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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第9章 役に立たない場所の歌

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第92話 立っているということ

 ここはレイアノーティア。

 勝てない戦いは、なくならない。


 正しい判断をしても。

 仲間が揃っても。

 誰かが前に立っても。


 それでも、勝てない時はある。


 だが。


 勝てないことと、今ここで崩れることは、同じではない。



 灰界の縁から溢れ出る魔物は、止まらなかった。


 数は減らない。


 質も落ちない。


 むしろ、時間が経つほどに圧が増している。


 前線の戦闘職たちは、すでに限界を越えていた。


 剣士の腕は震えている。

 弓手の指は裂けている。

 魔術師の詠唱は、息切れで何度も揺れる。

 盾役の膝は、砂の中で沈みかけている。


 それでも、退かない。


 背後に街道があるからだ。


 街道の先には、メルグラフがある。

 避難民がいる。

 商人がいる。

 まだ動けない負傷者がいる。


 ここを抜かれれば、灰はそこへ流れる。



 その中央に、ガルドが立っていた。


 大盾を構え、足を開き、前を見ている。


 魔物の突進を真正面から受け止める。


 衝撃。


 砂が爆ぜる。


 盾の縁が軋む。


 ガルドの腕に、重い痺れが走る。


 だが、盾は下がらない。


「前は崩しません」


 低い声だった。


 その言葉だけで、周囲の列が少し整う。



 魔物が三体、同時に飛び込んだ。


 ガルドは半歩踏み込む。


 盾を傾ける。

 真正面から受けず、衝撃を横へ流す。

 さらに体重を乗せ、押し返す。


 受ける。


 押し返す。


 受ける。


 押し返す。


 やっていることは、それだけだった。


 だが、それだけで前線は保たれる。


 盾の後ろで、剣士が息を整える。

 槍使いが間合いを取り直す。

 魔術師が詠唱を最後まで繋ぐ。


 誰かが一秒を稼ぐ。


 その一秒で、別の誰かが立て直す。


 戦場は、そうやってぎりぎり繋がっていた。



 後方で、トンヌラは歯を食いしばっていた。


(俺は前に出られない)


