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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第10章 揺らぎは消せない

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98/109

第98話 虚無の魔王

 ここはレイアノーティア。

 勝利のあとに、安心が来るとは限らない。


 敵が退いた。

 前線は崩れなかった。

 誰も欠けなかった。


 それでも。


 戦いのあとに残る静けさが、必ずしも平穏とは限らない。



 最後の魔物が退き、砂漠に静寂が戻っていた。


 グレイフィールドの縁から溢れていた魔物たちは、灰色の膜の奥へ引いていった。


 ガルドは盾を下ろす。


 ミラは弦から指を離す。


 コムギは水袋の残量を確認し、フィーは負傷者の呼吸を見ている。


 クラウスは、まだ灰界の向こうを見ていた。


 ぽめは、丸い。


 誰も死んでいない。


 今日は、守れた。


 そう言っていいはずだった。



 最初に異変に気づいたのは、フィーだった。


「……なにか変」


 小さな声だった。


 トンヌラが振り向く。


「何がだ」


 フィーはすぐには答えない。


 灰界の中心を見ている。


 風は吹いている。


 砂も流れている。


 だが、その感触が薄い。


 世界の一部だけ、呼吸をやめたような違和感があった。


「命の流れじゃないです」


 フィーの声が、わずかに震える。


「魔物か?」


「違います」


 フィーは首を横に振る。


「生き物じゃない」



 灰界の中心が、わずかに歪んだ。


 裂けるのではない。


 膨らむのでもない。


 そこだけが、内側へ凹んでいるように見えた。


 空間に空いた、小さな窪み。


 光が、その窪みに吸われていく。


 最初は遠すぎて、何なのか分からなかった。


 だが、目が慣れるにつれて、輪郭が見えてくる。


 黒い球体。


 砂漠の上に、静かに浮いている。



 それは、魔物の形をしていなかった。


 牙もない。

 爪もない。

 目も口もない。


 ただ、黒い。


 表面には、油膜のような揺らぎがゆっくりと流れている。


 液体のようで、固体のようでもある。


 生き物の皮膚のようにも見える。


 けれど、鼓動はない。


 呼吸もない。


 そこに存在しているというより、そこだけが世界から抜け落ちているようだった。


 ミラが、思わず息を呑む。


「……なに、あれ」


 誰も答えられなかった。



 黒い球体は、何もしない。


 叫ばない。


 襲いかからない。


 魔力を放たない。


 威圧もしない。


 ただ、浮いている。


 その静けさが、かえって恐ろしかった。


 やがて。


 注意して見ていなければ分からないほどの速度で、球体がこちらへ動き始めた。


 ゆっくり。


 ゆっくりと。



 球体が砂に触れた。


 その瞬間、触れた部分の砂が消えた。


 爆ぜない。


 飛び散らない。


 削れない。


 ただ、消える。


 そこに砂があったという事実だけが、静かに抜き取られたように。


 残ったのは、空白だった。



 コムギが、近くの小石を拾った。


「……試します」


「待て」


 トンヌラが言うより早く、コムギは小石を投げた。


 小石は低く弧を描き、黒い球体へ向かう。


 触れた。


 音はなかった。


 石は、消えた。


 砕けたのではない。

 焼けたのでもない。

 飲み込まれたのでもない。


 触れた瞬間、そこから存在しなくなった。


 コムギの顔から血の気が引く。


「……今の」


 言葉が続かなかった。



 ガルドが一歩前へ出た。


 半歩ではない。


 しっかりと前へ出る。


 盾を構える。


「止めます」


 声は低い。


 震えてはいない。


 だが、ガルドの額には汗が浮いていた。


 黒い球体は、変わらず進む。


 速くない。


 だが、止まらない。


 ガルドは盾を構えたまま、じっと待つ。


 距離が詰まる。


 球体が、盾の前まで来る。


 触れる前に、ガルドの腕がわずかに強張った。


 衝撃は来ない。


 圧もない。


 押されてもいない。


 それなのに。


 ガルドは一歩、後ずさった。


 さらに一歩。


 盾を構えているのに、守りの形になっていない。


 押されていないのに、下がるしかなかった。



 クラウスが目を細める。


 因果の糸を見る。


 いつもなら、そこには何かがある。


 結果へ向かう流れ。

 原因へ戻る線。

 歪み。

 綻び。

 縫い代。


 だが、黒い球体の周囲には何もなかった。


 糸が切れているのではない。


 絡まっているのでもない。


 そこだけ、繋がるべき線が存在しない。


「……観測できない」


 クラウスが小さく呟いた。


 その声に、トンヌラの背筋が冷える。


「お前が見えないのか」


「見えないというより」


 クラウスは唇を引き結ぶ。


「見えるべきものが、ありません」



 ミラが弦を鳴らした。


 小さく。


 様子を見るように。


 音が砂漠へ広がる。


 だが、球体へ近づいた瞬間、音が薄くなった。


 波が欠ける。


 完全には消えない。


 けれど、確かに削られる。


 ミラの指が止まる。


「……音も、削るの?」


 黒い球体は答えない。


 目もない。


 口もない。


 怒りもない。


 ただ。


 ゆっくり。


 ゆっくり。


 近づいてくる。



 冒険者たちも、誰も叫ばなかった。


 叫べなかった。


 叫んだ声まで削られそうだったからだ。


 灰界の魔物には、まだ分かりやすい恐怖があった。


 牙。

 爪。

 咆哮。

 殺意。


 だが、これは違う。


 戦う相手の形をしていない。


 攻撃してくるというより、そこにあるものを静かになくしていく。


 戦意を向ける場所がない。


 恐怖だけが、胸の奥で冷たく広がる。



 トンヌラが前に出た。


 黒い球体を見つめる。


 腕を組む。


(……なんだこれ)


 理解できない。


 強い、という感覚すらない。


 これまで出会ってきた魔物や魔王とは違う。


 敵意がない。


 意志も見えない。


 勝ちたいとか、壊したいとか、拒絶したいとか、そういうものが何もない。


 だが。


(戦う相手じゃない)


 その直感だけが、冷たく胸に落ちた。



 背後には、街がある。


 メルグラフへ続く街道がある。


 アンタイトルから運ばれてきた物資がある。


 支えられて、立ち直りかけている人々がいる。


 ここを抜かれれば、あれは進む。


 何も言わず。


 何も壊さず。


 ただ、消しながら。



 黒い球体は、なお進む。


 音を削り。


 砂を削り。


 存在を削る。


 ガルドが歯を食いしばる。


 ミラがギターを握る。


 コムギが水袋を抱える。


 フィーが胸元で手を握る。


 クラウスが糸のない空白を睨む。


 ぽめだけが、少し離れた砂の上で丸くなっている。


 だが、その耳だけが、わずかに動いた。



 トンヌラは、黒を見据えたまま動かない。


 怖い。


 かなり怖い。


 だが、退けば後ろへ行く。


 それだけは分かる。


 球体が、さらに近づく。


 足元の砂が、ほんの少し消えた。


 トンヌラの靴先の前に、小さな空白が生まれる。


 呼吸が止まりかける。


 それでも、彼は立っていた。



 ここはレイアノーティア。


 空洞は、壊せない。


 だが。


 触れれば、消える。



 第98話 了

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