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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第9章 役に立たない場所の歌

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第95話 救世響鳴(レゾナンス・オブ・エクソダス)

 ここはレイアノーティア。

 希望がなくても、戦いは終わらない。


 明日が見えなくても。

 勝てる理由がなくても。

 誰かが前に立っている限り、戦場は続く。


 だから時々、人は希望ではなく、別のものを必要とする。


 呼吸。

 拍。

 隣にいる誰かの足音。


 まだ、自分は崩れていないと知るための音を。



 翌朝。


 グレイフィールドは、まだ砂漠の端にあった。


 昨日よりも薄くなっているようには見えない。


 灰色の膜は、地平線を歪ませたまま、ゆっくりと脈打っている。


 その奥から、魔物が現れる。


 止まらない。


 数は減らない。

 質も落ちない。


 むしろ、前線に立つ者たちの方が削られている。


 剣士の腕は重い。

 盾役の足は沈む。

 魔術師の喉は枯れ、弓手の指には布が巻かれている。


 それでも、誰も退かなかった。



「押し返せ!」


 隊長格の男が叫ぶ。


 だが、押し返せない。


 魔物の爪が盾を叩く。


 灰色の膜をまとった獣が、砂を蹴って飛び込んでくる。


 ガルドが中央で受けた。


 大盾が軋む。


 赤い気配が、静かに広がる。


「まだ、前は崩しません」


 低い声。


 だが、声の奥に疲労が混じっている。


 ガルドがいなければ、もう前線は壊れている。


 それは、誰の目にも明らかだった。



 コムギが後方を走る。


「水分切らさないで!」


 倒れかけた剣士に水袋を渡す。


「塩も! 足が動かなくなる前に!」


 フィーは膝をつき、負傷者の胸に手を当てている。


「呼吸、合っています」


 声は細い。


 だが、確かだった。


「崩れないで。まだ戻れます」


 クラウスは砂の流れを見ている。


「左側、沈みます」


 指が動く。


「そこは踏まないでください。右へ流す」


 トンヌラは前線を見ていた。


 腕を組んだまま。


 何もできないわけではない。


 だが、前には出られない。


 それはもう、彼自身が一番よく分かっている。



 ミラは、後方でギターを構えていた。


 弦に指を置く。


 昨日よりも指先が痛い。


 それでも、鳴らす。


 戦闘のテンポ。

 踏み込みの間合い。

 退くタイミング。

 盾が上がる瞬間。

 詠唱が守られる間。


 全部を拾う。


 全部を揃える。


 戦場の呼吸が、少しずつ整っていく。


 だが、音が重い。


 自分でも分かる。


 これは、能力だ。


 《拍動支配者リズム・ドミネーター》としての力。


 役に立つ。


 確かに役に立っている。


 けれど。


(これは音楽じゃない)


