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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第10章 揺らぎは消せない

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第106話 名奪い(ネーム・ディヴァウアー)


 ここはレイアノーティア。

 勝利は、均衡を壊す。


 五戒は打ち消された。


 不協和も。

 災衡も。

 衰退も。

 破滅も。

 虚無も。


 それでも、世界は終わらない。


 均衡は、壊されたままではいない。



 統戒の魔王、ドミニオン。


 その名を聞いた瞬間、砂漠の空気は重さを変えた。


 ディボイドのような虚無ではない。


 触れれば消えるわけではない。

 音が削られるわけでもない。

 砂が空白になるわけでもない。


 ドミニオンは、ただ立っている。


 それだけで、全員が理解していた。


 これは、今までの魔王とは違う。



 漆黒の翼は、静かに閉じられている。


 真っ黒な長い髪が、風もないのにわずかに揺れている。


 紫色の瞳は、怒っていない。


 憎んでもいない。


 だが、こちらを見ている。


 理解し、測り、確信している目だった。



 誰も動けなかった。


 ガルドが盾を握る。


 だが、半分以下に欠けた盾は、もういつもの守りの形をしていない。


 コムギはリュックの肩紐を握りしめている。


 補給する相手も、補給できる状況も分からない。


 フィーは息を呑む。


 命の波は見える。


 だが、目の前の存在は、命だけで説明できない。


 ミラはギターの弦に指を置いた。


 けれど、鳴らせない。


 音を出した瞬間、それが何を引き起こすか分からなかった。


  クラウスは糸を見ていた。


 ディボイドのような空白ではない。


 ドミニオンには、確かに糸がある。


 ある。


 だが、それは人や魔物の因果ではなかった。


 無数の役割が束ねられ、名前が固定され、世界の規則そのものへ深く縫い込まれている。


 一本を切れば、別の百本が締まる。


 一箇所を縫えば、全体の構造が形を変える。


 それは傷ではない。


 綻びでもない。


 世界を縫う側の構造だった。


 クラウスの背に、冷たい汗が流れる。


(これは、縫えない)


 糸がないからではない。


 糸が、ありすぎる。


 しかもそのすべてが、役割という名の鎖で繋がっている。


 ドミニオンの視線が、トンヌラへ向く。


 紫の瞳。


 静かで、冷たい。


 だが、そこには明確な意思がある。


「選択は、均衡を歪める」


 低い声だった。


 一歩、踏み出す。


 砂は消えない。


 地も削れない。


 虚無とは違う。


 ドミニオンは、完全に存在している。


 世界の上に、確固として立っている。



「役割は必要だ」


 ドミニオンは静かに言う。


「自由は、世界を壊す」


 視線が、仲間たちへ流れる。


「揺らぎは、拡大する」


 そして、再びトンヌラへ戻る。


「貴様は――誤差の中心」



 トンヌラは笑った。


「またそれか」


 声は軽い。


 だが、足は少し震えている。


(これは……まずいな)


(かなり、まずい)


