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ゴカイ無双―五つの戒めは、世界を自由にする―  作者: フラグメント水沢
第9章 役に立たない場所の歌

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第90話 音は届くか

 ここはレイアノーティア。

 勇者の光が遠ざかった日から、拍子は少しずれている。


 大きな中心がなくなれば、人は足元を見る。

 足元を見ると、そこに何もないことに気づく者もいる。


 だから、音が必要になる時がある。


 歩くためではない。

 勝つためでもない。

 ただ、自分がまだ立っていることを思い出すために。



 夕暮れのメルグラフ。


 中央広場には、人が集まっていた。


 商人。

 職人。

 兵士。

 荷運びの若者。

 子どもの手を引く母親。


 数は多い。


 だが、以前のような熱気はない。


 勇者の勝利を待つような期待でもない。

 祭りの前の浮き立つ空気でもない。


 そこにあるのは、不安だった。


 勇者の光が遠ざかった世界で、何を信じればいいのか。

 明日も商売ができるのか。

 街道は安全なのか。

 魔物はまた来るのか。


 答えのない問いが、人々の呼吸の間に沈んでいる。


 ミラは、その空気の前に立っていた。


 背中にはギター。


 指先が、ほんの少し震えている。


 自分だけが、それを知っていた。


(勇者はいない)


(でも、それは言い訳にできない)


 ミラはギターを構える。


 弦に指を置く。


 すぐには鳴らさない。


 人々のざわめきを聞く。

 子どもの泣きかけた息を聞く。

 誰かが靴底で石畳を擦る音を聞く。


 街には、音がある。


 ただ、まだ音楽にはなっていない。



 ミラは、低い音から始めた。


 強くはない。


 押しつけない。


 人の呼吸の下へ、そっと潜り込むような音。


 弦が鳴る。


 広場の空気が、少しだけ揺れる。


 歌い出す。


 勇者の歌ではない。


 勝利の歌でもない。


 誰かが敵を倒してくれる歌ではない。


 迷ってもいい。

 怖くてもいい。

 逃げた日があってもいい。


 それでも、足を前に出せるなら。

 それは、まだ終わりじゃない。


 そんな歌だった。



 観客の顔が見える。


 腕を組んだ男。

 目を伏せる老人。

 泣きそうな子ども。

 何かを言いたげな商人。


 届いているのか。


 届いていないのか。


 分からない。


 ミラは歌いながら、自分に問う。


(届いてる?)


 答えは返ってこない。


 だから、もう一つの答えを出す。


(届かなくても、やる)


 指を動かす。


 声を落とす。


 強くするのではなく、深くする。


 励ますのではない。

 命令するのでもない。

 ただ、隣に置く。


 音は、そういうものでもいいはずだった。



 演奏が終わった。


 すぐに大きな拍手は起こらない。


 沈黙。


 広場の誰かが、ゆっくりと手を叩いた。


 それに、別の誰かが続く。


 まばらな拍手だった。


 けれど、確かにある。


 ミラは軽く頭を下げた。


 喉が乾いている。


 胸の奥が痛い。


 それでも、立っていた。



 舞台裏。


 人の気配が遠ざかる。


 ミラは壁にもたれて座り込んだ。


 ギターを抱える。


 指先にはまだ弦の感触が残っている。


(音楽で世界を救う?)


 自分で思って、自分で苦笑した。


「バカみたい」


 小さく呟く。


 飢えた人に、音は届くのか。


 家を失った人に、歌は意味を持つのか。


 死と隣り合わせの生活に、旋律なんて役に立つのか。


 勇者の剣と違って、音楽には即効性がない。

 コムギの補給みたいに、喉を潤すこともできない。

 フィーの力みたいに、呼吸を整えることもできない。


 戦場の呼吸なら、揃えられる。


 《リズム・ドミネーター》としてなら、拍を読める。

 足音も、呼吸も、恐怖の波も、戦意の落ち方も。


 でも、それは能力だ。


 それは音楽なのか。


 ミラはギターを抱く腕に、少しだけ力を込めた。


(でも)


