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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第10章 揺らぎは消せない

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第105話 選択者

 ここはレイアノーティア。

 揺らぎは、均衡を裂く。


 観測は、世界を理解する。

 理解は、痛みを遠ざける。

 正しさは、迷いを消してくれる。


 だが。


 選択は、迷いを抱えたまま前へ出る。


 だからこそ、世界は時々、その一歩を恐れる。



 黒い球体――ディボイドは、再び収束を始めていた。


 クラウスの大縫合グランドステッチによって通された一本の可能性。


 紫の縫い目は、確かに虚無の表面へ刻まれている。


 だが、ディボイドはそれすら呑み込もうとしていた。


 油膜のような黒が蠢き、縫い目を押し潰していく。


 ゼロへ。


 揺らぎのない完全な状態へ。


 何もなかったことにするために。



 通信結界の向こうで、ノインが静かに言う。


「感情は、誤差に過ぎません」


 声は冷たい。


「揺らぎは、いずれ消えます」


 黒が、紫の糸を削る。


 クラウスの指先から血が滲む。


 彼は歯を食いしばり、糸を握り続ける。


 一本では足りない。


 分かっている。


 可能性一本では、虚無は崩れない。


 クラウスの額から汗が落ちた。


(ならば――束ねる)


 その答えにたどり着いた瞬間、クラウスは叫んだ。


「団長!」


 トンヌラは、まだ黒の前に立っている。


 右手の輪郭は戻りきっていない。


 足元の砂も薄い。


 存在そのものが、まだディボイドに引かれている。


 それでも、立っている。


「今です!」


 クラウスの声が、砂漠に響いた。



 トンヌラは息を吸った。


 黒い球体を見る。


 紫の縫い目を見る。


 クラウスを見る。


 そして、仲間たちを見る。


 何をすればいいか、分かっているわけではない。


 構造も知らない。


 理屈も知らない。


 だが。


 クラウスが名を預けた。


 なら、応える。


 トンヌラは腕を広げた。


「説明しよう!」


 砂漠に声が響く。


 こんな状況でそれをやるのか、と誰もが一瞬思った。


 だが、その声があまりにもトンヌラらしくて。


 逆に、全員の背筋が伸びた。


「五戒とは!」


 黒が迫る。


 紫の縫い目が軋む。


 トンヌラは続けた。


「世界に従うための戒めではない!」


 風が戻る。


 砂が舞う。


「守るために選ぶ――覚悟だ!」



 最初に動いたのは、ガルドだった。


 半分以下になった盾を、砂へ叩きつけるように構える。


「受ける覚悟!」


 赤い光が盾から燃え上がる。


 欠けた盾。


 削られた守り。


 それでも、前に立つ意思だけは欠けていない。


 赤い光が、クラウスの紫の縫い目へ流れ込む。



 次に、コムギがリュックを背負い直した。


 もう物資はほとんどない。


 水も少ない。


 食べ物も少ない。


 それでも、彼女は非常食を握りしめて叫ぶ。


「支える覚悟!」


 淡い金色の光が広がる。


 無限に増えるわけではない。


 奇跡のように満たすわけでもない。


 でも、生きるために必要なものを、最後まで回す意志。


 その光が、赤と重なる。



 フィーが両手を広げた。


 治せないものがある。


 戻せないものがある。


 死を保留できても、すべてを救えるわけではない。


 それでも、彼女は命の波を信じる。


「命を信じる覚悟!」


 緑の光が脈打つ。


 それは回復ではない。


 終わりに向かうものを、それでも見捨てない意志だった。


 緑が、赤と金に重なる。



 ミラがギターを構える。


 ディボイドには音が削られる。


 救世響鳴ですら、届き切らなかった。


 だが、今は違う。


 ひとりで鳴らす音ではない。


 仲間の覚悟と、戦場の呼吸と、残った人々の足音を全部抱えて鳴らす音。


 ミラは弦を掻き鳴らした。


「揺らす覚悟!」


 藍色の光が、砂漠の空気を震わせる。


 今度は削られない。


 音は、縫い目の上を走り、虚無の表面に波を刻む。



 最後に、クラウスが糸を握った。


 観測ではない。


 理解でもない。


 逃げるための整理でもない。


 自分で選び、自分で呼び、自分で虚無へ縫いつけた線。


