第90話 音は届くか
ここはレイアノーティア。
勇者の光が遠ざかった日から、拍子は少しずれている。
大きな中心がなくなれば、人は足元を見る。
足元を見ると、そこに何もないことに気づく者もいる。
だから、音が必要になる時がある。
歩くためではない。
勝つためでもない。
ただ、自分がまだ立っていることを思い出すために。
⸻
夕暮れのメルグラフ。
中央広場には、人が集まっていた。
商人。
職人。
兵士。
荷運びの若者。
子どもの手を引く母親。
数は多い。
だが、以前のような熱気はない。
勇者の勝利を待つような期待でもない。
祭りの前の浮き立つ空気でもない。
そこにあるのは、不安だった。
勇者の光が遠ざかった世界で、何を信じればいいのか。
明日も商売ができるのか。
街道は安全なのか。
魔物はまた来るのか。
答えのない問いが、人々の呼吸の間に沈んでいる。
ミラは、その空気の前に立っていた。
背中にはギター。
指先が、ほんの少し震えている。
自分だけが、それを知っていた。
(勇者はいない)
(でも、それは言い訳にできない)
ミラはギターを構える。
弦に指を置く。
すぐには鳴らさない。
人々のざわめきを聞く。
子どもの泣きかけた息を聞く。
誰かが靴底で石畳を擦る音を聞く。
街には、音がある。
ただ、まだ音楽にはなっていない。
⸻
ミラは、低い音から始めた。
強くはない。
押しつけない。
人の呼吸の下へ、そっと潜り込むような音。
弦が鳴る。
広場の空気が、少しだけ揺れる。
歌い出す。
勇者の歌ではない。
勝利の歌でもない。
誰かが敵を倒してくれる歌ではない。
迷ってもいい。
怖くてもいい。
逃げた日があってもいい。
それでも、足を前に出せるなら。
それは、まだ終わりじゃない。
そんな歌だった。
⸻
観客の顔が見える。
腕を組んだ男。
目を伏せる老人。
泣きそうな子ども。
何かを言いたげな商人。
届いているのか。
届いていないのか。
分からない。
ミラは歌いながら、自分に問う。
(届いてる?)
答えは返ってこない。
だから、もう一つの答えを出す。
(届かなくても、やる)
指を動かす。
声を落とす。
強くするのではなく、深くする。
励ますのではない。
命令するのでもない。
ただ、隣に置く。
音は、そういうものでもいいはずだった。
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演奏が終わった。
すぐに大きな拍手は起こらない。
沈黙。
広場の誰かが、ゆっくりと手を叩いた。
それに、別の誰かが続く。
まばらな拍手だった。
けれど、確かにある。
ミラは軽く頭を下げた。
喉が乾いている。
胸の奥が痛い。
それでも、立っていた。
⸻
舞台裏。
人の気配が遠ざかる。
ミラは壁にもたれて座り込んだ。
ギターを抱える。
指先にはまだ弦の感触が残っている。
(音楽で世界を救う?)
自分で思って、自分で苦笑した。
「バカみたい」
小さく呟く。
飢えた人に、音は届くのか。
家を失った人に、歌は意味を持つのか。
死と隣り合わせの生活に、旋律なんて役に立つのか。
勇者の剣と違って、音楽には即効性がない。
コムギの補給みたいに、喉を潤すこともできない。
フィーの力みたいに、呼吸を整えることもできない。
戦場の呼吸なら、揃えられる。
《リズム・ドミネーター》としてなら、拍を読める。
足音も、呼吸も、恐怖の波も、戦意の落ち方も。
でも、それは能力だ。
それは音楽なのか。
ミラはギターを抱く腕に、少しだけ力を込めた。
(でも)
アンタイトルの子どもの顔が浮かぶ。
エリシアの言葉が、誰かから伝わったわけではない。
ただ、講演のあとに見た。
それまで天蓋の下で眠っていた少女が、自分の足で立っていたこと。
音を聞いた誰かの目に、ほんの少しだけ光が戻った瞬間。
(あれは、嘘じゃない)
ミラは目を閉じる。
音は、届くことがある。
全部じゃなくても。
たった一人にでも。
⸻
足音がした。
ギルド職員が、舞台裏へ顔を出す。
「ミラさん」
「なに?」
「次は西の街ですか?」
「うん」
即答だった。
職員の顔が曇る。
「危険ですよ」
「知ってる」
「勇者の光が薄くなってから、西側は不安定です。小規模な暴動もありますし、街道の魔物も増えています」
「知ってる」
「それでも?」
ミラはギターを背負い直す。
「だから行く」
職員は言葉に詰まった。
ミラは笑う。
「安全な場所で歌っても、まあ、それはそれで意味あるけどさ」
少しだけ視線を落とす。
「今、音が必要なのは、たぶんそっちでしょ」
⸻
夜。
宿の窓辺。
ミラは一人で座っていた。
遠くの山を見ている。
街の灯りは、思っていたより少ない。
勇者の話題は、以前ほど人を明るくしない。
あれだけ世界の中心だった光が、今は不在の形で人々の不安を照らしている。
(団長、今どこにいるのよ)
思い出す。
名前を預けた夜。
自分の拍で立つと決めた瞬間。
(あたしは、逃げないって決めたんだから)
風が吹いた。
窓の外で、馬の蹄の音が小さく響く。
ミラはまだ気づかない。
近づいていることに。
⸻
翌日。
西へ向かう街道。
荷馬車が行き交っている。
ミラは歩いていた。
徒歩だ。
馬車に乗る金がないわけではない。
ないわけではないが、節約は必要だった。
