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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第10章 揺らぎは消せない

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第104話 大縫合(グランド・ステッチ)

 ここはレイアノーティア。

 正しさは、時に静かすぎる。


 怒らない。

 叫ばない。

 責めない。

 ただ、計算だけがそこにある。


 だからこそ。


 その正しさに押し潰されそうになる時、人は時々、理屈ではない声を出す。



 黒い球体――虚無のディボイドは、なお進む。


 砂丘の先端が、音もなく消えた。


 崩れない。

 砕けない。

 砂煙も上がらない。


 ただ、なかったことになる。


 街まで、あとわずか。



 通信結界の中で、ノインは淡々と言った。


「時間はありません」


 白い外套は揺れない。


 感情の薄い瞳が、こちらを見ている。


「あなた方が何もしなければ、街は残る」


 その声は、あまりにも静かだった。


「均衡は回復します」


 救いの形をした言葉だった。


 間違ってはいない。


 自分たちが退けば、街は助かる。

 自分たちが抗えば、街が巻き込まれる。


 なら、退くべきだ。


 誰かを守りたいなら、何もしない方がいい。


 その計算は、正しい。



 トンヌラたちがこの場から消えれば、ディボイドは止まるかもしれない。


 街は残るかもしれない。


 それが一番、被害の少ない道かもしれない。



 クラウスは黒を見つめたまま、動けなかった。


 理解はしている。


 ディボイドは完全収束点。


 揺らぎのないゼロ。


 誤差を削る、最終調整。


 止める理由はない。


 止めれば、均衡が崩れる。


 ノインの提案は、冷たいが正しい。


 正しいからこそ、苦しい。



 その時。


 砂を踏む音が、ひとつ。


 トンヌラが前に出た。



「俺が消えたら」


 低く、はっきりと言う。


「それで満足か?」


 誰に向けた言葉かは、分からない。


 ノインへか。


 ディボイドへか。


 それとも、世界そのものへか。


 黒い球体は答えない。


 ただ、ゆっくり近づいてくる。



「俺は何もしてない」


 トンヌラは言った。


 腕を組んでいない。


 ただ、黒へ向かって立っている。


「守ったのはガルドだ」


 半分以下になった盾を握るガルドが、顔を上げる。


「支えたのはコムギだ」


 コムギが非常食を握りしめたまま、唇を噛む。


「救ったのはフィーだ」


 フィーの肩が、小さく揺れる。


「揺らしたのはミラだ」


 ミラがギターの弦に触れたまま、トンヌラを見る。


「縫ってきたのはクラウスだ」


 クラウスの指が、わずかに震えた。


「俺は、立ってただけだ」


 それは、トンヌラにとって事実だった。


 理解もしていない。


 構造も知らない。


 強くもない。


 戦えもしない。


 名を呼ぶことが、何をしているのかすら、本当の意味では分かっていない。



「俺に仲間ができるなんてな」


 ほんの少し、笑った。


 乾いた笑いだった。


「ずっと山で一人だった」


 砂漠の風が、トンヌラの髪を揺らす。


「きっとこのまま、一人で生きていくと思ってた」


 黒い球体の表面が、わずかに波打った。


 油膜のような揺らぎが乱れる。


 ゼロに、微細なノイズが走る。


 クラウスの目が細くなった。


(揺らいだ……?)



