第95話 救世響鳴(レゾナンス・オブ・エクソダス)
ここはレイアノーティア。
希望がなくても、戦いは終わらない。
明日が見えなくても。
勝てる理由がなくても。
誰かが前に立っている限り、戦場は続く。
だから時々、人は希望ではなく、別のものを必要とする。
呼吸。
拍。
隣にいる誰かの足音。
まだ、自分は崩れていないと知るための音を。
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翌朝。
グレイフィールドは、まだ砂漠の端にあった。
昨日よりも薄くなっているようには見えない。
灰色の膜は、地平線を歪ませたまま、ゆっくりと脈打っている。
その奥から、魔物が現れる。
止まらない。
数は減らない。
質も落ちない。
むしろ、前線に立つ者たちの方が削られている。
剣士の腕は重い。
盾役の足は沈む。
魔術師の喉は枯れ、弓手の指には布が巻かれている。
それでも、誰も退かなかった。
⸻
「押し返せ!」
隊長格の男が叫ぶ。
だが、押し返せない。
魔物の爪が盾を叩く。
灰色の膜をまとった獣が、砂を蹴って飛び込んでくる。
ガルドが中央で受けた。
大盾が軋む。
赤い気配が、静かに広がる。
「まだ、前は崩しません」
低い声。
だが、声の奥に疲労が混じっている。
ガルドがいなければ、もう前線は壊れている。
それは、誰の目にも明らかだった。
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コムギが後方を走る。
「水分切らさないで!」
倒れかけた剣士に水袋を渡す。
「塩も! 足が動かなくなる前に!」
フィーは膝をつき、負傷者の胸に手を当てている。
「呼吸、合っています」
声は細い。
だが、確かだった。
「崩れないで。まだ戻れます」
クラウスは砂の流れを見ている。
「左側、沈みます」
指が動く。
「そこは踏まないでください。右へ流す」
トンヌラは前線を見ていた。
腕を組んだまま。
何もできないわけではない。
だが、前には出られない。
それはもう、彼自身が一番よく分かっている。
⸻
ミラは、後方でギターを構えていた。
弦に指を置く。
昨日よりも指先が痛い。
それでも、鳴らす。
戦闘のテンポ。
踏み込みの間合い。
退くタイミング。
盾が上がる瞬間。
詠唱が守られる間。
全部を拾う。
全部を揃える。
戦場の呼吸が、少しずつ整っていく。
だが、音が重い。
自分でも分かる。
これは、能力だ。
《拍動支配者》としての力。
役に立つ。
確かに役に立っている。
けれど。
(これは音楽じゃない)
ただの補助だ。
戦場に必要な、便利な拍。
誰かの死を少し遅らせるための、正確な道具。
⸻
魔物が前線へ食い込む。
若い剣士が弾かれ、砂の上を転がった。
ガルドが盾を広げ、穴を塞ぐ。
「中央へ寄ってください!」
隊長格の男が叫ぶ。
「穴を作るな!」
ミラは弦を強く弾く。
乱れた呼吸を戻す。
盾役が半歩戻る。
槍使いがその隙間を突く。
魔術師が短い詠唱で火球を放つ。
魔物が一体、倒れる。
だがすぐに次が来る。
希望などない。
流れが少し良くなったところで、勝てるわけではない。
それでも、音を止めれば崩れる。
だからミラは弾き続ける。
⸻
その時。
昨日の剣士が、前線から振り返った。
肩に包帯。
額から血。
片目の周りに、青黒い痣。
それでも、彼は笑っていた。
「なあ、ミラ!」
魔物の咆哮が迫る。
盾が鳴る。
砂が弾ける。
それでも、その声だけは届いた。
「俺が死んだらさ!」
冗談のような口調だった。
だが、目は冗談ではなかった。
死を、見ている目だった。
「天国に行ける歌、歌ってくれねえか!」
ミラの指が止まりかけた。
音が乱れる。
前線の呼吸が、一瞬だけずれた。
「……やだ」
声が漏れた。
自分でも驚くほど、弱い声だった。
剣士は笑っている。
「頼むよ。せめて景気よく送ってくれ」
「やだ」
今度は、はっきり言った。
涙が落ちる。
「死なせない」
ミラは歯を食いしばる。
弦を鳴らす。
合わせる。
必死に。
盾の拍。
剣の拍。
恐怖の拍。
全部を揃える。
けれど、まだ足りない。
整えているだけだ。
死へ向かう列を、少し綺麗に並べているだけだ。
そんな気がしてしまう。
⸻
クラウスが、トンヌラの横に立った。
目は前線へ向けたまま。
「まだ、ミラさんの真価は発揮されていません」
淡々とした声だった。
「今の彼女は、戦場の拍を整えているだけです」
「だけ、か」
「重要です」
クラウスはすぐに言う。
「ですが、彼女の音楽ではない」
トンヌラはミラを見る。
涙を流しながら、弾いている。
必死に。
正確に。
役に立つ音を。
昨日、歌った女と同じ指で。
「あなたなら、もう一歩進められる」
クラウスが言った。
トンヌラは鼻で笑う。
「簡単に言うな」
「簡単ではありません」
