第97話 静かな勝利
ここはレイアノーティア。
勝利は、必ずしも歓声ではない。
叫べるほどの力が残っていない時もある。
笑えるほど、心が追いつかない時もある。
それでも。
生きている。
その事実だけで、夜を越えられる日がある。
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最後の波が引いた。
灰色の膜から溢れていた魔物たちが、砂の向こうへ退いていく。
追撃する者はいなかった。
追えなかった。
前線の誰もが、立っているだけで限界だった。
剣士は膝に手をつき、荒く息を吐いている。
槍使いは砂の上に座り込み、武器を抱えたまま動けない。
魔術師は杖に体重を預け、目を閉じている。
盾役は、盾を下ろすことすら忘れていた。
グレイフィールドは、まだ消えていない。
灰色の揺らぎは、地平線の向こうで薄く脈打っている。
勝ったわけではない。
ただ、今日の波が終わっただけだ。
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ガルドが盾を下ろした。
「……今日は、ここまでです」
低い声だった。
だが、その声にも疲労が滲んでいる。
大盾の表面には、新しい傷がいくつも刻まれていた。
コムギがその場に座り込む。
「補給、残り一割……」
リュックの中を見て、顔をしかめる。
「明日も来るなら、まずいです」
「明日の心配は、明日する」
トンヌラが言う。
「それ、補給担当としては困ります!」
「なら今しろ」
「今するから困ってるんです!」
コムギは怒る元気だけは少し残っていた。
それを見て、フィーが小さく笑う。
彼女も膝をついていた。
顔色はまだ悪い。
それでも、周囲の命の流れを確かめるように視線を動かしている。
「誰も、欠けてない……ですよね?」
その問いに、すぐ答える者はいなかった。
全員が、少し遅れて周囲を見る。
倒れている者はいる。
呻いている者もいる。
立てない者もいる。
だが。
息はある。
フィーは胸に手を当て、ゆっくり息を吐いた。
「……よかった」
⸻
剣士が、砂の上に大の字になった。
「生きてる……な」
隣の魔術師が、片手を上げる。
「なんとか」
槍使いが笑おうとして、咳き込んだ。
「笑う体力もねえ」
「じゃあ黙ってろ」
「それもきつい」
弱い会話だった。
だが、昨日までの沈黙とは違う。
生き残った者の声が、砂漠に少しずつ戻ってきていた。
⸻
ミラは立ったまま、ギターを抱えていた。
音はもう止まっている。
けれど、指先はまだ震えている。
弦の感触が消えない。
救世響鳴。
その音が、まだ身体の奥で鳴っている気がした。
戦場を支配した。
たしかに、そうだった。
でも、勝ったわけではない。
誰かを完全に救えたわけでもない。
ただ、死に向かっていた拍を、生きて越える拍へ変えた。
その事実が、重く胸に残っている。
⸻
昨日の剣士が、ゆっくり起き上がった。
肩の包帯は赤く滲んでいる。
足取りはふらついていた。
それでも、ミラの前まで歩いてくる。
「……悪かったな」
ぽつりと言った。
ミラは瞬きをする。
「何が」
「昨日」
剣士は頭を掻く。
「今は歌じゃないって言った」
ミラは視線を逸らす。
「ああ、あれ」
「余裕なくてさ」
剣士は苦く笑った。
「冷たいこと言っちまった」
「別に」
ミラは軽く言おうとした。
けれど、声が思ったより柔らかくなった。
「間違ってはなかったし」
「そうかもしれねえ」
剣士は、砂の上に座り込んでいる仲間たちを見た。
「でも、今日のあれは歌だった」
ミラの指が止まる。
剣士は真っ直ぐ言う。
「あれで、俺たちは足が出た」
少し照れくさそうに笑う。
「希望が見えたっていうか、まあ、そんな綺麗なもんじゃねえけど」
言葉を探す。
「死ぬ方じゃなくて、生きる方に足が出た」
ミラは何も言えなかった。
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魔術師も、少し離れた場所から言う。
「正直、怖かったんだ」
声は弱い。
「昨日も今日も、ずっと」
彼は杖を抱えたまま、目を伏せる。
「でも、音が鳴ってる間は、自分の呼吸がどこにあるか分かった」
槍使いが笑う。
「俺は単純に、足が勝手に合った」
「それ、褒めてる?」
ミラが聞く。
「褒めてる」
「雑」
「生きてるから雑でもいいだろ」
その言葉に、何人かが小さく笑った。
弱い笑いだった。
