第93話 削られる
ここはレイアノーティア。
均衡は、ゆっくり削る。
大きく壊すだけが、破壊ではない。
少しずつ息を奪う。
少しずつ水を減らす。
少しずつ指を震わせる。
少しずつ、希望の形を曖昧にする。
そして気づいた時には、立っていた理由まで削られている。
⸻
翌日の砂漠は、昨日より熱かった。
風は乾き、砂は細かく、喉の奥に灰の味が残る。
グレイフィールドは、まだそこにあった。
消えていない。
薄くなってもいない。
むしろ、昨日よりも少しだけ輪郭が濃くなっているように見えた。
灰色の膜が、地平線を歪ませている。
その奥で、魔物の影が蠢いていた。
⸻
前線に立つ冒険者たちは、昨日より少ない。
死んだわけではない。
だが、立てない者が増えた。
腕を吊った剣士。
指を裂いた弓手。
魔力切れで座り込む魔術師。
足を引きずる盾役。
生きてはいる。
だが、前に立つには足りない。
だから今日は、動ける者だけが前に出ていた。
隊長格の男が、砂に線を引く。
「ここを抜かせるな」
その声は昨日と同じように落ち着いていた。
だが、目の下には深い疲労がある。
若い剣士が喉を鳴らす。
「今日は、どれくらい持たせればいいんですか」
隊長格の男は、灰界を見る。
「日が落ちるまで」
「昨日と同じですね」
「ああ」
短い答え。
それだけで、若い剣士は苦く笑った。
「昨日より、きついですけどね」
「知っている」
隊長格の男は剣を構えた。
「それでも、日が落ちるまでだ」
⸻
トンヌラたちは後方にいた。
昨日と同じ位置。
だが、同じではない。
水袋は減っている。
栄養剤も残りが少ない。
フィーの顔色は戻りきっていない。
クラウスの目の下にも疲れがある。
ガルドの盾には、新しい傷が増えている。
コムギがリュックの中を確認する。
「水、昨日より少ないです」
「どのくらいだ」
トンヌラが聞く。
「節約して、午前中は持ちます」
「午後は」
「気合いです」
「補給担当が言うな」
「言いたくないです!」
コムギは悔しそうに水袋を握った。
「でも、言わないと嘘になります」
トンヌラは灰界を見る。
分かっている。
昨日は守れた。
だが、その代償は残っている。
勝てない戦いは、勝てないまま続く。
守れた翌日に、また守らなければならない。
⸻
ミラは少し離れた場所で、ギターの弦を確かめていた。
指先に薄い布を巻いている。
昨日、弾き続けたせいで皮が裂れかけていた。
「大丈夫か」
フィーが静かに聞く。
「大丈夫」
ミラは即答する。
「大丈夫って言う人は、たいてい大丈夫じゃないです」
コムギが横から言う。
「うるさいな。あんたもよく言うでしょ」
「私は大丈夫じゃない時は大丈夫じゃないと言います!」
「それはそれで困るのよ」
ミラは軽く笑った。
だが、その笑いはすぐ消える。
視線は、灰界の縁へ向いていた。
昨日、彼女は戦場の呼吸を揃えた。
盾の上がる拍。
剣の踏み込み。
魔法の詠唱。
退くタイミング。
できた。
役に立った。
けれど。
それは歌ではなかった。
⸻
灰界が脈打つ。
魔物が湧いた。
昨日と同じではない。
数は少し減ったように見える。
だが、一体一体が濃い。
灰色の膜が厚く、動きも重い。
爪の先に、砂を腐らせるような灰がまとわりついている。
隊長格の男が叫ぶ。
「構えろ!」
前線が盾を上げる。
ガルドが中央に立つ。
「前は崩しません」
昨日と同じ声。
だが、その腕には疲労が残っている。
魔物が突進した。
激突。
砂が爆ぜる。
ガルドの盾が受け止める。
後ろの剣士たちが踏み込む。
ミラが弦を鳴らした。
⸻
低いリズム。
戦場の底に置くような音。
前線の呼吸を拾う。
乱れを補正する。
恐怖で速くなった足を、ほんの少しだけ戻す。
《拍動支配者》。
彼女の真名が、戦場の拍に手を伸ばす。
盾の上げ下げが揃う。
剣士の踏み込みが噛み合う。
魔術師の詠唱が、盾の影にきれいに収まる。
昨日より、動きは良い。
前線は確かに整っている。
「いける!」
若い剣士が叫んだ。
その声に、ミラの指が強く弦を弾く。
いける。
そう思いたい。
だが、次の瞬間。
灰界がまた脈打った。
⸻
次の波が来る。
数が増える。
質も上がる。
最初の魔物を押し返した頃には、もう次が前線へ食い込んでいた。
盾が弾かれる。
槍が逸れる。
魔術師の詠唱が、ほんの少し遅れる。
その遅れを、魔物は逃さない。
爪が振るわれる。
剣士の肩が裂けた。
「下げろ!」
トンヌラが叫ぶ。
コムギが走る。
「水! 塩! あとこれ飲んで!」
「味が!」
「文句言えるなら飲めます!」
フィーが傷に手を当てる。
「呼吸を止めないでください」
クラウスが砂を見る。
「右へ流してください。そこは踏み抜きます」
ガルドが盾を押し出し、抜けかけた魔物を受け止める。
戦線は崩れない。
だが、削られている。