「だろうな」
トンヌラは前へ出た。
だがトンヌラ自身も、ミラを見て1つの答えに辿り着いていた。
ミラの隣に立つ。
⸻
魔物の咆哮。
盾の衝撃。
砂嵐。
前線の怒号。
その中で、トンヌラは言う。
「ミラ」
彼女は顔を上げない。
涙を流しながら、弦を刻み続けている。
「やりたいことをやれ」
ミラの指が、わずかに止まる。
「今、それ言う?」
「今だ」
「戦場よ」
「知っている」
「人が死ぬかもしれないのよ」
「だからだ」
トンヌラの声は低い。
「お前は、死んだ後に歌いたいのか」
ミラの目が見開かれる。
弦が震えた。
「違うだろ」
トンヌラは続ける。
「生きているうちに聴かせたいんだろ」
ミラの喉が詰まる。
前線で剣士が叫ぶ。
「くそっ、来るぞ!」
ガルドが盾を構える。
赤い気配が揺れる。
トンヌラは、ミラを見る。
「表現しろ」
その言葉は、命令のようでいて、違った。
戦術ではない。
補助でもない。
役割でもない。
「俺がお前の歌を好きなように」
まっすぐに言う。
「お前も、お前の音楽を好きでいていい」
⸻
世界の音が変わった。
剣と盾の衝突音。
魔物の唸り。
砂を踏む足音。
荒い呼吸。
誰かの悲鳴。
コムギの叫び。
フィーの祈るような声。
ガルドの盾が受ける鈍い音。
全部が、音だった。
戦場の雑音ではない。
そこに生きている者たちの音だった。
(希望がなくてもいい)
ミラは息を吸う。
(救える保証なんてなくていい)
涙を拭わない。
(それでも)
ギターを構える。
今度は、戦場に合わせるためではない。
戦場を、自分の音へ引き込むために。
「戦場を――」
声が震える。
それでも、止まらない。
「支配する!」
⸻
ミラがギターを掻き鳴らした。
強く。
荒々しく。
綺麗ではない。
整ってもいない。
だが、確かにミラの音だった。
クラウスの瞳が細まる。
赤でも黒でもない糸が見える。
糸というより、波。
戦場の意味そのものが、音に引かれて形を変えようとしている。
クラウスは、そっと指を動かした。
ほんの少しだけ、因果をずらす。
解釈を変える。
音が、ただの補助ではなくなるように。
世界が、意味を追いかける。
⸻
トンヌラは腕を組んだ。
いつものように。
だが、その声は今までより静かだった。
「お前の音は、逃げるための鎮魂歌じゃない」
ミラの音が、さらに強くなる。
「生きてここを越えるための、脱出の拍だ」
砂漠の空気が震える。
トンヌラは言った。
「鳴らせ」
弦が、もう一段深く鳴った。
「お前の歌は救世響鳴だ」
⸻
音が爆ぜた。
目に見えない波が、一気に戦場を走る。
その音は、剣を握る者へ。
盾を構える者へ。
詠唱を続ける者へ。
倒れかけた者へ。
生きてここを越えたいと願う者たちへ、届いた。
魔物の動きがずれる。
踏み込みが合わない。
咆哮が重ならない。
爪を振るう瞬間が半端に遅れる。
突進の呼吸が乱れる。
攻撃意思そのものが、ぶれる。
同時に。
冒険者たちの呼吸が、綺麗に重なった。
鼓動が揃う。
足運びが一致する。
誰が先に出るか。
誰が受けるか。
誰が下がるか。
誰が隙間を突くか。
言葉にしなくても、分かる。
音が、戦場の中に道を作っている。
⸻
剣士が叫んだ。
「……いける!」
さっきとは違う声だった。
希望が見えたわけではない。
勝利が約束されたわけでもない。
それでも。
足が出る。
ガルドが咆哮と共に、さらに前へ出た。
盾を構え直す。
「まだ守れます」
剣士が笑う。
「天国の歌、いらねえな!」
ミラは弾き続ける。
涙は止まらない。
だが、声は強い。
「生きろ!」
弦が鳴る。
「合わせろ!」
音が走る。
「進め!」
それは勇気の歌ではなかった。
絶望の中で、自分の足を動かすための音だった。
⸻
魔物の群れが、押し返される。
砂が舞う。
灰色の膜をまとった影が、一歩、また一歩と後退する。
魔術師の火球が通る。
槍使いの突きが噛み合う。
剣士の踏み込みが深くなる。
ガルドの盾が、前へ進む。
戦場の主導権が、こちらへ傾く。
ほんのわずか。
だが、確かに。
⸻
トンヌラは、確信していた。
戦況を変えたのは、能力だけではない。
ミラが、自分の音を好きでいると選んだ。
戦場でも歌うと選んだ。
その意志そのものが、戦場の意味を変えた。
ミラは、ただ支援しているのではない。
戦場の中で、生きて抜ける拍を鳴らしている。
⸻
灰界はまだ消えない。
魔物もまだ湧く。
勝ったわけではない。
それでも、流れは変わった。
誰かが叫ぶ。
「押せ!」
前線が応える。
ガルドの盾が前に出る。
ミラの音が、砂漠に響く。
ぽめが、後方で丸いまま耳を少し動かした。
「……くぁ」
その音すら、なぜか拍の中に混じっていた。
⸻
ここはレイアノーティア。
希望がなくても、選べる。
音楽は救いではない。
だが――。
戦場を、支配できる。
⸻
第95話 了