 クラウスは、紫の糸をさらに強く握る。


「選ぶ覚悟!」


 紫の光が走る。


 五つの光が、ひとつの輪郭を持ち始める。


 赤。


 金。


 緑。


 藍。


 紫。


 それぞれは違う。


 役割も違う。


 できることも違う。


 だが、今は同じ方向を向いている。



 五つの光が、トンヌラへ集まった。


 今までとは違う。


 誤解ではない。


 偶然でもない。


 誰かに言われたからでもない。


 全員が理解している。


 全員が選んでいる。


 全員が、自分の意志でそこに立っている。


 ぽめはその横で、幸せそうに寝ている。



 トンヌラの足元に、五重の円環が浮かび上がる。


 空間が震える。


 砂が浮き上がる。


 黒い球体が、初めて明確に抵抗するように歪んだ。


 トンヌラは叫ぶ。


「五戒封環」


 五つの光が、円環を形作る。


 逃げ道ではない。


 封じるための檻でもない。


 それは、仲間たちの覚悟を束ねる環だった。


「終焉無双」


 光が重なる。


 黒い球体の表面に、クラウスの縫い目が深く食い込む。


 トンヌラは、喉が裂けるほどに叫んだ。


「五戒封環・終焉無双ゴカイ・エンドレス!」



 奔流が放たれた。


 爆音はなかった。


 だが、世界が軋んだ。


 クラウスが縫いつけた一本の揺らぎ。


 そこへ、五つの覚悟が流れ込む。


 赤が受け止める。


 金が支える。


 緑が命を信じる。


 藍が揺らす。


 紫が選ぶ。


 それらが重なり、虹色の環となってディボイドを縛り上げる。



 虚無の完全収束に、強制的な意味が流し込まれた。


 黒い球体が、大きく歪む。


 油膜が裂ける。


 表面に亀裂が走る。


 完全だったはずのゼロが、形を保てなくなる。


 ノインの通信結界が乱れた。


「完全収束が……崩れる?」


 その声に、初めて明確な揺れが混じった。



「押せ!」


 ガルドが叫ぶ。


 赤い光がさらに強まる。


 コムギが叫ぶ。


「まだ、支えます!」


 金色の光が広がる。


 フィーが両手を伸ばす。


「命は、まだここにあります!」


 緑が脈打つ。


 ミラが弦を掻き鳴らす。


「響け!」


 藍色の波が黒を揺らす。


 クラウスが歯を食いしばる。


「選びます!」


 紫の糸が、さらに深く縫い込まれる。


 そして、トンヌラが叫ぶ。


「無限の環に戻れ!」



 ディボイドが崩壊する。


 爆ぜない。


 砕けない。


 消えるのでもない。


 ただ、内側から意味を与えられ、完全でいられなくなる。


 ゼロであることを保てなくなる。


 黒がほどける。


 油膜が散る。


 空白だったものに、色の残響が走る。


 やがて、ディボイドは、何もなかった場所へと還っていった。



 静寂。



 砂漠に、風が戻る。


 削除は、それ以上広がらない。


 砂は残っている。


 街道も残っている。


 遠くの街も、消えていない。


 虚無は、消えた。



 誰も、すぐには動かなかった。


 何が起きたのか、理解が追いつかない。


 やがて、フィーが震える声で言った。


「……勝った?」


 ガルドが膝から崩れ落ちる。


 盾を握ったまま、深く息を吐く。


「……守れた」


 コムギがその場に座り込む。


「街、残ってる……」


 ミラが、震えながら笑った。


「やったじゃん……!」


 クラウスは肩で息をしている。


 紫の糸が、ゆっくり消えていく。


「成功、ですね……」


 その声は、かすれていた。


 だが、確かに笑っていた。



 トンヌラが、砂の上に膝をつく。


 右手が戻っている。


 足も戻っている。


 存在が、厚みを取り戻している。


 呼吸ができる。


 砂の匂いがする。


 風の感触がある。


 トンヌラは、かすかに笑った。


「……なんとか、なったな」


 今日は、本気で笑った。



 冒険者たちが歓声を上げる。


 誰かが泣き出す。


 誰かが抱き合う。


 誰かが、ただ砂の上に座って空を見上げている。


 砂漠に、笑い声が戻った。


「団長!」


 ミラが駆け寄る。


 ガルドがトンヌラの肩を叩く。


 コムギが泣きながら笑う。


 フィーが深く息を吐く。


 クラウスは、空を見上げている。


 ぽめは相変わらず、気持ちよさそうに丸くなっていた。


「……すぴ」


 この状況で寝ている。


 それが、なぜか少しだけ救いのように見えた。



 勝った。


