第94話 今は歌じゃない
第94話 今は歌じゃない
ここはレイアノーティア。
正しさは、時に優しくない。
誰かを責めるためではなく。
誰かの価値を否定するためでもなく。
ただ、今は違う。
その一言だけで、胸の奥にあるものが静かに削られることがある。
⸻
その日の戦闘は、辛うじて凌いだ。
勝利ではない。
グレイフィールドは消えていない。
魔物を殲滅したわけでもない。
ただ、日が傾き、波が引いた。
今日はここまで。
それだけだった。
⸻
砂はまだ熱を持っている。
血の匂い。
灰の匂い。
乾いた汗の匂い。
焚き火の周りで、冒険者たちが無言で水を飲んでいた。
鎧は欠けている。
剣は鈍っている。
盾には新しい傷が増えている。
誰も死ななかった。
だが、誰も笑っていない。
生き残ったことと、勝ったことは違う。
その違いを、全員が身体で理解していた。
⸻
ミラは少し離れた場所に座っていた。
ギターを抱えたまま。
指先はまだ熱い。
弦を押さえていた場所が、じんじんと痛む。
戦闘中、何度も拍を刻んだ。
盾の上がるタイミング。
剣士の踏み込み。
魔術師の詠唱。
ガルドが盾を構える間。
全部、合わせた。
合わせられた。
その結果、前線は崩れなかった。
けれど。
胸の奥は、晴れなかった。
⸻
「……さっきの、助かった」
声がした。
昨日から前線に立ち続けていた剣士の男だった。
肩に包帯を巻き、片手に水袋を持っている。
顔には疲労が濃い。
それでも、彼はミラの前に立った。
「動きが揃った。あれがなきゃ、何人か死んでた」
事実として言っている。
飾りも、慰めもない。
ミラは軽く笑った。
「でしょ?」
いつもの調子で返したつもりだった。
だが、喉が乾いている。
笑い声が、少しだけ薄い。
剣士は小さく頷く。
「でもな」
焚き火が、ぱちりと弾けた。
「今は、歌じゃない」
優しい声だった。
責めてはいない。
否定もしていない。
ただ、現実を言っているだけだった。
「戦場だ。命がかかってる」
剣士は、焚き火の向こうで横になっている仲間を見る。
「鼓舞とか、夢とか、そういうのは……余裕ができてからでいい」
ミラの指が、ギターの弦を強く握った。
「……そっか」
うまく笑えた。
たぶん。
「今日はありがとう」
剣士はそう言って、焚き火の方へ戻っていった。
会話は、それで終わった。
⸻
夜が深まる。
砂丘の上。
ミラは一人で座っていた。
焚き火の明かりは遠い。
仲間たちの声も、前線の冒険者たちの低い会話も、風に薄く混じっている。
ミラはギターを抱えたまま、砂を見ていた。
(今は、歌じゃない)
その言葉が、頭の中で何度も鳴る。
間違っていない。
戦場の呼吸は揃えられる。
踏み込みの間合いも読める。
退くタイミングも、詠唱を守る拍も分かる。
それは役に立つ。
確かに役に立つ。
けれど、それは音楽ではない。
職業の力だ。
《拍動支配者》としての能力。
戦場で必要とされる、便利な力。
(私の歌は……何だ)
風が砂を流した。
答えはない。
⸻
足音がした。
誰かが近づいてくる。
振り向かなくても分かった。
トンヌラだった。
彼は何も言わず、ミラの隣に座った。
腕は組んでいない。
珍しい。
しばらく、二人は何も言わなかった。
砂漠の夜は広い。
星は遠い。
その遠さが、少しだけ救いのようにも思えた。
⸻
先に口を開いたのは、ミラだった。
「戦場の呼吸は揃えられる」
砂を見つめたまま言う。
「盾の上げ下げも、剣の踏み込みも、魔術師の詠唱も」
指先で、弦を軽く弾く。
音は鳴らない。
「でも、それは音楽じゃない」
トンヌラは黙って聞いている。
ミラは、焚き火の方を見た。
肩に包帯を巻いた剣士。
水袋を抱えたまま眠りかけている槍使い。
杖を握ったまま、目を閉じている魔術師。
明日も、あの人たちは前に立つ。
勝てるかどうかも分からない場所に。
「ねえ」
声が、少しだけ弱くなる。
「音楽で、あの人たちは救えないのかな」
世界、とは言わなかった。
そんな大きな話ではなかった。
今、焚き火のそばで黙って水を飲んでいる人たち。
明日また死ぬかもしれないのに、逃げずにいる人たち。
さっき「今は歌じゃない」と言った人たち。
その人たちのことだった。