けれど、たしかにそこにあった。
⸻
剣士が、改めてミラを見る。
「俺も、お前の歌好きだぜ」
真っ直ぐだった。
嘘がない。
戦場の礼でもない。
能力への評価でもない。
ただ、歌への言葉だった。
ミラの喉が震える。
「……そ」
それだけしか出ない。
剣士は少し照れたように続けた。
「今度さ」
「何」
「結婚するんだ」
周囲が一瞬静かになり、それから小さくざわついた。
「生き延びたらな」
誰かが茶化す。
剣士は即答した。
「いや、する」
その声だけは、はっきりしていた。
「生き延びたら、じゃない」
剣を杖代わりにして立つ。
「生きて、する」
ミラは目を見開いた。
剣士は、気まずそうに鼻の下をこする。
「その時、お祝いに来てくれねえか?」
少しだけ間が空く。
ミラの目に、涙が滲んだ。
今度は、さっきとは違う意味の涙だった。
「……もちろん」
声が震える。
でも、笑えた。
ちゃんと、笑えた。
「行くよ」
「歌ってくれるか」
「高いわよ」
「命の恩人価格で頼む」
「それ、割引じゃなくて割増でしょ」
周囲に、また笑いが起きる。
小さい。
壊れかけた笑い。
でも、生きている音だった。
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焚き火が灯った。
夜の砂漠に、薄い橙色の光が揺れる。
戦いの匂いは、まだ消えない。
灰の膜も、まだ遠くにある。
明日が安全になったわけではない。
それでも、空気は少し柔らかかった。
コムギが水の残量を数えながら、剣士たちへ小さな乾いたパンを配っている。
「食べてください。明日も足が必要です」
「味は?」
「生きる味です」
「つまりまずいのか」
「文句言う元気があるなら食べられます!」
フィーは負傷者の呼吸を一人ずつ見て回っている。
ガルドは盾のそばで座り、目を閉じている。
眠ってはいない。
ただ、休んでいる。
クラウスは灰界の方向を見ていた。
何も言わない。
その静けさが、まだ終わっていないことを示している。
⸻
トンヌラは、少し離れた場所に立っていた。
腕を組んでいる。
何も言わない。
ただ、見ている。
ミラが笑っている。
剣士が生きている。
冒険者たちが、弱い声で冗談を言っている。
コムギが怒っている。
フィーが少しだけ安心した顔をしている。
(悪くない)
小さく、そう思った。
勝利ではない。
終わりでもない。
だが、悪くない夜だった。
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その時。
ぽめが、ぱちりと目を開けた。
今までと違う。
ゆっくりと、丸い身体を起こす。
「……」
トンヌラの視線が、そちらへ向いた。
空気が、わずかに冷える。
遠く。
砂漠の奥で。
微かな振動。
耳では聞こえない。
目でも見えない。
だが、何かが動いた。
まだ誰も気づかない。
クラウスも、ほんの少し遅れて眉を寄せるだけだった。
だが――。
ぽめは、知っている。
⸻
「……くぁ」
小さなあくび。
そして、また丸くなる。
何事もなかったかのように。
トンヌラだけが、空を見上げた。
星は変わらない。
砂漠の夜も変わらない。
焚き火の明かりも、笑い声も、疲れ切った呼吸も、そこにある。
だが。
何かが、動き始めている。
⸻
クラウスが、静かに近づいてきた。
「気づきましたか」
「何にだ」
「今、何かが起きました」
「分からん」
トンヌラは正直に答えた。
「だが、嫌な感じはした」
「十分です」
クラウスは灰界の向こうを見る。
「次は、もっと露骨に来るでしょうね」
「そうか」
「怖くありませんか」
「怖いな」
即答だった。
クラウスは薄く笑う。
「最近、正直ですね」
「隠しても仕方ない」
トンヌラは、焚き火の方を見る。
「それでも、今は寝る」
「合理的です」
「褒めてるのか」
「かなり」
ぽめが寝息を立てる。
「……すぴ」
緊張感のない音が、砂漠に混じった。
ミラの音とは違う。
だが、それもまた、この夜の拍の一部だった。
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ここはレイアノーティア。
勝利は終わりではない。
ただ、次の波の前の静寂だ。
それでも。
静かな夜に笑えたなら、
その一日は、確かに守られたのだ。
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第97話 了
第9章 完