講演で得た金の多くは、次の街へ持っていく食料や、壊れた楽器の修理費に消える。
音楽活動は、意外と現実的だ。
「ロックって金かかるわね……」
自分で言って、少し笑う。
その時だった。
前方から、見覚えのある影が歩いてくる。
腕を組んだ男。
自信ありげな立ち姿。
なのに、どこか少しだけ不安そうな顔。
その後ろに、フィー。
コムギ。
クラウス。
そして、丸いもの。
ミラは立ち止まった。
「……は?」
トンヌラも止まる。
短い沈黙。
風が、二人の間を抜けていく。
「なんでいるのよ」
「迎えに来た」
即答だった。
ミラは一瞬、笑いそうになった。
けれど、こらえる。
「誰が頼んだのよ」
「頼まれていない」
「……あんたほんと勝手」
「よく言われる」
「もっと反省しなさいよ」
「検討する」
「しないやつの返事じゃん」
⸻
フィーがやわらかく会釈する。
「お久しぶりです、ミラさん」
「フィー、顔色悪くない?」
「少しだけです」
「少しって顔じゃないけど」
コムギが手を振る。
「ミラさん!」
「コムギ、リュックでかくなってない?」
「必要なものが増えました!」
「成長するの、そこなんだ」
クラウスはいつものように微笑む。
「お元気そうで何よりです」
「そっちは相変わらず胡散臭いわね」
「褒め言葉として受け取ります」
「違う」
ぽめは寝ていた。
街道の真ん中で。
「……これも相変わらずね」
「くぁ……」
ぽめが小さく鳴いた。
返事なのか、寝言なのかは分からない。
⸻
ミラは視線を逸らした。
少しだけ、目が潤んでいる。
気づかせない。
「聞いたわよ」
声はいつもの調子に戻そうとしていた。
「アンタイトル」
トンヌラが頷く。
「ああ」
「富豪が支援?」
「メルグラフが来た」
「へえ」
ミラは口元を歪める。
「金持ちが急に善人ぶったわけ?」
「そうかもしれん」
「否定しないのね」
「だが」
トンヌラは言った。
「音が届いたらしい」
ミラの喉が詰まった。
足が止まる。
「……誰に」
「エリシアだ」
風が吹く。
ミラは何も言わない。
トンヌラは続けた。
「音は届いています、と伝えてくれと言われた」
ミラは、しばらく黙った。
ギターの紐を握る指に力が入る。
「……そう」
それだけ言う。
それ以上は、今は無理だった。
⸻
歩き出す。
並んで。
しばらく誰も話さなかった。
街道の土を踏む音だけが続く。
やがて、ミラが小さく言った。
「ねえ」
「なんだ」
ミラは前を見たまま問う。
「音楽で、世界救えると思う?」
直球だった。
軽い調子ではなかった。
冗談でもない。
勇者とは違う。
剣でもない。
魔法でもない。
補給でも、調律でも、因果でもない。
不確かな力。
自分が信じたいもの。
でも、本当に信じていいのか分からないもの。
⸻
トンヌラはすぐには答えなかった。
珍しく。
歩きながら、少しだけ考える。
風が吹く。
遠くで、荷馬車の鈴が鳴った。
「知らん」
正直だった。
ミラが眉をひそめる。
「そこは嘘でも救えるって言いなさいよ」
「知らんものは知らん」
「ほんっと、そういうとこ」
「だが」
トンヌラは続ける。
「救いたいと思うなら、やれ」
ミラが横を見る。
「結果は後からついてくる」
「ずいぶん雑ね」
「雑でも、歩けるなら十分だ」
ミラはじっとトンヌラを見る。
「勇者みたいなこと言うじゃん」
「俺は勇者ではない」
即答だった。
「だろうね」
ミラは少しだけ笑った。
その笑いは、さっきより自然だった。
⸻
クラウスが前方を見る。
空気がわずかに変わった。
西の空。
遠く、薄く灰色が滲んでいる。
雲ではない。
霧でもない。
景色の端が、灰を混ぜた水に浸されたように歪んでいる。
フィーが足を止めた。
「……嫌な感じがします」
コムギも眉をひそめる。
「空気が重いです」
ミラはギターの紐を握る。
「何あれ」
クラウスが目を細める。
「力場ですね」
「また面倒なやつ?」
「おそらく」
トンヌラは西を見た。
勇者はいない。
サトウはネームドの里へ向かった。
ガルドが護衛している。
今この場にいるのは、自分たちだけだ。
だが、それで止まる理由にはならなかった。
⸻
前方から、伝令が駆けてくる。
ギルドの印をつけた若い男だった。
息を切らし、顔色は悪い。
「緊急要請!」
馬から飛び降りるように降り、叫ぶ。
「西方砂漠に異常発生!」
トンヌラたちは一斉に視線を向ける。
伝令は続けた。
「灰色の力場を確認! 魔物が溢れています!」
クラウスが低く呟く。
「グレイフィールド……」
「知ってるの?」
ミラが聞く。
「記録上は」
クラウスの表情は硬い。
「極めて面倒です」
「その言い方、だいたい最悪って意味よね」
「はい」
「即答やめて」
⸻
ミラとトンヌラが顔を見合わせる。
さっきまで、音楽で世界を救えるかどうかを話していた。
その答えは出ていない。
だが、行く場所だけは決まった。
「行くわよ」
ミラが言う。
「当然だ」
トンヌラが答える。
フィーが頷く。
コムギがリュックの紐を握り直す。
クラウスが静かに前を見る。
ぽめが、眠そうに一つあくびをした。
「……ふぁ」
⸻
勇者はいない。
だが。
音と、補給と、調律と、縫合と、名を呼ぶ者がいる。
そして、丸い犬がいる。
⸻
ここはレイアノーティア。
剣だけが希望じゃない。
だが希望は、いつも危険な方へ向かう。
⸻
第90話 了