「私の音は、動きは揃えられる」
ミラはギターを抱く手に力を込める。
「でも、怖さは消せない」
「明日を保証できない」
「死なないって約束もできない」
唇を噛む。
「それでも、歌で何かできるって思いたいの」
風が砂を流す。
「でも、今は歌じゃないって言われたらさ」
ミラは小さく笑った。
笑えていなかった。
「何も言い返せなかった」
トンヌラは、焚き火の方を見た。
誰も笑っていない。
誰も勝った顔をしていない。
けれど、誰も完全には折れていない。
「救えるかどうかは知らん」
いつものように、正直だった。
ミラが横目で見る。
「そこは少し優しいこと言いなさいよ」
「知らんものは知らん」
「ほんと、そういうとこ」
「だが」
トンヌラは砂を掴んだ。
指の間から、細かい砂がこぼれる。
「今日、お前の音がなかったら、あいつらはもっと早く崩れていた」
ミラは黙る。
「それを救いと呼ぶかは知らん」
トンヌラは続ける。
「だが、少なくとも、あいつらはお前の音で立っていた」
焚き火が、遠くで揺れる。
「それで足りないのか」
ミラは答えられなかった。
足りない。
そう言いたかった。
もっとできるはずだと思いたかった。
でも、足りないと言い切るには、今日生き残った人たちの呼吸が近すぎた。
トンヌラは、ミラを見る。
「俺は、お前の音楽が好きだ」
風が止まったような気がした。
ミラは、言葉を失う。
トンヌラは続けた。
「今まで、興味はなかった」
「そこ言う必要ある?」
「ある」
「ないでしょ」
「ある」
トンヌラは真面目な顔で言う。
「だが、お前と出会って、いいものだと思った」
飾らない。
評価でもない。
理屈でもない。
ただの事実として置かれた言葉だった。
「さっきのは能力だろう」
トンヌラはミラのギターを見る。
「だが俺は、能力ではなく、お前の歌が好きだ」
ミラの喉が震える。
「……何それ」
「聴きたいと思った」
それだけだった。
役割ではない。
期待でもない。
戦場に必要だからでもない。
世界を救うからでもない。
ただ、聴きたい。
その選択だけが、そこにあった。
⸻
ミラは目を伏せた。
(ああ)
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
世界を救わなくてもいい。
戦場を変えなくてもいい。
誰かを奮い立たせられなくてもいい。
でも、誰かが聴きたいと思った。
自分の音を。
能力ではなく。
歌を。
それでいいのかもしれない。
少なくとも、今は。
⸻
「団長」
「なんだ」
「今だけね」
ミラはギターを構える。
「団長ではない」
「今そこじゃない」
「そうか」
「そう」
ミラは息を吸った。
戦場用ではない。
補助でもない。
拍を支配するためでもない。
ただの歌。
弦を鳴らす。
小さく。
静かに。
夜に沈むような音だった。
⸻
砂漠は、音を吸う。
広がりすぎない。
遠くまで届かない。
焚き火の方まで、かすかに届く程度の音。
それでよかった。
フィーが目を閉じた。
コムギが水袋を抱えたまま、静かに座り直す。
クラウスが空を見上げる。
ガルドは盾の横で目を閉じている。
ぽめが一瞬だけ目を開けた。
「……くぁ」
そしてまた閉じる。
歌は、戦況を変えない。
魔物も消えない。
灰界も閉じない。
負傷者の傷も塞がらない。
だが、消えない。
確かにそこにある。
誰かの隣に置かれる音として。
⸻
ミラは歌いながら思う。
(戦場じゃなくてもいい)
(でも)
視線を、遠くの暗闇へ向ける。
(戦場でも、歌いたい)
矛盾している。
役に立ちたい。
でも、役に立つためだけの音にはしたくない。
誰かを支えたい。
でも、支援能力として消費されたくない。
その矛盾を、捨てない。
捨てなくていい。
今は、そう思えた。
⸻
音は夜に溶けていく。
トンヌラは目を閉じて聴いている。
何も言わない。
腕も組まない。
ただ、聴いている。
その姿を見て、ミラは少しだけ笑った。
砂漠は広い。
星は遠い。
グレイフィールドはまだ消えていない。
明日も戦いは来る。
それでも今。
音楽は、隣にある。
⸻
ここはレイアノーティア。
今は歌じゃないと言われても、
歌うことを、選ぶ。
⸻
第94話 了