 確かに、勝った。


 五人と、1人で。


 誤解ではなく。


 偶然でもなく。


 意志で。



 遠くの空間が、静かに歪む。


 白い外套がはためいた。


 ノインが、通信結界の向こうではなく、遠い空間の縁に立っている。


「……想定以上ですね」


 感情は薄い。


 だが、冷たい。


 視線は、砂漠ではなく、さらに遠くへ向いていた。


「あなたの判断は、正しかった」


 誰に向けた言葉かは、分からない。


 その声が落ちた瞬間、勝利の熱がわずかに冷えた。



 空気が張り詰める。


 笑い声が止まる。


 風が止まる。


 ぽめが、ゆっくりと目を開けた。


 今までと違う。


 丸いままではない。


 ゆっくりと立ち上がる。


 トンヌラの背筋が冷えた。


「どうした、ぽめ」


 ぽめは答えない。


 目を開いたまま、空を見ている。


 いつもの弛んだ顔ではなかった。


 その刹那。


 空が裂けた。



 巨大な影が姿を現す。


 漆黒の翼。


 真っ黒な長い髪。


 人のような姿をしている。


 だが、明らかに人ではない。


 それ以上の何か。


 紫色に光る、鋭い瞳が砂漠を見下ろしていた。


 その存在が現れた瞬間、誰もが理解した。


 今までの魔王とは違う。


 明確な意思がある。


 明確な言葉がある。


 そして、明確にこちらを見ている。



 その者は、ゆっくりと地上へ降りてくる。


 手の甲をこちらへ向け、指を空へ伸ばしている。


 黒い粒子が、湯気のように天へ昇る。


 砂は消えない。


 地は削れない。


 ディボイドとは違う。


 この存在は、虚無ではない。


 圧倒的に、そこに在る。



 地に足が触れた。


 砂が、静かに沈む。


 翼がゆっくり閉じられる。


 低い声が、砂漠に落ちた。


「役割は、必要だ」


 誰も動けない。


 その声は、怒鳴っていない。


 だが、全員の胸を押さえつけるような重さがあった。


「我が名はドミニオン」


 紫の瞳が、トンヌラたちを見渡す。


「五戒を統べる、統戒の魔王なり」



  勝利の熱が、凍った。


 トンヌラは息を呑む。


 ガルドが盾を握る。


 コムギが立ち上がろうとして、膝をつく。


 フィーの顔から血の気が引く。


 ミラがギターを握りしめる。


 クラウスの指先が、わずかに震える。


 ディボイドとは違う。


 今度は、何かが見えてしまう。


 だが、それを見た瞬間、クラウスは理解より先に息を呑んだ。


 深い。


 あまりにも深い。


 糸へ触れることすら、今は危うい。


 ドミニオンは、静かに言った。


「よくぞ、五戒に打ち勝った」


 砂漠の空気が凍る。


「不協和のディソナンス」


「災衡のディザスター」


「衰退のディクライン」


「破滅のドラグノフ」


 その名が出た瞬間、トンヌラの目がわずかに動く。


 ドラグノフ。


 古竜王。


 勇者サトウが、自分の意思で断ち切った神話。


 あれもまた、五戒の一つだったのだと。


 今になって、理解が落ちる。


 ドミニオンは続けた。


「そして、虚無のディボイド」


 五つの名が、砂漠に並ぶ。


「全ては、世界を正しく保つための存在だった」



 ドミニオンの声は静かだった。


 だが、そこには確かな重みがある。


「乱れた拍を整え」


「過ぎた帳尻を戻し」


「伸びすぎた熱を衰えさせ」


「破滅によって中心を作り」


「虚無によって誤差を削る」


 紫の瞳が、ゆっくりと細まる。


「だが、お前たちはそのすべてに抗い、反して見せた」


 視線が、一人ずつ流れる。


 ガルドへ。


 コムギへ。


 フィーへ。


 ミラへ。


 クラウスへ。


 そして最後に、トンヌラへ。


「その中心には、いつもお前がいた」


 ドミニオンが言う。


「ネームレス」


 そこで、声がさらに低くなる。


「いや――名を預かる者よ」



 トンヌラの背筋に、冷たいものが走った。


 自分のことを言われている。


 だが、意味が分からない。


 名を預かる者。


 その言葉が、胸の奥で妙に重く響いた。


 ドミニオンは翼をわずかに広げる。


 空気が張り詰める。


 今のディボイドとの戦いが、前哨戦だったのだと。


 誰もが、理解してしまった。



 ここはレイアノーティア。


 均衡は、まだ終わっていない。



 第105話 了

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