⸻
ミラは弦を鳴らし続けた。
速く。
強く。
正確に。
呼吸を合わせる。
足を合わせる。
恐怖の波を整える。
それは機能していた。
前線の動きは、確かに良くなっている。
無駄な踏み込みは減った。
盾の重なりも増えた。
詠唱の保護も間に合っている。
だが。
士気は上がらない。
目の奥の恐怖は消えない。
音は指示として届く。
戦闘の拍としては機能している。
けれど、希望にはなっていない。
「……くそ」
ミラの指が震えた。
戦闘リズムは揃えられる。
でも、これは何だ。
音楽なのか。
それとも、ただの能力なのか。
⸻
また一人、膝をついた。
昨日から戦っている魔術師だった。
魔力が尽き、詠唱の途中で崩れた。
コムギが駆け寄る。
「下がってください!」
「まだ……」
「まだじゃないです! 倒れたら詠唱できません!」
フィーが肩を支える。
「意識を保って」
トンヌラも手を貸す。
魔術師を後方へ下げる。
その間にも、前線は薄くなる。
ガルドが盾の位置を広げる。
「少し、詰めてください」
隊長格の男が即座に指示を出す。
「中央へ寄れ! 穴を作るな!」
穴は塞がる。
だが、負担は増える。
全員が少しずつ削られていく。
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日が高くなる。
砂の熱が足元から上がる。
水の消費が早い。
コムギの表情が険しくなる。
「このままだと、午後が持ちません」
「持たせる」
トンヌラが言う。
「簡単に言わないでください!」
「難しく言っても水は増えん」
「それはそうですけど!」
コムギは悔しそうに歯を食いしばる。
「でも、薄めます。一口ずつ。倒れそうな人から優先」
彼女はすぐに動いた。
愚痴を言いながらも、手は止まらない。
⸻
ミラの音が、また硬くなる。
トンヌラはそれに気づいた。
顔が違う。
集中している。
だが、迷っている。
音が、心からではなく、役割から出ている。
戦場を支えるための音。
必要な音。
正しい音。
でも、ミラ自身の音ではない。
トンヌラは何も言わなかった。
今は、戦線を保つ方が先だ。
言葉には、タイミングがある。
今言えば、たぶん折れる。
だから、ただ覚えておく。
⸻
灰界がまた揺れた。
魔物の数は、減らない。
前線の冒険者たちは、もう笑わない。
昨日より長く感じる。
一時間が、半日のように重い。
誰かが倒れ、誰かが支え、誰かが代わりに前へ出る。
その繰り返し。
完全な敗北ではない。
だが、勝利でもない。
削られている。
体力も。
水も。
集中力も。
そして、心も。
⸻
やがて、日が傾き始めた。
灰界の動きが、少しずつ鈍る。
昨日と同じように、魔物たちは引き始めた。
倒しきったわけではない。
追い返したわけでもない。
ただ、今日の波が終わる。
それだけだった。
最後の魔物が灰の膜へ戻る。
砂漠に、重い静けさが落ちた。
⸻
前線の三人が、ほとんど同時に膝をついた。
剣士。
盾役。
魔術師。
「……生きてるか」
剣士が乾いた声で言う。
「なんとか」
盾役が答える。
魔術師は声を出せず、片手だけ上げた。
笑いはない。
歓声もない。
生き残った。
ただ、それだけだった。
⸻
ミラの手が止まる。
弦の余韻が、砂に吸われていく。
長く鳴らしたはずなのに、何も残っていないように感じた。
戦闘リズムは揃えられる。
動きは合わせられる。
結果も出ている。
今日、何人かは確実にその音で助かった。
それでも。
これは音楽なのか。
それとも、ただの職業の力なのか。
ミラはギターを見下ろした。
(これで、世界救える?)
声には出さない。
胸の奥で、問いだけが残る。
⸻
トンヌラは、その顔を見ていた。
何も言わない。
ただ、焚き火の準備を始める。
枯れた枝を集める。
砂を少し掘る。
火種を守る石を並べる。
コムギが水袋の残りを数えている。
フィーが負傷者の呼吸を確認している。
クラウスは灰界を見ている。
ガルドは盾を地面に置き、静かに座っている。
ぽめは、焚き火の予定地のそばで丸くなっていた。
「そこは火をつける場所だ」
「……すぴ」
「聞く気がないな」
トンヌラはぽめを少しだけ横へずらした。
ぽめは抵抗しない。
ただ丸いまま、少し転がった。
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グレイフィールドの揺らぎは、まだ消えない。
灰色の膜は、夕暮れの砂漠に薄く光っている。
まるで、明日も来ると言っているようだった。
削られたのは、体力だけではない。
音も。
誇りも。
希望も。
少しずつ、削られている。
⸻
ここはレイアノーティア。
勝てない戦いは、少しずつ削る。
音も。
誇りも。
希望も。
それでも、明日は来る。
⸻
第93話 了