 トンヌラは続ける。


「俺が消えて、あいつらが守られるなら」


 そこで言葉が止まる。


 通信結界の向こうで、ノインが無表情に見ている。


 ディボイドは、なお近づく。


 黒い球体の外縁が、トンヌラの足元の砂を薄く削り始める。


 消える。


 もう少し近づけば、トンヌラ自身が消える。


 それでも、トンヌラは言った。


「……嫌だな」


 小さく。


 本当に小さく。


「やっぱ嫌だ」



 空気が変わった。


 黒い球体が、初めてはっきりと揺らぐ。


 完全だった収束に、歪みが走る。


 クラウスの呼吸が止まった。


 ディボイドは、完璧な削除装置のはずだった。


 揺らがない。


 迷わない。


 誤差を許さない。


 なのに今、理屈ではない何かが、それを揺らした。



 トンヌラの右手の輪郭が薄くなる。


 存在の厚みが落ちる。


 指先が、世界から外れかける。


 それでも、退かない。


「消えるのは嫌だ」


 声が震えている。


「でも、退くのも嫌だ」


 英雄の言葉ではなかった。


 美しい自己犠牲でもなかった。


 ただのわがまま。


「何もできないのも……嫌だ」


 トンヌラは動かない。


 いや、動けない。


 事実を受け止めたいのに、受け止められない硬直。


 消えたくない。


 でも、逃げたくない。


 何もできないまま終わりたくない。


 その矛盾した感情が、黒い球体の完全なゼロに、小さな傷をつけていた。



 ノインが小さく呟く。


「……やはり危険だ」


 その声に、初めてわずかな警戒が混じる。


 ディボイドが、ほんの一瞬だけ止まった。


 迷った。


 そう見えた。


 いや、そう見えてしまった。


 削除装置が迷うはずはない。


 完全収束点に迷いなどあるはずがない。


 だが、確かに止まった。



 砂漠に、初めて風が戻る。


 それは弱い風だった。


 だが、確かに吹いた。


 クラウスの胸に、はっきりと理解が落ちる。


(そうか)


 観測では、揺らぎは生まれない。


 理解では、ゼロは壊れない。


 正しさを見ているだけでは、何も変わらない。


 だが。


 選択は、構造に傷をつける。


 矛盾していても。


 醜くても。


 わがままでも。


 それが本当に選ばれたものなら、完全な収束にすらノイズを走らせる。



 クラウスの視界に、細い線が見えた。


 観測して見つけた糸ではない。


 世界の側に最初からあった分岐でもない。


 トンヌラの矛盾した選択によって、今この瞬間に生まれた線。


 細い。


 あまりにも細い。


 触れれば切れそうなほど頼りない。


 だが、ある。


 初めて、ディボイドに縫い代が生まれている。



「……見えた」


 クラウスが呟く。


 フィーが顔を上げる。


 コムギが息を呑む。


 ミラの指が弦の上で止まる。


 ガルドが、半分以下になった盾を握り直す。


 クラウスは前へ出た。


「団長」


「団長ではない」


「今は、そう呼ばせてください」


 トンヌラは振り返らない。


 右手はまだ薄い。


 足元の砂も、消えかけている。


 クラウスは深く息を吸う。


「あなたのわがままが、線を作りました」


「わがまま言うな」


「事実です」


「腹が立つな」


「私もです」


 クラウスは、指を伸ばす。


 震えている。


 だが、引かない。



(観測者になれば、揺らぎは消せる)


 ノインの声。


 老人の声。


 路地裏の子どもの目。


 すべてが胸の奥で重なる。


(だが、選択者になれば)


 クラウスの瞳に、紫の光が走る。


(揺らぎを、作れる)



