第91話 立つ者たち
ここはレイアノーティア。
強い者だけが、前に立つわけではない。
剣を持つ者がいる。
盾を構える者がいる。
魔法を放つ者がいる。
だが、戦場を支えるのは、それだけではない。
水を渡す者。
呼吸を整える者。
流れを読む者。
拍を刻む者。
そして、前に出られないまま、それでも立つ理由を探す者。
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西方砂漠。
灰色の揺らぎが、地平を歪ませていた。
グレイフィールド。
砂漠の一角に浮かぶ半透明の力場は、景色そのものを薄い灰の膜で包んでいるように見えた。
風が吹いても、そこだけ砂の流れが乱れない。
空気が重い。
呼吸をするだけで、肺の奥に灰が沈むような感覚がある。
その縁に、十数名の戦闘職が並んでいた。
剣士。
槍使い。
弓手。
魔術師。
盾役。
鎧は擦り切れ、盾は使い古され、武器の刃も完全ではない。
だが、彼らは立っている。
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「本部からの増援は?」
「来ない!」
「来られないんだ!」
短い怒号が飛ぶ。
誰も驚かない。
グレイフィールドの発生は早すぎた。
勇者は前線から離れている。
周辺都市は自分たちの守りで手いっぱい。
ここにいる者たちで止めるしかない。
その事実だけが、砂の上に重く落ちていた。
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灰の膜が脈打つ。
次の瞬間、そこから魔物が溢れ出した。
黒い影。
歪な牙。
砂を踏み砕く足。
関節の数が合わない獣。
顔のない人型。
数が多い。
だが、それ以上に質が違った。
ただの魔物ではない。
力場の内側で、何か余計なものを混ぜられたような濃さがある。
「……無理だろ」
若い剣士が呟いた。
誰も否定しない。
勝率など、考えるまでもなかった。
それでも、逃げれば背後はメルグラフへ続く街道だ。
商人。
避難民。
負傷者。
まだ復旧途中の町。
ここが抜かれれば、灰はそこへ流れる。
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隊長格の男が剣を抜いた。
声は低い。
震えていない。
「前線、固定」
砂漠の風が鎧を叩く。
「ここで止める」
それだけだった。
誰も歓声を上げない。
ただ、武器を構え直した。
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その後方に、トンヌラたちはいた。
トンヌラ。
クラウス。
フィー。
コムギ。
ミラ。
ぽめ。
前には出ない。
出られない。
トンヌラは前線を見た。
魔物の数。
戦闘職の疲労。
砂の流れ。
逃げ道。
後方にいる負傷者たち。
(勝てない)
計算などできなくても分かる。
数も、質も、圧も違いすぎる。
真正面からぶつかれば、押し潰される。
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クラウスが低く言う。
「戦術的勝利は不可能です」
「分かりやすく言え」
「普通に戦えば負けます」
「最初からそう言え」
クラウスは表情を変えない。
「持久も厳しい。前線の人数が足りません」
コムギが即座にリュックを下ろす。
「物資は三十分が限界です!」
水袋。
塩。
携帯食。
栄養剤。
慣れた手つきで並べていく。
フィーは前線を見て、顔色を白くした。
「負傷者が増えたら、処理しきれません」
ミラが舌打ちする。
「つまり、地獄ね」
「はい」
クラウスが即答した。
「最悪」
ミラはギターの紐を握り直した。
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それでも、前線の冒険者たちは構える。
最初の衝突は、すぐに来た。
轟音。
砂が舞う。
魔物の爪が盾を叩く。
槍が突き刺さる。
剣が牙を弾く。
火球が灰の膜の前で爆ぜる。
一人が吹き飛ばされた。
もう一人が歯を食いしばって踏みとどまる。
「下がるな!」
「列を崩すな!」
叫びが飛ぶ。
前線は、かろうじて形を保っていた。
⸻
トンヌラの拳が震える。
(前に出たい)
そう思った。
だが、出ても意味はない。
自分に戦闘能力はない。
魔物を斬れない。
盾にもなれない。
魔法も使えない。
無力。
その事実を、今のトンヌラは前よりはっきり理解している。
だからこそ、声を出した。
「後方、受け入れ準備!」
戦えないなら、崩さない。
倒れた者を受ける。
乱れた列を戻す。
逃げ道を塞がせない。
今できることは、それだけだった。
⸻
コムギが水と栄養剤を並べる。
「倒れたらすぐ下がらせてください!」
声が高く響く。
「水分と塩分、切らしたら終わります!」
フィーは吹き飛ばされた剣士のそばに膝をついた。
「呼吸を合わせて」
傷は深くない。
だが、疲労が重い。
呼吸が浅い。
鼓動が乱れている。
恐怖が身体を固めている。
フィーはその波をゆっくり整える。
「吸って。吐いて。大丈夫、まだ戻れます」
クラウスは砂の流れを見ていた。
「左側、崩れます」
指が小さく動く。
