第103話 均衡の提案
ここはレイアノーティア。
正しさは、時に救いの顔をする。
被害を抑える方法がある。
犠牲を小さくする道がある。
誰かが退けば、多くのものが残る。
その計算は、間違っていない。
だが。
間違っていないことと、受け入れられることは、同じではない。
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黒い球体――ディボイドは、なお進んでいた。
砂漠の端にあった岩棚が、音もなく消える。
崩れない。
砕けない。
砂煙も上がらない。
ただ、なかったことになる。
そこに岩棚があったという記憶だけが、取り残されたように空白が広がる。
距離はもう、数百歩もない。
速くはない。
だが、止まらない。
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冒険者の一人が、後ずさった。
「……もう街まで時間がない」
その声は、責めるものではなかった。
ただ、現実を言っただけだった。
別の男が吐き捨てるように言う。
「撤退だ」
誰もすぐには反応しない。
男は続けようとした。
「街を捨てるしか――」
言葉の途中で、口を噤む。
背後にはメルグラフがある。
商人がいる。
子どもがいる。
負傷者がいる。
ようやく立ち上がり始めた者たちがいる。
捨てる。
その言葉は、あまりに軽かった。
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ガルドは、半分以下になった盾を握り直した。
もう大盾とは呼べない。
守るための面は削られ、残った部分も歪んでいる。
それでも、ガルドは前へ出ようとする。
「まだ、立てます」
声は低い。
だが、誰もそれを勝算とは呼ばなかった。
立てることと、止められることは違う。
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ミラはギターの弦に指を置く。
しかし鳴らさない。
鳴らしても、削られる。
救世響鳴も、ディボイドには届き切らない。
フィーは両手を握りしめている。
治せない。
整えられない。
欠けたものに、命の波は残らない。
コムギは非常食を握っている。
誰かに渡すためのものだ。
でも、今は何を渡せばいいのか分からない。
クラウスは、ディボイドを見ている。
細い線は見えた。
観測ではなく、自分が選ぶことで生まれかけた線。
だが、それはあまりにも細い。
ディボイドの完全なゼロへ届く前に、消えかけている。
ぽめは、寝ている。
丸い。
この状況で、いつも通りに。
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「諦めるしかない」
誰かが小さく言った。
その言葉が、空気を凍らせる。
誰も反論しない。
反論するための材料が、何もなかった。
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その時。
空中に、白い線が走った。
砂漠の風が止まる。
光の線は折れ曲がり、薄い板のような形を作った。
通信結界。
そこに、ノインの姿が映る。
白い外套。
感情の薄い瞳。
先ほどのようにそこへ立っているわけではない。
だが、その声は、すぐそばで聞こえるほど冷たかった。
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「提案します」
ノインの声が砂漠に落ちる。
黒い球体は進み続けている。
ノインは、それを止めようとはしない。
「あなた方がこれ以上、干渉しなければ」
視線が、トンヌラたちへ向く。
「街は残ります」
誰も動かない。
ノインは続ける。
「虚無のディボイドは、世界の誤差を削る調整装置です」
「誤差が対象範囲から消えれば、削除は収束します」
コムギが息を呑む。
フィーの手が震える。
ミラの指が弦を強く押さえる。
ガルドの盾が、かすかに軋んだ。
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ノインは淡々と告げる。
「あなた方が退けば、街は削除対象から外れます」
「あなた方が抗えば、ディボイドは対象範囲を拡大します」
白い結界の向こうで、数式が流れる。
「その場合、メルグラフまでの被害拡大率は上昇」
「人的損耗も、現時点の予測を大きく超えます」
ノインは、ほんの少しだけ首を傾けた。
「合理的な選択は明白です」
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誰かが膝をついた。
それは恐怖ではなかった。
力が抜けた音だった。
「……俺たちが、いなくなればいいのか」
冒険者の一人が、掠れた声で言う。
ノインは答えない。
答える必要もなかった。
その沈黙が、答えだった。
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クラウスの喉が鳴る。
(街は残る)
(誰も消えない)
(犠牲も最小で済む)
自分たちが退けばいい。
ネームレス一行が世界の誤差なら、その誤差が消えればいい。
戦わない。
抗わない。
何もしない。
それだけで、街は残る。
合理だ。
最適解だ。
正しい。