 それはもう、悔しさではなく事実だった。


 出ても意味はない。


 魔物を斬れない。

 盾にもなれない。

 傷も治せない。


 だから、見る。


 どこが崩れかけているか。

 誰の足が止まりそうか。

 どの列が恐怖で乱れ始めているか。


 そして、叫ぶ。


「左翼、崩れる!」


 クラウスが即座に補足した。


「二秒後、突進が来ます」


 ミラが弦を鳴らす。


「呼吸合わせろ!」


 コムギが水袋を投げる。


「飲んで! 倒れないで!」


 フィーが負傷者の脈に手を当てる。


「意識を離さないでください!」


 彼らは前線で戦っているわけではない。


 だが。


 崩れさせない。



 前線が、ほんの少し押し返す。


 たった数歩。


 たった数秒。


 それでも確実に、魔物の圧が後ろへ押し戻された。


 隊長格の男が叫ぶ。


「今だ、詰めろ!」


 剣士たちが踏み込む。


 槍が突き出される。

 火球が灰色の膜を焼く。

 弓が魔物の目を射抜く。


 魔物が倒れる。


 一体。


 また一体。


 だが、すぐに次が来る。


 灰界が脈打つ。


 ドクン。


 その音が聞こえたような気がした。


 また魔物が湧く。



 ガルドの足元の砂が、さらに沈んだ。


 盾越しに伝わる衝撃が、腕を痺れさせる。


 肩が軋む。

 呼吸が荒くなる。

 視界の端が白くなる。


 それでも、立つ。


「守るだけなら、負けません」


 誰に向けた言葉でもなかった。


 自分に言ったのかもしれない。


 だが、聞いた者の背中が伸びた。


 若い剣士が歯を食いしばる。

 弓手が裂けた指に布を巻く。

 魔術師が、もう一度詠唱を始める。


 守る者が立っている。


 なら、まだ前線は終わっていない。



 灰界がまた脈打つ。


 濃い影が、膜の奥で揺れた。


 さっき見えた大きな影だ。


 まだ完全には出てこない。


 だが、存在しているだけで圧が増す。


 ミラの弦が少し硬く鳴った。


 トンヌラはその音を聞いた。


 迷いではない。


 だが、まだ本来の音ではない。


 戦場の呼吸を揃える音。


 能力としての音。


 ミラ自身の歌ではない。


 トンヌラはそれを覚えておく。


 今ここで言うことではない。


 だが、いずれ必要になる。



「前線、三歩後退!」


 トンヌラが叫ぶ。


「下がれ! だが乱れるな!」


 前線の者たちが戸惑う。


 後退は敗北に見える。


 だがクラウスがすぐに続けた。


「右側の砂が沈みます。今の位置では踏み抜かれます」


 ミラが弦を強く弾く。


「拍を崩すな! 三つ数えて下がれ!」


 音が砂漠に走る。


 一、二、三。


 前線が三歩下がる。


 魔物の突進が、空振りするように砂をえぐった。


 さっきまで彼らがいた位置が、灰色に沈み込む。


 若い剣士が青ざめた。


「今の……」


「見てから怖がれ!」


 ミラが叫ぶ。


「次、来る!」



 ガルドが踏み込んだ。


 盾を前へ。


 魔物の群れを、真正面ではなく斜めへ流す。


 流された魔物の足が、沈みかけた砂場に取られる。


 そこへ槍が入る。


 剣が続く。


 魔術師の火球が、灰色の膜を焼いた。


 一体。


 また一体。


 確実に数を減らす。


 前線の動きが、少しだけ噛み合い始める。


 ミラの音が、戦場の間を拾っている。


 コムギの補給が、倒れる前の身体を支えている。


 フィーの調律が、壊れかけた呼吸を戻している。


 クラウスの読みが、崩れる場所を避けさせている。


 ガルドの盾が、その全部に時間を与えている。


 そして、トンヌラの声が、人の視線を前へ戻している。


 誰か一人の英雄ではない。


 小さな支えが、いくつも重なっている。



 灰界の縁が、わずかに揺らいだ。


 出現間隔が、少し伸びる。


 圧が、わずかに下がる。


「……押してる?」


 誰かが言った。


 隊長格の男がすぐに怒鳴る。


「油断するな!」


 その声には、微かな熱があった。


「押してるんじゃない。崩れてないだけだ!」


 その通りだった。


 完全勝利ではない。

 殲滅でもない。

 灰界を消したわけでもない。


 だが。


 押し返した。


 今日、この瞬間だけは。



 日が傾き始める。


 砂漠の空が赤く染まる。


 灰界の揺らぎが、少しずつ静まり始めた。


 魔物の動きが鈍る。


 数が減る。


 最後の一体が、ガルドの盾に弾かれ、砂の上を転がった。


 剣士がとどめを刺す。


 そして。


 次が来ない。



 誰も動かなかった。


 まだ来るかもしれない。


 また灰の膜が脈打つかもしれない。


 息を殺して、全員が待つ。


 だが。


 魔物は、来なかった。


 消えたわけではない。


 ただ、退いた。


 今日は、ここまで。



 前線の戦闘職たちが、崩れるように座り込んだ。


 誰も歓声を上げない。


 勝っていないからだ。


 灰界はまだある。

 明日も来るかもしれない。

 次はもっと強いかもしれない。


 それでも。


 生きている。


 その事実だけが、砂の上に残った。



 ガルドが盾を下ろした。


 膝が震える。


 それでも倒れない。


 コムギが駆け寄る。


「座ってください!」


「まだ立てます」


「立てるかどうかじゃなくて、座るんです!」


「……はい」


 ガルドは素直に座った。


 フィーが手を当てる。


「無理しないでください」


「守れましたね」


 ガルドは小さく笑った。


 フィーは少しだけ目を伏せる。


「はい」


 それ以上は言わない。


 守れた。


 だが、全部ではない。


 それを分かっているからこそ、言葉は短かった。



 トンヌラは空を見上げる。


(今日は、守れた)


 だが。


 灰界は消えていない。


 勝ったわけではない。


 明日もある。


 次もある。


 それでも、今日は守れた。


 その事実だけは、誰にも奪えない。



 遠く。


 高塔。


 エヴァンのモノクルに、砂漠の戦場が映っている。


 数値が流れる。


【前線維持率:想定外上昇】

【防衛成功確率:微増】

【灰界圧力:一時低下】

【支援連携値:上昇】


 エヴァンは無言で見ていた。


 ノインが淡々と報告する。


「ガルド。防衛特化個体として、想定以上の固定力を確認」


 エヴァンは目を細める。


「観測継続」


 声は冷たい。


「まだ誤差の範囲内だ」


 だが、数値はわずかに揺れている。



 水晶に映る。


 砂漠に立つ小さな集団。


 戦えない者たちが、戦闘職を支えている。


 剣を持たない者が、剣を持つ者を倒れさせない。


 盾を持つ者が、全員の時間を稼ぐ。


 音が、呼吸を揃える。


 補給が、身体を戻す。


 調律が、命を繋ぐ。


 縫合が、流れを保つ。


 そして、ネームレスが声を出している。


 エヴァンが小さく呟く。


「……支援が、効いている」


 それは感嘆ではない。


 怒りでもない。


 ただ、記録だった。


 だが。


 記録する必要があるほどには、世界は揺れている。



 砂漠。


 日が沈む。


 トンヌラは前線を見る。


 疲れ果てた冒険者たち。

 血と砂にまみれた盾。

 震える指。

 水袋を抱えて眠りかける若い剣士。


 誰も英雄には見えない。


 だが、全員が立っていた。


 少なくとも、倒れたままではなかった。


(俺はまだ、何もしていない)


 その思いは、消えない。


 それでも。


 今日は守れた。


 仲間がいたからだ。


 立つ者たちがいたからだ。



 ここはレイアノーティア。


 勝てなくても。


 立っていれば、退かせる日はある。


 だが。


 灰界は、消えていない。



 第92話 了

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