 ただの補助だ。


 戦場に必要な、便利な拍。


 誰かの死を少し遅らせるための、正確な道具。



 魔物が前線へ食い込む。


 若い剣士が弾かれ、砂の上を転がった。


 ガルドが盾を広げ、穴を塞ぐ。


「中央へ寄ってください!」


 隊長格の男が叫ぶ。


「穴を作るな!」


 ミラは弦を強く弾く。


 乱れた呼吸を戻す。


 盾役が半歩戻る。

 槍使いがその隙間を突く。

 魔術師が短い詠唱で火球を放つ。


 魔物が一体、倒れる。


 だがすぐに次が来る。


 希望などない。


 流れが少し良くなったところで、勝てるわけではない。


 それでも、音を止めれば崩れる。


 だからミラは弾き続ける。



 その時。


 昨日の剣士が、前線から振り返った。


 肩に包帯。

 額から血。

 片目の周りに、青黒い痣。


 それでも、彼は笑っていた。


「なあ、ミラ!」


 魔物の咆哮が迫る。


 盾が鳴る。


 砂が弾ける。


 それでも、その声だけは届いた。


「俺が死んだらさ!」


 冗談のような口調だった。


 だが、目は冗談ではなかった。


 死を、見ている目だった。


「天国に行ける歌、歌ってくれねえか!」


 ミラの指が止まりかけた。


 音が乱れる。


 前線の呼吸が、一瞬だけずれた。


「……やだ」


 声が漏れた。


 自分でも驚くほど、弱い声だった。


 剣士は笑っている。


「頼むよ。せめて景気よく送ってくれ」


「やだ」


 今度は、はっきり言った。


 涙が落ちる。


「死なせない」


 ミラは歯を食いしばる。


 弦を鳴らす。


 合わせる。


 必死に。


 盾の拍。

 剣の拍。

 恐怖の拍。


 全部を揃える。


 けれど、まだ足りない。


 整えているだけだ。


 死へ向かう列を、少し綺麗に並べているだけだ。


 そんな気がしてしまう。



 クラウスが、トンヌラの横に立った。


 目は前線へ向けたまま。


「まだ、ミラさんの真価は発揮されていません」


 淡々とした声だった。


「今の彼女は、戦場の拍を整えているだけです」


「だけ、か」


「重要です」


 クラウスはすぐに言う。


「ですが、彼女の音楽ではない」


 トンヌラはミラを見る。


 涙を流しながら、弾いている。


 必死に。

 正確に。

 役に立つ音を。


 昨日、歌った女と同じ指で。


「あなたなら、もう一歩進められる」


 クラウスが言った。


 トンヌラは鼻で笑う。


「簡単に言うな」


「簡単ではありません」


「だろうな」


 トンヌラは前へ出た。


だがトンヌラ自身も、ミラを見て1つの答えに辿り着いていた。


 ミラの隣に立つ。



 魔物の咆哮。


 盾の衝撃。


 砂嵐。


 前線の怒号。


 その中で、トンヌラは言う。


「ミラ」


 彼女は顔を上げない。


 涙を流しながら、弦を刻み続けている。


「やりたいことをやれ」


 ミラの指が、わずかに止まる。


「今、それ言う?」


「今だ」


「戦場よ」


「知っている」


「人が死ぬかもしれないのよ」


「だからだ」


 トンヌラの声は低い。


「お前は、死んだ後に歌いたいのか」


 ミラの目が見開かれる。


 弦が震えた。


「違うだろ」


 トンヌラは続ける。


「生きているうちに聴かせたいんだろ」


 ミラの喉が詰まる。


 前線で剣士が叫ぶ。


「くそっ、来るぞ!」


 ガルドが盾を構える。


 赤い気配が揺れる。


 トンヌラは、ミラを見る。


「表現しろ」


 その言葉は、命令のようでいて、違った。


 戦術ではない。

 補助でもない。

 役割でもない。


「俺がお前の歌を好きなように」


 まっすぐに言う。


「お前も、お前の音楽を好きでいていい」



 世界の音が変わった。


 剣と盾の衝突音。

 魔物の唸り。

 砂を踏む足音。

 荒い呼吸。

 誰かの悲鳴。

 コムギの叫び。

 フィーの祈るような声。

 ガルドの盾が受ける鈍い音。


 全部が、音だった。


 戦場の雑音ではない。


 そこに生きている者たちの音だった。


(希望がなくてもいい)


 ミラは息を吸う。


(救える保証なんてなくていい)


 涙を拭わない。


(それでも)


 ギターを構える。


 今度は、戦場に合わせるためではない。


 戦場を、自分の音へ引き込むために。


「戦場を――」


 声が震える。


 それでも、止まらない。


「支配する!」



 ミラがギターを掻き鳴らした。


 強く。


 荒々しく。


 綺麗ではない。


 整ってもいない。


 だが、確かにミラの音だった。


 クラウスの瞳が細まる。


 赤でも黒でもない糸が見える。


 糸というより、波。


 戦場の意味そのものが、音に引かれて形を変えようとしている。


 クラウスは、そっと指を動かした。


 ほんの少しだけ、因果をずらす。


 解釈を変える。


 音が、ただの補助ではなくなるように。


 世界が、意味を追いかける。



 トンヌラは腕を組んだ。


 いつものように。


 だが、その声は今までより静かだった。


「お前の音は、逃げるための鎮魂歌じゃない」


 ミラの音が、さらに強くなる。


「生きてここを越えるための、脱出の拍だ」


 砂漠の空気が震える。


 トンヌラは言った。


「鳴らせ」


 弦が、もう一段深く鳴った。


「お前の歌は救世響鳴レゾナンス・オブ・エクソダスだ」



 音が爆ぜた。


 目に見えない波が、一気に戦場を走る。


 その音は、剣を握る者へ。

 盾を構える者へ。

 詠唱を続ける者へ。

 倒れかけた者へ。


 生きてここを越えたいと願う者たちへ、届いた。


 魔物の動きがずれる。


 踏み込みが合わない。

 咆哮が重ならない。

 爪を振るう瞬間が半端に遅れる。

 突進の呼吸が乱れる。


 攻撃意思そのものが、ぶれる。


 同時に。


 冒険者たちの呼吸が、綺麗に重なった。


 鼓動が揃う。


 足運びが一致する。


 誰が先に出るか。

 誰が受けるか。

 誰が下がるか。

 誰が隙間を突くか。


 言葉にしなくても、分かる。


 音が、戦場の中に道を作っている。



 剣士が叫んだ。


「……いける!」


 さっきとは違う声だった。


 希望が見えたわけではない。


 勝利が約束されたわけでもない。


 それでも。


 足が出る。


 ガルドが咆哮と共に、さらに前へ出た。


 盾を構え直す。


「まだ守れます」


 剣士が笑う。


「天国の歌、いらねえな!」


 ミラは弾き続ける。


 涙は止まらない。


 だが、声は強い。


「生きろ!」


 弦が鳴る。


「合わせろ!」


 音が走る。


「進め!」


 それは勇気の歌ではなかった。


 絶望の中で、自分の足を動かすための音だった。



 魔物の群れが、押し返される。


 砂が舞う。


 灰色の膜をまとった影が、一歩、また一歩と後退する。


 魔術師の火球が通る。

 槍使いの突きが噛み合う。

 剣士の踏み込みが深くなる。

 ガルドの盾が、前へ進む。


 戦場の主導権が、こちらへ傾く。


 ほんのわずか。


 だが、確かに。



 トンヌラは、確信していた。


 戦況を変えたのは、能力だけではない。


 ミラが、自分の音を好きでいると選んだ。


 戦場でも歌うと選んだ。


 その意志そのものが、戦場の意味を変えた。


 ミラは、ただ支援しているのではない。


 戦場の中で、生きて抜ける拍を鳴らしている。



 灰界はまだ消えない。


 魔物もまだ湧く。


 勝ったわけではない。


 それでも、流れは変わった。


 誰かが叫ぶ。


「押せ!」


 前線が応える。


 ガルドの盾が前に出る。


 ミラの音が、砂漠に響く。


 ぽめが、後方で丸いまま耳を少し動かした。


「……くぁ」


 その音すら、なぜか拍の中に混じっていた。



 ここはレイアノーティア。


 希望がなくても、選べる。


 音楽は救いではない。


 だが――。


 戦場を、支配できる。



 第95話 了

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