聞こえるほど冷たかった。



「提案します」


 ノインの声が砂漠に落ちる。


 黒い球体は進み続けている。


 ノインは、それを止めようとはしない。


「あなた方がこれ以上、干渉しなければ」


 視線が、トンヌラたちへ向く。


「街は残ります」


 誰も動かない。


 ノインは続ける。


「虚無のディボイドは、世界の誤差を削る調整装置です」


「誤差が対象範囲から消えれば、削除は収束します」


 コムギが息を呑む。


 フィーの手が震える。


 ミラの指が弦を強く押さえる。


 ガルドの盾が、かすかに軋んだ。



 ノインは淡々と告げる。


「あなた方が退けば、街は削除対象から外れます」


「あなた方が抗えば、ディボイドは対象範囲を拡大します」


 白い結界の向こうで、数式が流れる。


「その場合、メルグラフまでの被害拡大率は上昇」


「人的損耗も、現時点の予測を大きく超えます」


 ノインは、ほんの少しだけ首を傾けた。


「合理的な選択は明白です」



 誰かが膝をついた。


 それは恐怖ではなかった。


 力が抜けた音だった。


「……俺たちが、いなくなればいいのか」


 冒険者の一人が、掠れた声で言う。


 ノインは答えない。


 答える必要もなかった。


 その沈黙が、答えだった。



 クラウスの喉が鳴る。


(街は残る)


(誰も消えない)


(犠牲も最小で済む)


 自分たちが退けばいい。


 ネームレス一行が世界の誤差なら、その誤差が消えればいい。


 戦わない。


 抗わない。


 何もしない。


 それだけで、街は残る。


 合理だ。


 最適解だ。


 正しい。



 トンヌラは、何も言わなかった。


 理解していない。


 構造も知らない。


 ノインの理屈がどこまで正しいのかも分かっていない。


 ただ、黒い球体を見つめている。


 退かない。


 それだけだった。



 ノインの声が続く。


「選択を誤らないでください」


 その言葉は、クラウスへ向けられていた。


「クラウス。あなたなら、分かるはずです」


 クラウスの指先が震える。


「ここで抗うことは、街を危険に晒す行為です」


「あなた方が何もしなければ、街は残る」


「あなた方が選べば、均衡はさらに乱れる」


 ノインの瞳は揺れない。


「あなたが選ぼうとしているものは、救済ではありません」


 白い結界が、わずかに明滅する。


「被害の拡大です」



 クラウスの視界が揺れる。


 街が残る未来。


 自分たちが退く未来。


 トンヌラが、ただの何者でもない男へ戻る未来。


 ガルドが盾を下ろす未来。


 コムギが補給を配らずに済む未来。


 フィーが命の終端を見なくて済む未来。


 ミラが戦場で歌わずに済む未来。


 無数の分岐が見える。


 どれも、痛みが少ないように見えた。


(観測に至れば、間違えない)


(誰も責めない)


 クラウスは、唇を噛む。


 そして、思ってしまう。


(仲間も失わない選択か……)


 その瞬間。


 頭の奥で、声が反響した。


『必要な犠牲です』


 かつて自分が言った言葉。


 路地裏。


 見捨てた子ども。


 白い空間で何度も夢に出てきた光景。


 あの時も、そうだった。


 間違えないために、見た。


 理解した。


 正しい方を選んだつもりだった。


 だが、あの目は今も消えない。



 ディボイドは、もうそこまで来ている。


 砂が消える。


 空白が伸びる。


 街へ向かって。


 何も言わず。


 何も壊さず。


 ただ、なかったことにしながら。



 クラウスは目を閉じた。


 選ばなければ、楽だ。


 理解すれば、痛まない。


 観測者になれば、全てを遠くに置ける。


 だが。


 理解は、止める理由にはならない。


 理解しても、守れない。


 観測しても、手は届かない。


 クラウスは目を開く。


 ノインを見る。


 そして、黒を見る。


「……あなたの提案は」


 声がかすれる。


「正しい」


 ノインは何も言わない。


「街を残すなら、私たちは退くべきです」


 クラウスは、自分の言葉が胸に刺さるのを感じた。


「それが、一番被害の少ない選択です」


 沈黙が落ちる。


 砂の音だけが聞こえる。


 コムギが、震える手で非常食を握りしめている。


 フィーが、目を伏せる。


 ミラが、唇を噛む。


 ガルドは、盾を握ったまま動かない。


 トンヌラは、黒を見ている。



 ノインが言う。


「では、退きなさい」


 冷たい声。


「均衡は、それを受け入れます」


 クラウスは答えない。


 喉の奥が乾く。


 正しい。


 正しいのに。


 足が動かない。



 黒い球体が、また少し進む。


 砂丘の縁が消える。


 街まで、あとわずか。


 誰かが息を殺す。


 誰かが祈る。


 誰かが、諦めかける。



 その時。


 トンヌラが、小さく言った。


「どうする」


 その問いは、今度はクラウスへ向けられていた。


 命令ではない。


 丸投げでもない。


 ただ、問いを預けた。


 自分では分からない。


 構造も見えない。


 答えも持っていない。


 だから、クラウスへ聞いた。



 クラウスは答えない。


 拳を握る。


 観測と選択のあいだで、立ち尽くす。


 見える。


 分かる。


 正しさも、被害も、最適解も。


 だが、まだ届かない。


 それでも、逃げることだけはもうできなかった。



 ノインの通信結界が、薄く揺れる。


「時間はありません」


 淡々とした声。


「均衡は待ちません」


 クラウスは、黒い球体を見る。


 ディボイドは止まらない。


 だが、クラウスの視界には、ほんの細い線がまだ残っている。


 観測して見つけた線ではない。


 自分が選ぶことで生まれかけた線。


 細く、頼りなく、すぐに消えそうな線。


 クラウスは、その線を見つめた。


 まだ、縫えない。


 だが。


 縫わなければならない。



 ここはレイアノーティア。


 均衡は、正しい。


 だが――。


 正しさは、必ずしも守らない。



 第103話 了

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