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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第9章 役に立たない場所の歌

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第97話 静かな勝利

 ここはレイアノーティア。

 勝利は、必ずしも歓声ではない。


 叫べるほどの力が残っていない時もある。

 笑えるほど、心が追いつかない時もある。


 それでも。


 生きている。


 その事実だけで、夜を越えられる日がある。



 最後の波が引いた。


 灰色の膜から溢れていた魔物たちが、砂の向こうへ退いていく。


 追撃する者はいなかった。


 追えなかった。


 前線の誰もが、立っているだけで限界だった。


 剣士は膝に手をつき、荒く息を吐いている。

 槍使いは砂の上に座り込み、武器を抱えたまま動けない。

 魔術師は杖に体重を預け、目を閉じている。

 盾役は、盾を下ろすことすら忘れていた。


 グレイフィールドは、まだ消えていない。


 灰色の揺らぎは、地平線の向こうで薄く脈打っている。


 勝ったわけではない。


 ただ、今日の波が終わっただけだ。



 ガルドが盾を下ろした。


「……今日は、ここまでです」


 低い声だった。


 だが、その声にも疲労が滲んでいる。


 大盾の表面には、新しい傷がいくつも刻まれていた。


 コムギがその場に座り込む。


「補給、残り一割……」


 リュックの中を見て、顔をしかめる。


「明日も来るなら、まずいです」


「明日の心配は、明日する」


 トンヌラが言う。


「それ、補給担当としては困ります!」


「なら今しろ」


「今するから困ってるんです!」


 コムギは怒る元気だけは少し残っていた。


 それを見て、フィーが小さく笑う。


 彼女も膝をついていた。


 顔色はまだ悪い。


 それでも、周囲の命の流れを確かめるように視線を動かしている。


「誰も、欠けてない……ですよね?」


 その問いに、すぐ答える者はいなかった。


 全員が、少し遅れて周囲を見る。


 倒れている者はいる。

 呻いている者もいる。

 立てない者もいる。


 だが。


 息はある。


 フィーは胸に手を当て、ゆっくり息を吐いた。


「……よかった」



 剣士が、砂の上に大の字になった。


「生きてる……な」


 隣の魔術師が、片手を上げる。


「なんとか」


 槍使いが笑おうとして、咳き込んだ。


「笑う体力もねえ」


「じゃあ黙ってろ」


「それもきつい」


 弱い会話だった。


 だが、昨日までの沈黙とは違う。


 生き残った者の声が、砂漠に少しずつ戻ってきていた。



 ミラは立ったまま、ギターを抱えていた。


 音はもう止まっている。


 けれど、指先はまだ震えている。


 弦の感触が消えない。


 救世響鳴レゾナンス・オブ・エクソダス


 その音が、まだ身体の奥で鳴っている気がした。


 戦場を支配した。


 たしかに、そうだった。


 でも、勝ったわけではない。


 誰かを完全に救えたわけでもない。


 ただ、死に向かっていた拍を、生きて越える拍へ変えた。


 その事実が、重く胸に残っている。



 昨日の剣士が、ゆっくり起き上がった。


 肩の包帯は赤く滲んでいる。


 足取りはふらついていた。


 それでも、ミラの前まで歩いてくる。


「……悪かったな」


 ぽつりと言った。


 ミラは瞬きをする。


「何が」


「昨日」


 剣士は頭を掻く。


「今は歌じゃないって言った」


 ミラは視線を逸らす。


「ああ、あれ」


「余裕なくてさ」


 剣士は苦く笑った。


「冷たいこと言っちまった」


「別に」


 ミラは軽く言おうとした。


 けれど、声が思ったより柔らかくなった。


「間違ってはなかったし」


「そうかもしれねえ」


 剣士は、砂の上に座り込んでいる仲間たちを見た。


「でも、今日のあれは歌だった」


 ミラの指が止まる。


 剣士は真っ直ぐ言う。


「あれで、俺たちは足が出た」


 少し照れくさそうに笑う。


「希望が見えたっていうか、まあ、そんな綺麗なもんじゃねえけど」


 言葉を探す。


「死ぬ方じゃなくて、生きる方に足が出た」


 ミラは何も言えなかった。



 魔術師も、少し離れた場所から言う。


「正直、怖かったんだ」


 声は弱い。


「昨日も今日も、ずっと」


 彼は杖を抱えたまま、目を伏せる。


「でも、音が鳴ってる間は、自分の呼吸がどこにあるか分かった」


 槍使いが笑う。


「俺は単純に、足が勝手に合った」


「それ、褒めてる?」


 ミラが聞く。