崩れかけた足場を、ほんの少しだけ持たせる。
時間稼ぎ。
それだけ。
けれど、その数秒で一人が下がれる。
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ミラがギターを構える。
弦を鳴らす。
音が走った。
強い音ではない。
まずは短く、低く。
戦場の呼吸を拾う。
盾の上がるタイミング。
剣士の踏み込み。
魔術師の詠唱。
槍の引き戻し。
全部がずれている。
恐怖で早くなる者。
疲労で遅れる者。
無理に前へ出る者。
退くべき時に固まる者。
ミラは音を刻む。
拍を置く。
戦場に散った呼吸を、一本の線へ寄せていく。
⸻
前線の動きが、わずかに揃った。
盾が同時に上がる。
剣が同じ間で踏み込む。
魔術師の詠唱が、盾の裏で一瞬だけ守られる。
ズレが減る。
攻撃が噛み合う。
一体が倒れる。
もう一体が押し返される。
「いける!」
誰かが叫んだ。
だが。
灰の膜が、また脈打つ。
次の波が出る。
さっきより多い。
さっきより重い。
質も上がっている。
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前線が押される。
盾役の足が砂に沈む。
槍使いの手が滑る。
魔術師の詠唱が詰まりかける。
トンヌラが叫ぶ。
「下げすぎるな! 列を斜めにしろ!」
クラウスが補足する。
「右側は受けないでください。流してください」
コムギが水袋を投げる。
「飲んで! 今、倒れないで!」
フィーが負傷者の肩に触れる。
「意識を離さないで!」
ミラの音が、さらに低くなる。
まだ押し返せない。
だが、崩れさせない。
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一体の魔物が、前線を抜けた。
獣のような体。
腕だけが異様に長い。
後方へ向かって、砂を蹴る。
若い槍使いが振り返った。
恐怖で動きが止まる。
トンヌラの足が前へ出た。
(ここまでか)
勝てない。
分かっている。
それでも、目の前に来るなら立つしかない。
その瞬間。
砂が爆ぜた。
⸻
横からの衝撃。
魔物の巨体が吹き飛ぶ。
重い足音が、砂に沈む。
大きな盾が、地面に突き立った。
「防衛なら、任せてください」
低く、静かな声だった。
トンヌラは目を見開く。
「ガルド」
赤い影がそこにいた。
傷だらけの鎧。
砂を被った外套。
大きな盾。
だが、その立ち姿は揺れていない。
赤い気配は、以前より静かだった。
荒れていない。
暴れていない。
ただ、守るためにそこにある。
⸻
「遅くなりました」
ガルドは盾を構えたまま、短く頭を下げる。
「サトウさんは、無事にネームドの里へ到着しました」
その言葉に、トンヌラの胸がわずかに緩んだ。
「受け入れられたのか」
「はい」
ガルドは前を向いたまま答える。
「里の者たちは、彼を拒みませんでした」
砂漠の風が二人の間を抜ける。
「今は、保護されています」
トンヌラは小さく息を吐いた。
後で追いつく。
そう言った。
だが、来られなかった。
グレイフィールドが広がり、ここが抜かれればメルグラフが危うい。
サトウのもとへ向かう道を選ばず、こちらへ来た。
その事実が、胸に残っていた。
「……すまんな」
トンヌラが言う。
「追いつくと言った」
ガルドは首を横に振った。
「団長がここにいる理由は、分かります」
「団長ではない」
「今は、そういうことにしておきます」
ガルドは盾を構え直した。
赤い気配が、静かに広がる。
「サトウさんは守りました」
前を見る。
「次は、この前線を守ります」
⸻
前線の冒険者たちが、一瞬だけ振り向いた。
知らない顔。
だが、その背中は揺れない。
ガルドは盾を構える。
「前は、崩しません」
魔物の群れが、再び突進する。
激突。
轟音。
砂嵐。
ガルドの盾が、真正面から受け止めた。
足元の砂が深く沈む。
腕に衝撃が走る。
それでも、退かない。
防衛線が、止まった。
押されてはいる。
だが、崩れない。
⸻
ミラの弦が鳴る。
前線の呼吸が、ガルドの背中に合わせて整い始める。
コムギが叫ぶ。
「ガルドさん、水!」
「後で!」
「今です!」
「……はい!」
ガルドは一瞬だけ片手を伸ばし、水袋を受け取る。
飲む。
すぐに盾へ戻る。
フィーが小さく笑った。
「戻ってきましたね」
クラウスは目を細める。
「ええ。しかも報告つきです」
トンヌラは前線を見ていた。
胸の奥に、少しだけ安堵がある。
サトウは守られた。
ガルドは戻った。
だが。
(それでも)
トンヌラは灰の膜を見る。
(勝てない)
今は止めているだけだ。
押し返したわけではない。
グレイフィールドは消えていない。
⸻
灰の膜が、強く脈打つ。
ドクン。
新たな影が、奥で蠢いた。
大きい。
今までとは違う。
まだ出てきてはいない。
だが、そこにいるだけで前線の空気が重くなる。
クラウスの目が細くなった。
「これは……」
ミラが低く言う。
「嫌な予感しかしないんだけど」
クラウスは静かに頷く。
「本番は、これからです」
⸻
ここはレイアノーティア。
英雄はいない。
いるのは、立つ者だけ。
そして今。
彼らは、確かに立っている。
だが。
勝ち目は、まだない。
⸻
第91話 了




