第98話 虚無の魔王
ここはレイアノーティア。
勝利のあとに、安心が来るとは限らない。
敵が退いた。
前線は崩れなかった。
誰も欠けなかった。
それでも。
戦いのあとに残る静けさが、必ずしも平穏とは限らない。
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最後の魔物が退き、砂漠に静寂が戻っていた。
グレイフィールドの縁から溢れていた魔物たちは、灰色の膜の奥へ引いていった。
ガルドは盾を下ろす。
ミラは弦から指を離す。
コムギは水袋の残量を確認し、フィーは負傷者の呼吸を見ている。
クラウスは、まだ灰界の向こうを見ていた。
ぽめは、丸い。
誰も死んでいない。
今日は、守れた。
そう言っていいはずだった。
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最初に異変に気づいたのは、フィーだった。
「……なにか変」
小さな声だった。
トンヌラが振り向く。
「何がだ」
フィーはすぐには答えない。
灰界の中心を見ている。
風は吹いている。
砂も流れている。
だが、その感触が薄い。
世界の一部だけ、呼吸をやめたような違和感があった。
「命の流れじゃないです」
フィーの声が、わずかに震える。
「魔物か?」
「違います」
フィーは首を横に振る。
「生き物じゃない」
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灰界の中心が、わずかに歪んだ。
裂けるのではない。
膨らむのでもない。
そこだけが、内側へ凹んでいるように見えた。
空間に空いた、小さな窪み。
光が、その窪みに吸われていく。
最初は遠すぎて、何なのか分からなかった。
だが、目が慣れるにつれて、輪郭が見えてくる。
黒い球体。
砂漠の上に、静かに浮いている。
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それは、魔物の形をしていなかった。
牙もない。
爪もない。
目も口もない。
ただ、黒い。
表面には、油膜のような揺らぎがゆっくりと流れている。
液体のようで、固体のようでもある。
生き物の皮膚のようにも見える。
けれど、鼓動はない。
呼吸もない。
そこに存在しているというより、そこだけが世界から抜け落ちているようだった。
ミラが、思わず息を呑む。
「……なに、あれ」
誰も答えられなかった。
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黒い球体は、何もしない。
叫ばない。
襲いかからない。
魔力を放たない。
威圧もしない。
ただ、浮いている。
その静けさが、かえって恐ろしかった。
やがて。
注意して見ていなければ分からないほどの速度で、球体がこちらへ動き始めた。
ゆっくり。
ゆっくりと。
⸻
球体が砂に触れた。
その瞬間、触れた部分の砂が消えた。
爆ぜない。
飛び散らない。
削れない。
ただ、消える。
そこに砂があったという事実だけが、静かに抜き取られたように。
残ったのは、空白だった。
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コムギが、近くの小石を拾った。
「……試します」
「待て」
トンヌラが言うより早く、コムギは小石を投げた。
小石は低く弧を描き、黒い球体へ向かう。
触れた。
音はなかった。
石は、消えた。
砕けたのではない。
焼けたのでもない。
飲み込まれたのでもない。
触れた瞬間、そこから存在しなくなった。
コムギの顔から血の気が引く。
「……今の」
言葉が続かなかった。
⸻
ガルドが一歩前へ出た。
半歩ではない。
しっかりと前へ出る。
盾を構える。
「止めます」
声は低い。
震えてはいない。
だが、ガルドの額には汗が浮いていた。
黒い球体は、変わらず進む。
速くない。
だが、止まらない。
ガルドは盾を構えたまま、じっと待つ。
距離が詰まる。
球体が、盾の前まで来る。
触れる前に、ガルドの腕がわずかに強張った。
衝撃は来ない。
圧もない。
押されてもいない。
それなのに。
ガルドは一歩、後ずさった。
さらに一歩。
盾を構えているのに、守りの形になっていない。
押されていないのに、下がるしかなかった。
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クラウスが目を細める。
因果の糸を見る。
いつもなら、そこには何かがある。
結果へ向かう流れ。
原因へ戻る線。
歪み。
綻び。
縫い代。
だが、黒い球体の周囲には何もなかった。
糸が切れているのではない。
絡まっているのでもない。
そこだけ、繋がるべき線が存在しない。
「……観測できない」
クラウスが小さく呟いた。
その声に、トンヌラの背筋が冷える。
「お前が見えないのか」
「見えないというより」
クラウスは唇を引き結ぶ。
「見えるべきものが、ありません」
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ミラが弦を鳴らした。
小さく。
様子を見るように。
音が砂漠へ広がる。
だが、球体へ近づいた瞬間、音が薄くなった。
波が欠ける。
完全には消えない。
けれど、確かに削られる。
ミラの指が止まる。
「……音も、削るの?」
黒い球体は答えない。
目もない。
口もない。
怒りもない。
ただ。
ゆっくり。
ゆっくり。
近づいてくる。
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冒険者たちも、誰も叫ばなかった。
叫べなかった。
叫んだ声まで削られそうだったからだ。
灰界の魔物には、まだ分かりやすい恐怖があった。
牙。
爪。
咆哮。
殺意。
だが、これは違う。
戦う相手の形をしていない。
攻撃してくるというより、そこにあるものを静かになくしていく。
戦意を向ける場所がない。
恐怖だけが、胸の奥で冷たく広がる。
⸻
トンヌラが前に出た。
黒い球体を見つめる。
腕を組む。
(……なんだこれ)
理解できない。
強い、という感覚すらない。
これまで出会ってきた魔物や魔王とは違う。
敵意がない。
意志も見えない。
勝ちたいとか、壊したいとか、拒絶したいとか、そういうものが何もない。
だが。
(戦う相手じゃない)
その直感だけが、冷たく胸に落ちた。
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背後には、街がある。
メルグラフへ続く街道がある。
アンタイトルから運ばれてきた物資がある。
支えられて、立ち直りかけている人々がいる。
ここを抜かれれば、あれは進む。
何も言わず。
何も壊さず。
ただ、消しながら。
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黒い球体は、なお進む。
音を削り。
砂を削り。
存在を削る。
ガルドが歯を食いしばる。
ミラがギターを握る。
コムギが水袋を抱える。
フィーが胸元で手を握る。
クラウスが糸のない空白を睨む。
ぽめだけが、少し離れた砂の上で丸くなっている。
だが、その耳だけが、わずかに動いた。
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トンヌラは、黒を見据えたまま動かない。
怖い。
かなり怖い。
だが、退けば後ろへ行く。
それだけは分かる。
球体が、さらに近づく。
足元の砂が、ほんの少し消えた。
トンヌラの靴先の前に、小さな空白が生まれる。
呼吸が止まりかける。
それでも、彼は立っていた。
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ここはレイアノーティア。
空洞は、壊せない。
だが。
触れれば、消える。
⸻
第98話 了