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トンヌラは、何も言わなかった。
理解していない。
構造も知らない。
ノインの理屈がどこまで正しいのかも分かっていない。
ただ、黒い球体を見つめている。
退かない。
それだけだった。
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ノインの声が続く。
「選択を誤らないでください」
その言葉は、クラウスへ向けられていた。
「クラウス。あなたなら、分かるはずです」
クラウスの指先が震える。
「ここで抗うことは、街を危険に晒す行為です」
「あなた方が何もしなければ、街は残る」
「あなた方が選べば、均衡はさらに乱れる」
ノインの瞳は揺れない。
「あなたが選ぼうとしているものは、救済ではありません」
白い結界が、わずかに明滅する。
「被害の拡大です」
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クラウスの視界が揺れる。
街が残る未来。
自分たちが退く未来。
トンヌラが、ただの何者でもない男へ戻る未来。
ガルドが盾を下ろす未来。
コムギが補給を配らずに済む未来。
フィーが命の終端を見なくて済む未来。
ミラが戦場で歌わずに済む未来。
無数の分岐が見える。
どれも、痛みが少ないように見えた。
(観測に至れば、間違えない)
(誰も責めない)
クラウスは、唇を噛む。
そして、思ってしまう。
(仲間も失わない選択か……)
その瞬間。
頭の奥で、声が反響した。
『必要な犠牲です』
かつて自分が言った言葉。
路地裏。
見捨てた子ども。
白い空間で何度も夢に出てきた光景。
あの時も、そうだった。
間違えないために、見た。
理解した。
正しい方を選んだつもりだった。
だが、あの目は今も消えない。
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ディボイドは、もうそこまで来ている。
砂が消える。
空白が伸びる。
街へ向かって。
何も言わず。
何も壊さず。
ただ、なかったことにしながら。
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クラウスは目を閉じた。
選ばなければ、楽だ。
理解すれば、痛まない。
観測者になれば、全てを遠くに置ける。
だが。
理解は、止める理由にはならない。
理解しても、守れない。
観測しても、手は届かない。
クラウスは目を開く。
ノインを見る。
そして、黒を見る。
「……あなたの提案は」
声がかすれる。
「正しい」
ノインは何も言わない。
「街を残すなら、私たちは退くべきです」
クラウスは、自分の言葉が胸に刺さるのを感じた。
「それが、一番被害の少ない選択です」
沈黙が落ちる。
砂の音だけが聞こえる。
コムギが、震える手で非常食を握りしめている。
フィーが、目を伏せる。
ミラが、唇を噛む。
ガルドは、盾を握ったまま動かない。
トンヌラは、黒を見ている。
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ノインが言う。
「では、退きなさい」
冷たい声。
「均衡は、それを受け入れます」
クラウスは答えない。
喉の奥が乾く。
正しい。
正しいのに。
足が動かない。
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黒い球体が、また少し進む。
砂丘の縁が消える。
街まで、あとわずか。
誰かが息を殺す。
誰かが祈る。
誰かが、諦めかける。
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その時。
トンヌラが、小さく言った。
「どうする」
その問いは、今度はクラウスへ向けられていた。
命令ではない。
丸投げでもない。
ただ、問いを預けた。
自分では分からない。
構造も見えない。
答えも持っていない。
だから、クラウスへ聞いた。
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クラウスは答えない。
拳を握る。
観測と選択のあいだで、立ち尽くす。
見える。
分かる。
正しさも、被害も、最適解も。
だが、まだ届かない。
それでも、逃げることだけはもうできなかった。
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ノインの通信結界が、薄く揺れる。
「時間はありません」
淡々とした声。
「均衡は待ちません」
クラウスは、黒い球体を見る。
ディボイドは止まらない。
だが、クラウスの視界には、ほんの細い線がまだ残っている。
観測して見つけた線ではない。
自分が選ぶことで生まれかけた線。
細く、頼りなく、すぐに消えそうな線。
クラウスは、その線を見つめた。
まだ、縫えない。
だが。
縫わなければならない。
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ここはレイアノーティア。
均衡は、正しい。
だが――。
正しさは、必ずしも守らない。
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第103話 了