 アンタイトルの子どもの顔が浮かぶ。


 エリシアの言葉が、誰かから伝わったわけではない。


 ただ、講演のあとに見た。


 それまで天蓋の下で眠っていた少女が、自分の足で立っていたこと。


 音を聞いた誰かの目に、ほんの少しだけ光が戻った瞬間。


(あれは、嘘じゃない)


 ミラは目を閉じる。


 音は、届くことがある。


 全部じゃなくても。


 たった一人にでも。



 足音がした。


 ギルド職員が、舞台裏へ顔を出す。


「ミラさん」


「なに?」


「次は西の街ですか?」


「うん」


 即答だった。


 職員の顔が曇る。


「危険ですよ」


「知ってる」


「勇者の光が薄くなってから、西側は不安定です。小規模な暴動もありますし、街道の魔物も増えています」


「知ってる」


「それでも?」


 ミラはギターを背負い直す。


「だから行く」


 職員は言葉に詰まった。


 ミラは笑う。


「安全な場所で歌っても、まあ、それはそれで意味あるけどさ」


 少しだけ視線を落とす。


「今、音が必要なのは、たぶんそっちでしょ」



 夜。


 宿の窓辺。


 ミラは一人で座っていた。


 遠くの山を見ている。


 街の灯りは、思っていたより少ない。


 勇者の話題は、以前ほど人を明るくしない。


 あれだけ世界の中心だった光が、今は不在の形で人々の不安を照らしている。


(団長、今どこにいるのよ)


 思い出す。


 名前を預けた夜。


 自分の拍で立つと決めた瞬間。


(あたしは、逃げないって決めたんだから)