 ノインの通信結界が、微かに乱れる。


「クラウス」


 冷たい声。


「それは、観測者の道ではありません」


 クラウスは振り向かない。


「知っています」


「失敗すれば、あなたも消えます」


「でしょうね」


「なぜ」


 ノインの声に、わずかな理解不能が混じった。


 クラウスは、黒い球体を見つめる。


「もう、見ているだけでは終われないからです」



 クラウスの指が、空間を縫うように動いた。


 世界に元からあった糸ではない。


 観測で見つけた分岐でもない。


 トンヌラの矛盾が生んだ揺らぎ。


 そして、クラウス自身が選んだ線。


 それを掴み、細く引き伸ばす。


 ディボイドの完全なゼロへ、一本だけ可能性を通す。


「観測ではなく」


 クラウスの声が、砂漠に落ちる。


「選択として」


 紫の糸が、黒い球体へ伸びる。


 触れる。


 消えかける。


 それでも、クラウスは手を離さない。


 指先から血が滲む。


 糸が軋む。


 黒い球体の表面に、細い縫い目のような光が走った。


 完全だったはずの虚無に、一本の傷が入る。



 クラウスの膝が崩れかける。


 だが、倒れない。


 ガルドが背後から支える。


「まだです」


 クラウスが息を切らしながら言う。


「一本では、足りません」


 ディボイドは、なお収束しようとしている。


 縫い目を呑み込み、ゼロへ戻ろうとしている。


 黒が、紫の糸を押し潰す。


 クラウスの額から汗が落ちる。


 それでも、彼はトンヌラを見る。


「団長」


「なんだ」


 クラウスは、かすかに笑った。


「もう覚悟は、完了しています」


 トンヌラの目が、わずかに開く。


 その言葉を、自分より先に誰かが言った。


 こんな時なのに。


 こんな状況なのに。


 少しだけ、口元が上がった。


「まさか、先に言われるなんてな」


「名を預けます」


 クラウスは言った。


 それは、頼みではなかった。


 逃げでもなかった。


 自分で呼んだ糸を。


 自分で選んだ力を。


 それでも仲間へ差し出す声だった。



 トンヌラは、紫の縫い目を見る。


 今までとは違う。


 これは、トンヌラが呼び起こしたものではない。


 クラウスが、自分の手で呼び、虚無へ縫いつけたものだ。


 だから。


 今度は、呼ぶのではない。


 応える。



「覚悟、完了……」


 トンヌラの声が、砂漠に落ちる。


 小さい。


 だが、確かだった。


 クラウスの糸が震える。


 黒い球体の表面に走った紫の縫い目が、わずかに光を強める。


 トンヌラは言った。


「因果を縫うものよ」


 クラウスが、息を止める。


「己の力で糸を呼び、虚無へ縫いつけたそれは、もう今までのお前の技じゃない」


 紫の糸が、黒の上で軋む。


 消えかけながらも、消えない。


 トンヌラは、名を置く。


大縫合グランドステッチだ」



 その瞬間。


 紫の縫い目が、深く刻まれた。


 ディボイドの完全な収束に、一本の意味が通る。


 黒い球体が、大きく揺れた。


 油膜のような表面に、波紋が走る。


 完全だったはずの虚無に、線が残る。


 消去ではなく。


 破壊でもなく。


 選択の余白が、縫いつけられた。



 クラウスは肩で息をする。


 糸はまだ細い。


 今にも呑み込まれそうだ。


 だが、確かに通った。


 クラウスはトンヌラを見る。


「通りました」


 トンヌラの右手の輪郭が、かすかに戻る。


 足元の砂も、少しだけ形を取り戻す。


 完全ではない。


 まだ危うい。


 だが、消えきってはいない。


 トンヌラは息を吐いた。


「……何をした」


「選びました」


 クラウスは言う。


「ようやく」


 その声は、少しだけ笑っていた。



 ノインは通信結界の向こうで、静かに目を細める。


「選択者……」


 その言葉は、記録のようであり、警告のようでもあった。



 ディボイドは、再び収束を始める。


 紫の縫い目を潰し、ゼロへ戻ろうとする。


 揺らぎは生まれた。


 だが、まだ足りない。


 一本の可能性だけでは、虚無は崩れない。


 クラウスは仲間たちを見る。


「束ねる必要があります」


 トンヌラが、黒を見たまま頷く。


 何をするのかは、まだ分からない。


 だが。


 ようやく、勝ち筋ではない何かが見えた。


 勝つための道ではない。


 消えないための、細い糸。



 ここはレイアノーティア。


 均衡は正しい。


 だが。


 揺らぎは、消せない。



 第104話 了

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