「褒めてる」


「雑」


「生きてるから雑でもいいだろ」


 その言葉に、何人かが小さく笑った。


 弱い笑いだった。


 けれど、たしかにそこにあった。



 剣士が、改めてミラを見る。


「俺も、お前の歌好きだぜ」


 真っ直ぐだった。


 嘘がない。


 戦場の礼でもない。


 能力への評価でもない。


 ただ、歌への言葉だった。


 ミラの喉が震える。


「……そ」


 それだけしか出ない。


 剣士は少し照れたように続けた。


「今度さ」


「何」


「結婚するんだ」


 周囲が一瞬静かになり、それから小さくざわついた。


「生き延びたらな」


 誰かが茶化す。


 剣士は即答した。


「いや、する」


 その声だけは、はっきりしていた。


「生き延びたら、じゃない」


 剣を杖代わりにして立つ。


「生きて、する」


 ミラは目を見開いた。


 剣士は、気まずそうに鼻の下をこする。


「その時、お祝いに来てくれねえか?」


 少しだけ間が空く。


 ミラの目に、涙が滲んだ。


 今度は、さっきとは違う意味の涙だった。


「……もちろん」


 声が震える。


 でも、笑えた。


 ちゃんと、笑えた。


「行くよ」


「歌ってくれるか」


「高いわよ」


「命の恩人価格で頼む」


「それ、割引じゃなくて割増でしょ」


 周囲に、また笑いが起きる。


 小さい。


 壊れかけた笑い。


 でも、生きている音だった。



 焚き火が灯った。


 夜の砂漠に、薄い橙色の光が揺れる。


 戦いの匂いは、まだ消えない。

 灰の膜も、まだ遠くにある。

 明日が安全になったわけではない。


 それでも、空気は少し柔らかかった。


 コムギが水の残量を数えながら、剣士たちへ小さな乾いたパンを配っている。


「食べてください。明日も足が必要です」


「味は?」


「生きる味です」


「つまりまずいのか」


「文句言う元気があるなら食べられます!」


 フィーは負傷者の呼吸を一人ずつ見て回っている。


 ガルドは盾のそばで座り、目を閉じている。


 眠ってはいない。


 ただ、休んでいる。


 クラウスは灰界の方向を見ていた。


 何も言わない。


 その静けさが、まだ終わっていないことを示している。



 トンヌラは、少し離れた場所に立っていた。


 腕を組んでいる。


 何も言わない。


 ただ、見ている。


 ミラが笑っている。

 剣士が生きている。

 冒険者たちが、弱い声で冗談を言っている。

 コムギが怒っている。

 フィーが少しだけ安心した顔をしている。


(悪くない)


 小さく、そう思った。


 勝利ではない。


 終わりでもない。


 だが、悪くない夜だった。



 その時。


 ぽめが、ぱちりと目を開けた。


 今までと違う。


 ゆっくりと、丸い身体を起こす。


「……」


 トンヌラの視線が、そちらへ向いた。


 空気が、わずかに冷える。


 遠く。


 砂漠の奥で。


 微かな振動。


 耳では聞こえない。


 目でも見えない。


 だが、何かが動いた。


 まだ誰も気づかない。


 クラウスも、ほんの少し遅れて眉を寄せるだけだった。


 だが――。


 ぽめは、知っている。



「……くぁ」


 小さなあくび。


 そして、また丸くなる。


 何事もなかったかのように。


 トンヌラだけが、空を見上げた。


 星は変わらない。


 砂漠の夜も変わらない。


 焚き火の明かりも、笑い声も、疲れ切った呼吸も、そこにある。


 だが。


 何かが、動き始めている。



 クラウスが、静かに近づいてきた。


「気づきましたか」


「何にだ」


「今、何かが起きました」


「分からん」


 トンヌラは正直に答えた。


「だが、嫌な感じはした」


「十分です」


 クラウスは灰界の向こうを見る。


「次は、もっと露骨に来るでしょうね」


「そうか」


「怖くありませんか」


「怖いな」


 即答だった。


 クラウスは薄く笑う。


「最近、正直ですね」


「隠しても仕方ない」


 トンヌラは、焚き火の方を見る。


「それでも、今は寝る」


「合理的です」


「褒めてるのか」


「かなり」


 ぽめが寝息を立てる。


「……すぴ」


 緊張感のない音が、砂漠に混じった。


 ミラの音とは違う。


 だが、それもまた、この夜の拍の一部だった。



 ここはレイアノーティア。


 勝利は終わりではない。


 ただ、次の波の前の静寂だ。


 それでも。


 静かな夜に笑えたなら、

 その一日は、確かに守られたのだ。



 第97話 了


第9章 完

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