 風が吹いた。


 窓の外で、馬の蹄の音が小さく響く。


 ミラはまだ気づかない。


 近づいていることに。



 翌日。


 西へ向かう街道。


 荷馬車が行き交っている。


 ミラは歩いていた。


 徒歩だ。


 馬車に乗る金がないわけではない。


 ないわけではないが、節約は必要だった。


 講演で得た金の多くは、次の街へ持っていく食料や、壊れた楽器の修理費に消える。


 音楽活動は、意外と現実的だ。


「ロックって金かかるわね……」


 自分で言って、少し笑う。


 その時だった。


 前方から、見覚えのある影が歩いてくる。


 腕を組んだ男。


 自信ありげな立ち姿。


 なのに、どこか少しだけ不安そうな顔。


 その後ろに、フィー。

 コムギ。

 クラウス。

 そして、丸いもの。


 ミラは立ち止まった。


「……は?」


 トンヌラも止まる。


 短い沈黙。


 風が、二人の間を抜けていく。


「なんでいるのよ」


「迎えに来た」


 即答だった。


 ミラは一瞬、笑いそうになった。


 けれど、こらえる。


「誰が頼んだのよ」


「頼まれていない」


「……あんたほんと勝手」


「よく言われる」


「もっと反省しなさいよ」


「検討する」


「しないやつの返事じゃん」



 フィーがやわらかく会釈する。


「お久しぶりです、ミラさん」


「フィー、顔色悪くない?」


「少しだけです」


「少しって顔じゃないけど」


 コムギが手を振る。


「ミラさん!」


「コムギ、リュックでかくなってない?」


「必要なものが増えました!」


「成長するの、そこなんだ」


 クラウスはいつものように微笑む。


「お元気そうで何よりです」


「そっちは相変わらず胡散臭いわね」


「褒め言葉として受け取ります」


「違う」


 ぽめは寝ていた。


 街道の真ん中で。


「……これも相変わらずね」


「くぁ……」


 ぽめが小さく鳴いた。


 返事なのか、寝言なのかは分からない。



 ミラは視線を逸らした。


 少しだけ、目が潤んでいる。


 気づかせない。


「聞いたわよ」


 声はいつもの調子に戻そうとしていた。


「アンタイトル」


 トンヌラが頷く。


「ああ」


「富豪が支援?」


「メルグラフが来た」


「へえ」


 ミラは口元を歪める。


「金持ちが急に善人ぶったわけ?」


「そうかもしれん」


「否定しないのね」


「だが」


 トンヌラは言った。


「音が届いたらしい」


 ミラの喉が詰まった。


 足が止まる。


「……誰に」


「エリシアだ」


 風が吹く。


 ミラは何も言わない。


 トンヌラは続けた。


「音は届いています、と伝えてくれと言われた」


 ミラは、しばらく黙った。


 ギターの紐を握る指に力が入る。


「……そう」


 それだけ言う。


 それ以上は、今は無理だった。



 歩き出す。


 並んで。


 しばらく誰も話さなかった。


 街道の土を踏む音だけが続く。


 やがて、ミラが小さく言った。


「ねえ」


「なんだ」


 ミラは前を見たまま問う。


「音楽で、世界救えると思う?」


 直球だった。


 軽い調子ではなかった。


 冗談でもない。


 勇者とは違う。


 剣でもない。

 魔法でもない。

 補給でも、調律でも、因果でもない。


 不確かな力。


 自分が信じたいもの。


 でも、本当に信じていいのか分からないもの。



 トンヌラはすぐには答えなかった。


 珍しく。


 歩きながら、少しだけ考える。


 風が吹く。


 遠くで、荷馬車の鈴が鳴った。


「知らん」


 正直だった。


 ミラが眉をひそめる。


「そこは嘘でも救えるって言いなさいよ」


「知らんものは知らん」


「ほんっと、そういうとこ」


「だが」


 トンヌラは続ける。


「救いたいと思うなら、やれ」


 ミラが横を見る。


「結果は後からついてくる」


「ずいぶん雑ね」


「雑でも、歩けるなら十分だ」


 ミラはじっとトンヌラを見る。


「勇者みたいなこと言うじゃん」


「俺は勇者ではない」


 即答だった。


「だろうね」


 ミラは少しだけ笑った。


 その笑いは、さっきより自然だった。



 クラウスが前方を見る。


 空気がわずかに変わった。


 西の空。


 遠く、薄く灰色が滲んでいる。


 雲ではない。


 霧でもない。


 景色の端が、灰を混ぜた水に浸されたように歪んでいる。


 フィーが足を止めた。


「……嫌な感じがします」


 コムギも眉をひそめる。


「空気が重いです」


 ミラはギターの紐を握る。


「何あれ」


 クラウスが目を細める。


「力場ですね」


「また面倒なやつ?」


「おそらく」


 トンヌラは西を見た。


 勇者はいない。


 サトウはネームドの里へ向かった。

 ガルドが護衛している。


 今この場にいるのは、自分たちだけだ。


 だが、それで止まる理由にはならなかった。



 前方から、伝令が駆けてくる。


 ギルドの印をつけた若い男だった。


 息を切らし、顔色は悪い。


「緊急要請!」


 馬から飛び降りるように降り、叫ぶ。


「西方砂漠に異常発生!」


 トンヌラたちは一斉に視線を向ける。


 伝令は続けた。


「灰色の力場を確認! 魔物が溢れています!」


 クラウスが低く呟く。


「グレイフィールド……」


「知ってるの?」


 ミラが聞く。


「記録上は」


 クラウスの表情は硬い。


「極めて面倒です」


「その言い方、だいたい最悪って意味よね」


「はい」


「即答やめて」



 ミラとトンヌラが顔を見合わせる。


 さっきまで、音楽で世界を救えるかどうかを話していた。


 その答えは出ていない。


 だが、行く場所だけは決まった。


「行くわよ」


 ミラが言う。


「当然だ」


 トンヌラが答える。


 フィーが頷く。


 コムギがリュックの紐を握り直す。


 クラウスが静かに前を見る。


 ぽめが、眠そうに一つあくびをした。


「……ふぁ」



 勇者はいない。


 だが。


 音と、補給と、調律と、縫合と、名を呼ぶ者がいる。


 そして、丸い犬がいる。



 ここはレイアノーティア。


 剣だけが希望じゃない。


 だが希望は、いつも危険な方へ向かう。



 第90話 了

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