 それでも退かない。


 退けない。


「さっき勝ったばっかだぞ」


 ドミニオンは否定しなかった。


「よくぞ、五戒の魔王を打ち消した」


 翼がわずかに広がる。


 砂漠の空気が張り詰める。


「だが、それが均衡を壊す」



 クラウスが一歩前へ出る。


「団長、下がってください」


 ドミニオンの視線が、クラウスへ移った。


「観測者……いや、違う」


 淡々と。


「惜しい」


 その一言で、クラウスの背に冷たい汗が流れた。


 見抜かれた。


 観測者へ至らなかった自分。


 選択者になった自分。


 その中途半端さを、たった一言で測られた。



 ドミニオンは、右手をゆっくりと持ち上げた。


 手の甲を、こちらへ向ける。


 指は空へ伸びている。


 そこから、湯気のような黒い粒子が天へ昇っていく。


 熱ではない。


 煙でもない。


 名前のない何かが、世界から抜けていくような光景だった。



「名は、役割を固定する」


 声が、砂漠に落ちる。


「名があるから、均衡は成立する」


 紫の瞳が、トンヌラを射抜く。


「名があるから、人は自らを誤認する」


 トンヌラは眉をひそめる。


「ならば」


 ドミニオンの指先が、わずかに動いた。


「奪えばよい」



 クラウスが叫ぶ。


「団長、避けて!」


 トンヌラは動かない。


 理解が追いついていない。


 ただ、立っている。


 何かが来る。


 それは分かる。


 だが、どこから来るのか分からない。


 避ける方向も分からない。



 空気が歪んだ。


 音が消える。


 光が細くなる。


 砂漠の景色が、ほんの一瞬だけ裏返る。


 ドミニオンの指先が動いた。


 それだけだった。



 トンヌラの胸元で、何かが裂ける感覚があった。


 痛みはない。


 熱もない。


 血も流れない。


 ただ。


 何かが、剥がれ落ちた。



 視界の端で、文字が崩れる。


 《ネームレス》


 その名が、音もなく剥がれ落ちていく。


 砕けたのではない。


 消えたのでもない。


 奪われた。


 そうとしか言えない感覚があった。



 トンヌラの足元にあったはずの円環が消える。


 重さが抜ける。


 密度が抜ける。


 世界との接続が、ひとつ外れたような感覚。


 存在は残る。


 呼吸もある。


 身体もある。


 だが。


 もう、何者でもない。



 ドミニオンが言った。


「名奪い《ネーム・ディヴァウアー》」


 淡々と。


「貴様の役割は奪った」



 トンヌラが膝をついた。


 力が抜ける。


 痛くはない。


 苦しくもない。


 何かを奪われた実感すら、薄い。


 だが、何かが決定的にない。


 胸の奥にあった、空白の中心。


 名を預かるための場所。


 そこが、抜け落ちている。



 ガルドが駆け寄る。


「団長!」


 コムギが支える。


「しっかりしてください!」


 フィーが慌てて手を当てる。


「……異常なし?」


 その声が震える。


 命の波はある。


 呼吸もある。


 鼓動もある。


 怪我はない。


 なのに、何かがおかしい。


 ミラがトンヌラの肩を掴む。


「冗談でしょ?」


 クラウスが、かすれた声で言う。


「……団長?」



 トンヌラは、顔を上げた。


 目は普通だった。


 息もしている。


 傷もない。


「……あれ?」


 小さく呟く。


「なんか……軽いな」


 笑う。


 弱く。


 あまりにも弱く。


 それが、逆に痛かった。



 トンヌラは周囲を見る。


 ガルドがいる。


 コムギがいる。


 フィーがいる。


 ミラがいる。


 クラウスがいる。


 ぽめもいる。


 街も残っている。


 空もある。


 砂漠もある。


 全部、ある。


「……別に、なんも変わってなくないか?」


 立とうとする。


 だが、足に力が入らない。


 膝が砂に沈む。


 ガルドが支える。


「無理をしないでください」


「いや、無理とかじゃなくて」


 トンヌラは自分の手を見る。


 指はある。


 動く。


 消えていない。


「変わってない、だろ」


 誰も答えられなかった。



 クラウスの瞳が揺れる。


 糸を見る。


 ない。


 トンヌラから伸びていた、あの空白の糸。


 仲間の可能性へ触れ、名を預かり、世界へ向けて言い張るための不可思議な線。


 それが、ない。


 今そこにあるのは、ただの空白。


 意味を持たない空白。


 呼べない。


 預かれない。


 繋がらない。



 クラウスの顔から血の気が引く。


「……奪われた」


 ミラが振り向く。


「何を」


 クラウスは答えようとして、声が出なかった。


 ドミニオンが静かに言う。


「ネームレス」


 紫の瞳が、冷たく光る。


「その役割は、奪った」



 意味が、全員の理解に落ちていく。


 ネームレス。


 名を持たぬ者。


 名を預かる者。


 誤解の中心。


 可能性の起点。


 仲間たちが、自分の可能性を形にする時、その名を世界へ置いてきた者。


 それが、ない。



 コムギの手が震える。


「じゃあ、団長は……」


「団長ではない」


 トンヌラは反射のように言った。


 だが、その声にいつもの軽さがない。


 言葉は同じなのに、何かが足りない。


 ミラが唇を噛む。


「やめてよ」


「何がだ」


「そんな声で言わないでよ」


 トンヌラは、少し困ったように笑った。


「そんな声って、どんな声だ」


 ミラは答えられない。



 トンヌラは、ゆっくり立ち上がろうとする。


 ふらつく。


 ガルドが支える。


「……まあ」


 トンヌラは小さく笑った。


「俺、もともと何もなかったしな」


 その笑顔が、痛かった。


 誰も笑えない。


 本人だけが、まだ軽く流そうとしている。


 それが余計に、壊れたものの大きさを示していた。



 ドミニオンは、背を向けた。


 翼が広がる。


 空間が歪む。


「名は役割を固定する」


 低い声が、砂漠へ残る。


「役割なき世界は、必ず破綻する」


 トンヌラは顔を上げる。


 ドミニオンの背中を見る。


 言い返したい。


 何かを言いたい。


 だが、言葉が出てこない。


 いつもなら出ていたはずの、根拠のない大仰な言葉が、胸の奥から上がってこない。



 ぽめが、目を開けたままだった。


 ほんの一瞬だけ、その瞳に紫の光が映る。


 だが、動かない。


 丸いまま、ドミニオンを見ている。


 何かを知っているように。


 それでも、まだ何もしないように。



 ドミニオンの姿が、空間の裂け目へ溶けていく。


 最後に、声だけが残った。


「名を失った者に、選択は残らない」


 そして、消えた。



 砂漠に、静寂が戻る。


 風が吹く。


 街は、残っている。


 誰も死んでいない。


 グレイフィールドは静まり、ディボイドもいない。


 五戒の魔王は、打ち消された。


 守れた。


 勝った。


 そのはずだった。



 だが、何かが決定的に終わった。



 トンヌラは、空を見上げる。


 目が、少しだけ虚ろだった。


「……疲れたな」


 その声には、いつもの誤差がない。


 言葉の端にあったはずの、妙な力がない。


 ただ、疲れた男の声だった。



 クラウスが、拳を握る。


 ミラは何も言えない。


 フィーは泣きそうな顔で、トンヌラの手を握る。


 コムギはリュックの肩紐を握りしめている。


 ガルドは、支える腕に力を込める。


 ぽめは、またゆっくりと目を閉じた。



 ここはレイアノーティア。


 均衡は、回復した。


 だが――。


 物語は、壊れた。




第106話 了


 第10章 完

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